2010-03-21

【週俳2月の俳句を読む】 馬場龍吉

【週俳2月の俳句を読む】
近づいて詠む俳句と遠のいて詠む俳句……馬場龍吉

ねんねこをおろせばその子歩きをり  田中英花

子育ての実感がここにある。ハイハイも出来ない子どもではなく、歩けるようになった子どもはとにかく歩きたがるものだ。親としては危 険だから背負うのだが、下ろすやいなや歩き出す。子どものパワーと好奇心を感じる作品。

第1句集『じやがたらの花』を昨夏上梓されたばかりの英花氏。ふつうの言葉を組み立てて詩をつくる名手と言える。つまり子どもの言葉 には勝てないのと同じくらいの組み立てなのだ

さびしさの転がつてゐる雛あられ  田中英花『じやがたらの花』より

ころがつてゆくどんぐりに追ひつけず

一本の影いつぽんのねこじやらし

ふるさとは月にしたがふ秋収

あをぞらのはづれに父の焚火かな

近づけば見えなくなりぬ冬の梅

こういうことってある。遠くで見るのがいいのか近くで見るのがいいのか。それが問題だ。奇を衒った言葉遣いのない分、読み 手も素直な気分で鑑賞できるというものだ。

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尻据ゑて湯船きゆと鳴る霜夜かな  古谷空色

寒気のなかを帰ってくる楽しみに酒と湯があるだろう。湯舟の底で体制を変えるときに鳴る「きゅ」。つくづくわが家の良さを感じるとい うもの。

桃の花猫のまぶたのもう閉ぢさう

開花の桃の花に眠りかけの猫のまぶたの配置に、うららかな温度を感じる作品である。

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水牛の背に布を敷き時雨けり  西村我尼吾

〈遅き日の従者の背窓軍用機〉いきなり緊張感から始まる『アセアン』の連作。考えてみれば日本以外は緊張のただなかに国家がある。日 本も安穏の世界にあるとは断言出来ないのだが。掲句の水牛には野生の骨格が見える。背にかける布は人を乗せるためのものか荷を乗せる ためのものか判らないのだがずっしりとした亜細亜の生活感を感じる。

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生成りやらオフホワイトやらあたたかし  三浦 郁

この色はほぼ同じことを言っているに違いないのだがビミョーに違うのだろう。おおまかに言ってしまえば「白」の違い。これからの春に はさまざまな色が街に増えていくことだろう。白=無色ではなく、生成り・オフホワイトには温みの色がある。

  

薄命の地球金縷梅咲きにけり  守屋明俊

花なのか芽吹きなのかはっきりしないまんさくの開花と「薄命の地球」の取り合わせに、どちらもうっすらとした命の重さを思う。長 いと短いの違いはあれ一つの生命には違い無いのだ。そこには重い軽いは無い。

啓蟄やマキの喪明けの線路の音

年代によって時代の象徴は違うものだが、『赤い橋』を歌う「浅川マキ」は70年代、昭和を背負った一人だった。美空ひばりが逝って昭 和が終わり、浅川マキが逝って昭和が遠ざかった。線路に軋む車輪の音は時代を走り抜ける。

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朧夜の戸板で作る小舟かな   小倉喜郎

戸板はそこに何かを載せて運ぶものだと思っていたが、それで作る小舟とはどういう舟なのだろうか。朧のしかも夜にである。ま るで四次元の海に漕ぎ出す舟を作っているような。

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獅子舞に噛ます華甲の頭かな   伊藤伊那男

「華甲」とは、数え年で61歳。還暦。華年のことを言うのだそうな。実際に身辺にそういうことが無いと思い出しそうにもない言葉である。
伊那男氏も骨太の第二句集『知名なほ』を昨夏に上梓されている。

桑畑を吹かれてきたる獅子頭   伊藤伊那男『知名なほ』より

嚔してふつとあの世を見し思ひ

木曾殿の墓打つてゐる男梅雨

一茶忌の藁引き合へる雀かな

妻と会ふためのまなぶた日向ぼこ

手毬唄久しく聞かず忘れたり

毛糸玉転がしてみてまだ編まず

大人の俳句があるとすれば氏の俳句であろう。俳諧を自在に塾して余りある。掲句は諧謔。

心の臓のみのくれなゐ雪女郎

雪女がまるでクリオネのようである。赤々と脈打つ心臓が透けて見え、鮮明に印象に残る。こういう見てきたような嘘が言えるのも大人で ある。いやいや氏はほんとうに見たことがあるのかもしれない。

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俳句は近づいたから本質を詠めるものでなく、遠くから見ているから全体が詠めるというものでもない。まことにやっかいな創作である。い つでもどんなときにも俯瞰できる目をいかに養うことが出来るかによるのかもしれない。


田中英花 おほ かたは 10句 ≫読む
古谷空色 春夕焼 10句 ≫ 読む
伊藤伊那男 華甲の頭 10句  ≫読む
西村我尼吾 アセアン   10句  ≫読む
三浦 郁 きさらぎ  10句  ≫読む
守屋明俊 浅川マキ追悼  10句  ≫読む
小倉喜郎 春の宵  10句  ≫読む
裏 悪水 悲しい大蛇  10句  ≫読む

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