2010-03-14

中学生が読む新撰21 第2回 佐藤文香・神野紗希

中学生が読む新撰21 
第2回 佐藤文香・神野紗希……山口萌人・青木ともじ

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載
佐藤文香論……山口萌人

少女みな紺の水着を絞りけり

佐藤文香氏は、先月特集した山口優夢氏・谷雄介氏と同じ年の生まれである。僕自身は「海藻標本」出版の際にすでにその存在は知っていたので、彼女のそれ以後の句を読むのを楽しみにしていた。

まず彼女の百句は、季節に些か偏りがあることを断わっておこう。すべて数え上げてみると、

春   二三句
夏   四一句
秋   一四句
冬   一七句
新年   一句
無季   四句

となり、圧倒的に夏の句が多い。それが俳句甲子園出身者であるという彼女の経歴によるものなのか、それとも別の理由から来るのかは分からない。しかし、その多数を占める夏の句に、彼女の感性が光るものが多いように感じる。

掲句もそうである。百句に入っている上、「海藻標本」の最初の句でもある。どこか西洋絵画的な景の切り取り方(一つの人に注目するだけでなく、人間の集合を全体で捉える)を水着という季語で行ったのは面白い。

ここからは、新撰21に入っていなかった「海藻標本」の句も見ながら、その句に関して少し考えてみようと思う。


  霧吹の口淋しさや春の宵   
  夏の蝶自画像の目は開いてゐる

  晩夏のキネマ氏名をありつたけ流し

右三句は、彼女の句の中で、物体を描いたものである。一句目、台所などに霧吹が置かれていて、その口がどこか心許ない様子をしているのをよく表している。二句目、自画像というのは鏡に対面するなどして描くことを思うと、確かに「目は開いてゐる」はずである。夏蝶がそのようなアトリエにいるのだろうか。三句目、いかにも映画のエンドロールである。「晩夏」を感じているのだから、自宅のテレビ画面で映画を視ているのだろう、映画館ではあるまい。「ありつたけ流し」というところからもどこか夏の川を想起させてくれる。このように、ある景色を見た時に、それを(誰も言ったことのない)独自の的確な表現で構築しなおす、という描き方が彼女の句の特色である。そしてその題材は、身の回りの物(生活用品や食べ物)を中心としている。今までに挙げた句でも、水着、霧吹、キネマなど、生活に密着したものが多いようだ。一方、純粋な自然詠というものはなかなか無い。

ここで彼女の句の題材を考察すると同時に、先程あまり挙げなかった人間の描き方について考えてみよう。そもそも彼女の句の中では、人間という対象はあまり注目して描かれない。もし登場したとしてもそれは人格を持って描かれているというよりはむしろ背景の一部として非常に無機的に捉えられている。この例が

 海開その海にゐる人々よ

などである。当然その表現に主観は殆ど混じらないし、さらにその人々には動きは感じられない(そういった意味では、「少女みな」は特異な句であろう)つまり、彼女は何を描くときにも感情を込めずに、あくまで静物として表現している、ということである。この詠みぶりは「海藻標本」にも現れており、

  春の波人の近くに終はるなり     (海藻標本)

人間が背景として描かれている、と言ったことが分かって頂けると思う。
 
二 
  蜩や神戸の地図を折りたたむ
  夕刊に凍蜂の死を包みけり

一句目、残暑の中を地図を片手に歩く際のうだるような暑さは、「蜩」がよく支援している。神戸は南北に狭い土地の中にたくさんの人と坂が犇めいている街であり、季感にも合う。余談だが、この地図を持って歩いている人にとって神戸は初めて訪れる街であって欲しい。二句目、「けり」が句をしっかりと整えており、死を悼むというテーマに即している詠みぶりだと思われる。「夕」と「死」のイメージが合う。

文香氏の句は定型を崩さない。破調や耳につくような字余りは稀にしかないし、そのようなことをするのは破調にしなければ面白味が無い句に対してだけである。そのため、彼女の句にはしっかりとした安定感があり、いかにも俳句らしい後味の良さと余韻を感じる。
 

  水加減見に行つたきり敗戦日
  忘るるにつかふ一日蔦茂る

一句目は中七「見に行つたきり」と季語「敗戦日」の表現の上での繋がりを狙ったもの、二句目は考えが錯綜している様子と蔦のイメージ上の繋がりを狙ったものと思われる。しかし、これらは多少実感に欠けるところがあり、所謂「頭の中で作った句」のようだと容易に分かる。彼女自身も「サライ」二〇〇九年十月号誌上の金子兜太・小沢昭一の両氏との対談において兜太氏に「水加減」の句が理屈だと言われて、

「戦争を詠む責任はあると思うのですが、やっぱり頭の中で消化しきれていない。だから、金子先生のおっしゃる、頭で考えた句というのは100%正解です。」
「俳句鼎談」―「サライ」二〇〇九年十月号

と明言している。百句にはこういった「嘘」や「理屈」のようなものがいくつかあるが、逆に同じような描き方にもかかわらず面白く描写されている句として挙げられるのが、

  知らない町の吹雪のなかは知ってゐる

である。これは言葉も明快であり、その成功した理由は措辞に対する季語の的確さであろう(ここで少しばかり脱線すると、句が理屈にならないためには先程述べた「措辞に対する季語の選択」とその理解が重要であるといえる。特に「実感としての季語」に出会う機会が減っている現代ではなおさらである。「俳句想望俳句(「新撰21」越智友亮小論より)」とはよく言ったものである)

ここに至って思うのが、彼女の詠みぶりが(遥か上の世代からの評価で言われるところ)の「若者らしさ」を兼ね備えたものではないということである。俳句甲子園で高い評価を得た、

  夕立の一粒源氏物語    (第五回大会最優秀賞)

に始まり、すでにその句は他の俳人とは全く違う目で身の回りを観察しているようである。彼女の句はこれからも無人の空間の中を描き続けるのだろうか。そのドライな再現力が生かされ続けることを祈っている。

(注)句は邑書林「新撰21」による。ただし(海藻標本)とあるものはふらんす堂「海藻標本」、(第五回大会最優秀賞)とあるものは俳句甲子園公式ホームページによる。


神野紗希論……青木ともじ


私も今回でこの記事も二回目となり、週刊俳句にも記事を載せて頂けることとなった。うれしくもあるのだが、私は駄文であるがゆえに、逆にプレッシャーを大きく感じるものである。

さて、神野紗希氏には数度お会いしたことがあるのだが、そのうちの一度は句会にご一緒させて頂き、彼女の俳句を直接見ることができた。実に光栄なことである。そうして今このような場で彼女の句を改めてじっくりと鑑賞することができるのも良い機会であるので、力を入れることとしよう。


   三月来るナウマンゾウのように来る

私が彼女の句に出会ったのは俳句を初めて間もない中学一年生の頃である。そのときに見たのがこの句であるが、当時は俳句のはの字も知らない身の上であったので、なにやらすごい句だ、としか感じなかった。しかし、今にして思えばそこが彼女の句の魅力なのではないかと思う。何処が良いか、と問われても的確な答えは見つからないかも知れないが、それでも良い句だ、と思える。新撰21では江渡華子氏が「違和感という魅力」という表現を使っているが、これは神野氏の句の特長をよく言い表せているのではないだろうか。江渡氏の文の中には「屈折して捉えられた世界は第三者に違和感を与え、振り返らせることができる。」とあるが、私もまたその違和感に振り返らされた。この句の場合「ナウマンゾウのように」というのが眼目である。三月の来ることを「ナウマンゾウ」に例えるのは常人には考え付かない発想であり、いざ我々が作ろうと思うと抽象的すぎて共感をまったくといっていいほど得られないような句になってしまうこともある。だが彼女の句はそうではない。これといった理由は思いつかないが、彼女の比喩は独創的であっても独善的でないからなのだろう。それは私の目指すところでもあり、また、ある種の才能なのかもしれない。


   起立礼着席青葉風過ぎた

百あるうちの最初の句であるが、なんとも気分の良い句である。「起立!礼!着席!」という授業の始まりの号令の状況が目に見えるように浮かんでくる。ましてや現在学生である私となってはなおさらである。江渡氏の文にあるようにこれは神野氏が学生時代に作ったものであるが、このような題材は学生でなければ詠めないことだろう。この句の素晴らしきところは、まずは目の付け所である。授業開始(終了かもしれないが)の号令を題材としたことがこの句の大きな魅力のひとつであり、共感を呼ぶ所以であろう。もうひとつは「青葉風」をつけたことである。学生の持つ若々しさとともに号令の際の勢いのよさを一言で表している。この句は深く掘り下げればよりいっそう魅力が出てくる。しかし私としては深く鑑賞しないでおきたくもある。この句の何よりの魅力は何も考えずに一読した時に感じる新鮮さだと思うからである。「起立礼着席」という漢語の羅列がスパッとした切れを感じ、音韻上の潔さもあって良い。


  団栗にまだ傷のなき光かな
  団栗の芯まで冷えていたりけり

  団栗のみな割れている日永かな

百句の中には団栗の句が三つあったが、私はここにちょっとしたストーリー性を感じた。団栗について三句も詠むこと自体凄いが、それぞれに違った景を描きつつ、どこかで同じ世界観を築いている。この三句には団栗の一生のようなものを考えさせられる。あくまで私の鑑賞だが、初々しい温かみのある団栗からだんだん朽ちてゆき終には滅びるという流れがあるように思えた。この三句は感覚的な句であったり、繊細な写生句であったりするが、それぞれに独立的な面白さがあるのがまた良い。そして、この三句はばらばらな位置にありながら私の目に留まった。それだけ良い意味での「違和感」を持っているのだろう。こういうところでも彼女のもつ読者を「振り返らせる」力を感じるのである。



ここまで神野紗希氏らしさというものを考えてきたのだが、各句を単体として見てもやはりそこに魅力はある。それを少し見てみることとしよう。

  影よりも薄く雛を仕舞う紙
  凍星や永久に前進する玩具

雛の句は「影よりも薄く」という比喩が実に上手い。雛人形の包み紙の感じはまさにこのような感じであろう。「影よりも薄く」という比喩を具体的に述べるのはむつかしい。しかしそれが比喩として的確に表現されていることは誰が見ても明らかであろう。身近の事柄を簡潔な表現による比喩で表していて、共感性を生むと同時に新鮮さを感じるのである。

凍星の句はまずフレーズの面白さがある。私は機械仕掛けの熊の人形みたいなものを想像した。それを「永久に前進する玩具」と言い表したのは実感があるのだが、どこかで現実から離れた別の世界観を持っている。それを支援しているのは凍星であろうか、その冷たさと永久という言葉がよくあっていて、ひとつの世界に統一させている。現実的要素を非現実的要素と取り合わせることで読者の中で景の飛躍が生まれて、自然に深みを感じるのである。

五 
   カンバスの余白八月十五日

私はこれが百句の中で最も好きであるのだが、これにも根拠なき魅力を感じる。この句を生かしているのは八月十五日という季語である。理由を考えるとすると、終戦の空虚さの中にある喜びとカンバスの白い「無」の環境にある光とがどこかでつながっているところであろう。私は海へ向けてカンバスを立てているのかと思った。カンバスだからきっと油絵を描いているのだろう。そこにある余白は未完成によるものなのか、完成した絵の空白なのかはわからないが、いずれにしても油絵の持つ鈍い光と余白の持つ透き通った光、それらの間に終戦の思いというものが見て取れるのではないか。八月十五日という季語は歴史的な季語なだけに景が偏りがちなところがあるような気がする。しかし、彼女の句はカンバスというごく身近な明るい題材を使っているという新しさもあり、八月十五日という季語の持つ違った一面を見せられたように思う。


私は俳句を次の二つのタイプに分けて考えている。
〇一読したときの新鮮さを楽しむ句
〇深く鑑賞することでより深みを増す句
私個人の感覚からいっては前者のほうが断然むつかしいと思っている。俳句というのは理屈だけでは作れない所があるが、こちらはさらにセンスが必要になってくるのだと思っているのである。神野氏の句においては前者が特に目立つようである。彼女の句の中にあるフレーズの斬新さは読者の目に必ず留まるだろう。それは彼女の持つ才能と言って良い。少なくとも新撰21における百句では「違和感という魅力」を使いこなせている。また、彼女の作る句はそれだけではない。「深く鑑賞することでより深みを増す句」においても良い句が少なくはないのである。四で述べた句もそうであるが、他にも、

  天道虫死んではみ出たままの翅
  右左左右右秋の鳩  

などは写生の目が良く効いていると思う。天道虫の句は我々が一度は見たことのある情景だが、あえて句にした者も居ないだろうといったところを詠んでいるし、鳩の句も「右左左右右」というところが臨場感のある表現で面白いし、実感はあるだろう。

   黒板にDo your bestぼたん雪 

に代表するが、英語をつかう、という新しいことをやっているのは魅力的である。繰り返しになるが、彼女の俳句は全体的に新鮮さを持っている。それは読者が句をじっくり鑑賞する前の段階ですでにその魅力を感じさせるという力がある。そしてそれが見せかけの新鮮さではなく、深みのある新鮮さを持っているのは彼女の俳句の上手さなのであろう。


神野紗希氏の句は比較的古典的な句を多く見ている私にとってはとても新鮮であった。彼女の句の斬新なフレーズは私の目指す所でもあり、読者としても好むタイプの句である。私としては新しい俳句にめぐり合えたような気分になり、よい刺激となる百句であった。





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