2010-03-07

【本号川柳作品を読む】フィールドに立つ裸形のことば 湊圭史

【本号川柳作品を読む】
フィールドに立つ裸形のことば

湊 圭史


川柳はジャンルではないという意見がある、とある柳人から聞いた。俳句において「俳句形式」というように、川柳について「川柳形式」というと滑稽に聞こえるように思う。では、川柳とは何なのか? 今の私の考えでは、川柳とはフィールドである、となる。日本語で言うと「場」なのだが、物理学で電場、磁場、重力場などという時の「場」をイメージしていただきたい。

さらに言うなら、川柳はカオティックな(混沌とした)フィールドである。川柳の一句、或いは一人の柳人(の作品)はフィールドに働く力を確かに受けているのだが、その力の受け方は多様であって、力の受け方を例えば「川柳性」と呼ぶにしても、それだけを切り離して論じることは困難である。句を読んで「これこそ川柳だ!」と思うことがあったとしても、それはその句、その場に現れた川柳性であって、概念化・抽象化しようとするとたちまち逃れ去っていく。

ややこしい言い回しになったが、ここ一年余り集中して現代川柳を読み、句会や批評会などの川柳の場に参加してきた私の実感でもある。個々の柳人の存在感の濃さと、「では川柳とは何か?」と問うたときの掴みどころのなさ。この一見、相反した二つの印象は、川柳というフィールドについて、重要な何事かを示唆していると思う。どうしても回りくどい言い方になるのは、結局、川柳というカオス(混沌)の魅力は、それぞれの句、柳人に働く「川柳性」の力にしかないだろうとも考えるからだ――。

と、少しばかり重苦しい堂々巡り気味の前ふりをした上で、今号掲載の作品を読んでいくわけだが、この6柳人に共通した川柳の「形式」は、基本、575音であるという辺りにしかないのかも知れないと感じる。むしろ個々の文体が裸形のままで読者に突き当たってくる、まさにカオスの力を感じ取ることにしたい。「川柳とは何か?」という問いへの答えをこの特集に求められた読者には申しわけないが、私のここでの任は句のもつ力を減じることなく補助線を引くことでしかありえない。

理想としては、今号の句と散文、それにこの鑑賞文を合わせて読んでいただいた後、川柳とは一体何なのかがさらに分からなくなり、フィールドに広がるカオスを見回して途方にくれるなり、眩暈を覚えるなりしていただけると嬉しい。



石部明「格子戸の奥」7句は、川柳というカオスの中心へと真っ直ぐに鉛錘をたらしている。古川柳の文脈なら格子戸の奥には着飾った花魁が腰を据えているだろうが、石部の句では境界の向こうは異界であり、カオスであり、エロスに満ちた死の世界である。

湖底より数多の瘤が浮いてくる

湖の底から浮き上がってくる瘤。心理を描いた句ととるなら、無意識に残る痛みがふとした瞬間によみがえってくるといったところか。しかし、この句の読みどころは「数多の」にあって、この形容によって「瘤」から人称が剥ぎとられる。打撃を受けたのは個人だったはずなのに、浮きあがってきた異様なイメージにはその徴がまったく欠けている。下五の「浮いてくる」には「瘤」に対する感情は見えず、異界に据えられた視線の強さだけが際立つ。

いじらしく胸をひらいて天秤座

「胸をひらいて」は服をはだけて乳房を見せている性的なイメージか、さらに胸のうちまでさらけ出しているのか。実際の星座のかたちも句の描写に合うが、星座占いによると天秤座の人は理知的で控え目だということだし、天秤が水平になることで何かを量る器具であることを考えれば、その器具を重ねた星の並びをもまた理性のシンボルと見るのは妥当だろう。では、理性そのものが胸を開いてみせたとき、そこに何が見えるのか……。「いじらしく」と可憐に始まった句についていくと、いつの間にか、視野を底の見えない奈落の暗がりが覆っている。

死のように孔雀の喉のはしき青

「死」を正面から描いていると読みたい。形としては「死のように」が後半を修飾しているわけだが、「孔雀の喉のはしき青」という細部への注視のほうが、「死」への強い関心から引き出されたと思われる。翼の左右対称の模様に挟まれて青く伸びた孔雀の首に、ひときわ青の鮮やかな部分がある、とイメージすると、前句の胸をひらく「天秤座」のイメージにも重なる。さて、理性や美を超えて視線を惹きつけるものとは何か? 読者は「孔雀の喉のはしき青」に「死」の誘惑が匂い立つのを感覚するだろう。

石部の句は、いわく言い難い「何か」を指差して静かに立っている。こうした句を生み出す作者がどこかでカオスや死に魅入られているだろうことは確かだと思われるが、一句一句のたたずまいは心理的な拘泥をすっぱりと切り落して、読者をある視点に立たせることだけに集中している(この意味では、古川柳の佳句とも共通する印象がある)。石部の川柳性とは、一句一句に強固に完成されたこの立ち位置と、そこから見えるものにも揺らぐことがない視線にあると思われる。



石田柊馬「キャラ」は、題詠的群作のかたちをとって時流をテーマとしてとり上げ、川柳についての通念にも正面から突き当たってみせる。7句共通の題はタイトル通り、「キャラ」(これ以上、現代風に軽薄な題を思いつくのも難しいだろう)。一句目で、キャラを演じないと存在を認知されない、今日の軽薄なマスメディア的世界観をそのまま写し取って共感を誘いながら、

今日中に卵焼き的キャラ創れ

と二句目でマーケティング的発想を読み下し、そうした甘えをすっぱり断ち切る。「今日中に」や「卵焼き的」なるいかにも雑な言い回しも計算しつくされて置かれ、隙がない。「卵焼き的キャラ」とは、ナンセンスぎりぎりでありながら、そうしたナンセンスが現在の日常であると知らせる絶妙なコントロール。サラリーマン川柳などのいわゆるジャンル川柳では、最終的な読みの落ち着きどころは常に共感である。対して、石田や次の渡辺隆夫の句においては、共感は起点にしかすぎない。

体温で分ける猫キャラうさぎキャラ

三句目になると、共感そのものが批評の対象として俎上に載せられる。「体温」とは、まさに共感の基盤となる、しかしあいまいな領域である。ところが、微妙な違いをことさら目に見えるようにするキャラ産業は、キャラ的価値観では本来は把握できないはずのものをも自らへと回収してしまう。5句目の「スイカの~」からは、キャラが元々それを作り出した者の意志を離れて自己主張し始めて、現実のほうがそれにつき従っている現状がテーマとなってくる。そして、

水菜的キャラ蕪的キャラ分化せよ

「水菜的」とは渋い、などと反応してしまう自分にキャラ的価値観の浸透を改めて感じるわけだが、それはさておき、「分化せよ」とここではすでに、キャラは外から操作されるものではなく、自己発生的に増殖するものとなっている。「卵焼き的キャラ創れ」と上司が命じてくれていた人間的な時代が懐かしいほどだが、そうしたノスタルジアも「水菜」「蕪」といった純和風キャラへと回収されかねない。そして、7句目、七面倒臭い議論を呼びそうなここまでの展開を、あっさりとひっくり返してみせる哄笑の句で締め――。

川柳(あるいは文芸一般)の力の一つにカオス的要素があるとして、今、目の前にある現実という真のカオスに対してどう対処するのか? 石田の句は、言葉と現実との両者にあくまでも軽く触れ合う角度を保つことで、川柳がジャンルではなくフィールドであるところに由来するフットワークを最大限に生かしている。この軽みは、題詠がもつ可能性も含めて、俳人にも興味があるところかと思うがいかがだろう?



次は、渡辺隆夫「ゴテゴテ川柳」。川柳=時事批評という固定観念がある方は、ここまで来てほっとするかも知れない。ところが、渡辺川柳にうかつに近づくときれいに足払いをかまされる。「みんなそう思ってるんだ」という安易な落ち着きどころを求める姿勢をすかされ、現在をうっすらと覆っている安手のヒューマニズムの居心地よさを破られて、「そこまで言わなくても……」と心底、凹むことになるのだ。

欠航毛だらけANA糞だらけ

「けっこう毛だらけ猫灰だらけ、お尻の周りは糞だらけ」とは寅さんの名ゼリフ。歳時記でお馴染みの「竈猫」からスカトロへ、「庶民」の軽やかな笑いと共感を誘う威勢のよい啖呵である。比較するに、渡辺の句では、隙の一つもない構成に笑わされてしまうとしても、その笑いは徹底して苦い。一句目のJALの句もそうだが、句の中に読者の(遡っては作者の)落ち着ける立ち位置がない、というよりきれいさっぱり削り取られていて、「私もあなたも庶民」などといった安手で時代遅れでもある甘えを拒絶されるからだ。

カミの御告げで自爆するヒト

川柳では十四字詩と呼ぶことが多い77の句。すっぱりと言い切った粋がこの形式の味だが、風刺句では余り見ない。短すぎて、はっきりいってミもフタもなくなるからだが、ここではそのミもフタもなさが逆用されている。句中に自爆テロについての価値判断は見いだせない(「カミ」、「ヒト」の片仮名による付き離しかたを見よ)。こうした行為をこうした心持ちで行う人がいる事実がただ投げ出されている。「津波の町の揃う命日」(『俳諧武玉川』(初篇))と比べて、惨事を十四字詩で書いた場合の現在性がどこにあるか、という辺りに読みのポイントを置くのも面白い。

裁判員より仕分人が面白い

もちろん作者は、裁判員制度にしろ仕分人騒ぎにしろ、「面白い」なんてちっとも思ってはいない。実感としては、どうでもいいと思っているのだ。しかし、ちょっと待てよ、本当はどうでもよくはないはずだ、という生真面目さが書かせた句であることが、この下五の「面白い」には表れている気がする。そういう意味では、7句のなかではこの最後の一句が、一般読者に優しい、親切な句かも知れない。

「そこまで言わなくても……」と書いたが、渡辺は作者としては、むしろ寡黙である。ある社会的事象があるとして、そのありふれた解釈であっても、さらには自分独自の解釈でさえも、この作者は底の底から疑う性向があるのだ。そこで一貫した戦略として採用されるのが、事象から浮かび上がってきた言葉をあくまで表層でとらえ、川柳というフィールドへと乗せるというあざやかな軽業だ。後は、それぞれの言葉が饒舌に語り出すだろう。現実のカオスに言葉が対峙する、もっともシンプルなかたちがここにはある。



樋口由紀子の7句のタイトルは「ないないづくし」。「ない」と断言することで、書かないことをハラワタに染みるように読みとらせようとする。謎を含んだ句に立ち止まらされて眺めていると、「ない」の裏に「何か」の影が濃く現れてくる。6人のうちでは石部明にもっとも近いが、石部句ではカオスの中心をイメージで押さえていたところを、「ない」=無という言葉でしかありえない領域へと滲み出させる荒業である。

はっきりと思い出せない猿の足

はっきりと思い出せないものがなぜ、「猿の足」であったと言えるのか。だが実感の濃く伝わるイメージであり、外界の現実よりも強い現実感をまとっているのを否定できない。一つの読みとして言えば(というのはこの書き方では読者に読みを預ける領域が大きいからだが)、この足は私自身の足であって、だからこそ「猿の足」であると断定でき、さらに「猿の」という違和感が刻印されているから「はっきりと思い出せない」ように(精神分析学的な意味で)否認されているのだ。この違和感がどこから来ているか、が最終的な読みの鍵になるが、そこからは、読者個々人に属する謎として受け取っていただきたい。

縄梯子だらりと垂れて泣いている

7句共通のテーマとして、「家」があげられる。2句目の「台所」、4句目の「床暖房」、5句目の「非常口」。上の句も「家」のテーマを引くと、読みの糸口が見つかる。「縄梯子」とは家の天井裏というカオスへ続く通路である。誰かが上った後で、縄梯子が力なく垂れてかすかに揺れている。天井裏とは過去の遺物が置き去りにされる場所だから、この縄梯子は現在と身近な過去のつながりの不安定さの喩だろう。「ない」を前面に押し出す仕掛けは、7句の中で「記憶」と「家」という強いテーマと結びついて、句の言葉が向こう側から引き寄せてくる、私たちの現実を裏から支えるカオスを浮かび上がらせる。

わたくしと安全ピンは無関係

認識や言葉の領域では、無関係であるということで逆に関係が立ち上がってしまう。この句のように「無関係」と断言されると、この二つの間にはもちろん関係があるのだと、私たちは考え込んでしまう。さらには、「わたくし」と「安全ピン」以外のものも含めた関係も頭を過ぎるだろう。それにしても「安全ピン」という言葉はじっと眺めていると異様だ。もちろん安全なように工夫されたピンなのだから、と説明されればその通りだが、「安全」と先の尖った「ピン」という二つの単語の相反するイメージは残る。読者の心の中で、「わたくし」はこの両者とどのような関係を結ぶだろうか。

「台所俳句」という言葉があった。良妻賢母であれ悪女娼婦であれ、「家」や「台所」というものと正逆に結びつけられて、女性による詩は弱い立場へ還元されてきたわけだが、よく考えてみると、「家(家庭)」という場ほど人間のカオティックな志向がうずまくトポスは存在しない。石部句と樋口句が似ていると最初に書いたが、石部句にはカオスを確かな距離で捉える視線の強さがあるのに対して、樋口の川柳はカオスに身を寄り添わせることで日常の背後から力をくみ取ってくる。読者はどちらにより怪物性を感じるだろうか?



重い句柄か、軽い句柄かという見方をすれば、ここまで、「重/軽/軽/重」ときた。続く小池正博「起動力」は紛れもなく、「軽」に入るだろう。「起動力」とは一見、人を喰ったタイトルだが、言葉が意味や感覚を起動する契機をそのままに捉えようとしている点ではストレート過ぎるほどストレートでもある。

梅切って母の胎内思い出す

「梅の肉」と「母の胎内」。赤く柔らかい肉のイメージで、繋げやすい二つの語句だが、それだけに心理的抵抗にも焦点が当たる。もっとも、現実には「梅(を)切って」「母の胎内(を)思い出す」ということはまずない。読者はこの句を読むことで、イメージのもつ触感によって、言葉の世界の内に繋ぎ留められてしまうのだ。そして、二つのイメージの距離と、そこから湧き上がる感触に身を委ね続けることになる。イメージがテーマへと収斂することなくあくまでモチーフに留まる小池の句は、作品の要素をすべて統合して一つの意味や像に至ることを解釈・読みとする従来の考えには合わない。「ポストモダン」という語が想起されるかも知れない。

サフランを摘めば大きな物語

「大きな物語」とは、近代文明の進歩であったり、マルクス主義であったり、すべての人々の運命を一方向に導くような枠組み(の幻想)だが、現在は、そうしたものが破綻して「大きな物語」の死が叫ばれ、その叫びさえ一段落したというところ。「サフラン摘み」といえば、吉岡実の名詩のタイトルである。そこに出てくる少年のお尻のイメージが後に続く句(「ぴくぴくピンク」「偏愛の薔薇の色」)に妙に繋がってくる、という点(間テクスト的かつスカトロジックな面白さ!)はさておいても、香り立つ色鮮やかなサフランの花を摘む、五感を解放させるような行為と、無粋で大げさな概念である「大きな物語」の二つの要素は、句の安定した見かけに反して、どこまでもすれ違う。二物衝撃ならぬ、二物摩擦といったところだろうか。

パッションの虫は生まれて狂い飛び

素直(?)に読めば、射精後の精虫(精子)のことだろう。日々繰り返される私たちの無為な蕩尽について、ここまであけすけに、ぬけぬけと書くことは珍しい。さらにここに、短詩型ジャンルにおいて大量の歌句が表れては消えていく光景を重ねてみるのは読み過ぎだろうか? 小池の7句を眺めていると、句の間でも感覚の楽しみが響き合って、しかし最終的には一つの意味やイメージに至ることを拒まれる印象を抱く。川柳というフィールドにおいて、テーマ性の重力から言葉を解放すればどうなるか。一つのモデル・ケースとして小池の句作がある。

小池の句(や他の言葉の面白さに目覚めた現代川柳)を読むと、作品の要素をすべて統合して一つの意味やイメージとして表現を「純化」することが読みであるとするような、いまだに一般的な見解から自由になれる気がする。作品には単一の核があるという思考は、ヨーロッパ起源の「主体」信奉に由来するが、川柳というフィールドとそのカオティックな特性は、そうした「主体」の表現としての作品という枠組みに異議を申し立てるところがある。言葉の機動力として現代川柳と「文学」の間に生じるズレを批評的かつダイナミックに用いるところに、小池句の従来の川柳とは違う川柳性が現れる。



最後の7句は、広瀬ちえみ「鹿肉を食べた」。これまでの5人の句は川柳のフィールドから働く力を、重みにおいてであれ速さにおいてであれ、エネルギーとして最大化する方向で書かれていた。それに比べると、広瀬の句は、日常の実感にも言葉の流れにも逆らわず呟かれたという読後感がある。こういう句も許容してしまうところが、実のところは、川柳というフィールドの一番カオティックなところであるのかも知れない。

鹿肉を食べた体を出ることば

事実を掬い上げただけなのに身体的感覚も含めた驚きが伝わってくる。「鹿肉を食べた」という無造作な言い回しが、私たちが日常繰り返している食べるという所作の記憶を効果的に引き出してくるのだ。そこから、あっけらかんと表明された発見に、言葉を運ぶ息に混じる鹿肉の匂いや、食後温まった身体からの熱気が伴っていることが自ずから了解される。句から受け取る感興に立ち止まっていると、もしかすると「鹿」から和歌における「鹿の声」へ、恋歌の伝統へと繋がるかも、などと妄想が膨らまないではないが、こういう句はまず、1句目にあるように、「ボールが飛んできたら打つ」ようにして呑み込むより仕様がないだろう。

うしろ頭のうつろの中にお賽銭

現実にはあり得ない光景である。だが実感からすれば、初詣の賽銭箱に殺到する群衆の一人になったことがある人なら、心の中で一度は見たことがあると思わないだろうか。慣習化された行為に駆られて非主体的に進んでいく、前後の人波もまた自分自身も、「うしろ頭」に「うつろ」を抱えているのだ。そこで大騒ぎせず、そのまま賽銭を放り込んで、そんな自らの姿を句としてさくっと切り取って、何気ない顔をして帰ってくる。広瀬の川柳性は日常の感性を、川柳というフィールド上で自由を得た言葉にあくまでも軽く乗せるところに生まれるようだ。

満月の顔をささっと整える

雪山をところかまわずくすぐりぬ

「満月」にしろ「雪山」にしろ、俳句であれば、句に書き込まれる行為や感覚を季語として大きく枠づけることになるだろうが、ここではスケールが大きいはずのこの二つの事物が日常的な近さにまで一気に引きずり下ろされている。月の表面を急な訪問客があったときに女性がするように手早く整えたり、雪山を親戚の子供であるかのように全身くすぐってみたり。思いつきに終わりそうな詩想を一句として立たたせているのは、幻想と日常とに対して等しい距離を保つ言葉のバランス感覚だろう。

広瀬の句には、現実や川柳というフィールドに対する大上段からの問いはないものの、言葉で印象をすくい取るという短詩の面白みが川柳ならではのストレートさで定着されている。フィールド上の力を「重」か「軽」かの両極として取り出して言葉をねじ伏せる、前5人の力技を見せられた後では、広瀬句の読みへの圧力のなさにほっとした気分さえ覚える。しかしながら、一見受動的に自らの発見に驚いてみせるこうした作風を微笑ましく眺めていると、ふっと、自分の現実の足場が外れてしまっているのではないか、という気にもなるのである……。



6人の作品を読んだ後、冒頭でフィールドというマクロな視点からとらえた印象を、個々の句、一人一人の柳人というミクロな視点から捉え返してみようか、などと考えていたのだが、結局それは上で行った個々の句の読みを薄めるだけではないかと思えてきた。よって、その代わりに、俳句と川柳の関係性について、今、私がイメージしているところを仮説的に書いてみようと思う。

川柳が(少なくとも俳句と同じ意味では)ジャンルでない以上、俳句と川柳の位置づけは、境を接するとか一部重なりあっているといったものではなく、俳句というジャンルに川柳がじわっと滲み込んでいたり、川柳が俳句の骨格をばらばらに解体して呑み込んでいたりする、といったものではないだろうか。したがって、川柳を毛嫌いするキレイ好きの俳人なら、身体中に広がった癌細胞のようなものとして川柳をイメージされるとよいと思う。また、自らの俳句形式の頑健さに自信がある俳人であれば、川柳が解体してみせた俳句的(?)テーマなどを珍味として味わいつつ、自らの栄養として再び取り込むこともできるだろう。今号に掲載された句は、濃味で歯ごたえのあるものが多めで、そうした目的には最適である。

『週刊俳句』という場なので蛇足も加えさせていただいたが、上で取り上げなかった句についても熟読吟味されて、クセになった方は、ぜひ、邑書林刊の<セレクション柳人>シリーズなども手にとっていただきたい。

1 コメント:

さんのコメント...

意欲的で軽快な編輯で、感心しました。
川柳の現在的モダニティの典型がだされているような気がします。

小池さんの位置は、本人が否定したとしても、ジャンルのクロスオーバーでした。が、それは、過渡的に必要な位置であり又やりかただったかも知れません。
湊圭史さんのキャラクターは、川柳の外部にいて内部を語ろうとする批評の視線でしょう。詩のフィールドに川柳を措こうとしている正当な批評的方法論だと思います。
俳句的法方法をさらにマスターして行かれれば、これはまだ骨組みにとどまっていますがさらに「川柳は何でもあり」の理論的地平がひらかれるでしょう。(堀本 吟)