2010-03-21

親題反題 野口裕

季語と予定調和親題反題

野口 裕


中西ひろ美さんだったと思うが、俳人と柳人(どちらも気持ち悪い言葉だが、便宜上使っておく)の合同句会をやっての感想として、出された題に対し、それに沿うように作る傾向が俳人にはあり、逆らうように作る傾向が柳人にはある、というようなことを読んだことがある(飛踏社発行「鳴峯」だったと記憶してるが、現物見つからず。何号か分からず。)。

つまり、俳人は「親題」、柳人は「反題」というわけである。「親題」、「反題」という分類も彼女の命名になる。これは、気になる言葉で、ずっと頭の中に残っている。

たとえば、週刊俳句第150号の、

  格子戸の奥男根をぶら下げる  石部明

と、151号

  男根の向き直りたる恵方かな  曾根毅

にも、そうした違いがそこはかとなく現れているのではないか。どうしてこういう傾向が生まれるのか、ちょっと考えてみた。



俳人の「親題」傾向は、「季題」に対する予定調和の世界、筑紫磐井いうところの「本質的類型句」(『定型詩学の原理』568頁)を目指すところに根ざしているのではないか。筑紫磐井は、「類型句」について、

類型句や月並俳句は、もちろん様々な作家が同巧異曲の作品を作ることによって生じるのだが、誤解しやすい二点を確認しておきたい。一つは同巧異曲の作品であっても、作品の間では必ず優劣のあることである。第二は、類型句であっても時代々々の消長はあり、それをいち早く取り上げる作家と周囲の流行に追随して類型句を作り出す作家の二種類があることである。
と述べ、、類型句の堆積の中にある微妙な差異を目を向ける。さらに、
類型句も月並俳句もいわば一種の言語使用の退廃であり、精神的な緊張が薄れてゆく中で、言葉の経済的な使用の原理--とかくユニークな表現というものは精神的な緊張を強いるものであるから--により生まれる。その意味で、類型的な作品とは、現実に他に似た句があったかどうかとは別に、本質的に類型的作品として存在してしまうのである。
と書いているが、これは分かりにくい。「本質的類型句」の定義を与えるべき文章の中で、その用語自体を実質的に定義されたものとして、使っているからだ。『定型詩学の原理』はこうした分かりにくさを随所に含む。一因は、作者の文章力を超えた分量を一気に執筆したせいだろう。その後に書いた、『詩の起源 ― 藤井貞和『古日本文学発生論』を読む』や、最近書いた『女帝たちの万葉集』(まだ読了していないが)は、『定型詩学の原理』の内容の一部を書き直しているが、その方が分かりやすい。

話を元に戻すと、「季題」の中にある予定調和の世界を余すところなく伝えるのが、「本質的類型句」であり、どの「類型句」を取っても、「本質的類型句」の一端は持っていると、言いたいのだろう。本文では、言葉を継いで、「たとえその時代にぴったりの類型句がなくとも、時代の傾向からいつかは同じような句が生まれる確信を持たれる作品をいう。」としている。彼は、

  瀧の上に水現はれて落ちにけり 後藤夜半

を例に取る。この句は、「ホトトギス」昭和四年九月号の巻頭句になり、後日大阪毎日新聞社などが募集した『日本新名勝俳句』(昭和六年四月刊)の最優秀句となっている。ここには、虚子の選により瀑布の入選句として、

  瀧水の現はれてより落つるまで 星野立子
  瀧の面に霧現れて走りけり   細谷暁雪
  瀧の水溢れてひろく落ちにけり 桑原すなお
  大瀧の水追ひ打つて落ちにけり 田中素耕
  現はれて霧に落ちこむ華厳かな 小泉静石
  落ちかかる水ふり仰ぐ瀧の上  石井迎雲居
  瀧の上人現はるる柵のあり   菅康人
  瀧の上に滝あらはれし登山かな 小野峰月

が、上げられているそうだが、「二、三年の間にさえこれ程の類型句が生まれていたと知られる。」と、筑紫磐井は判定する。そして、
虚子の見出した予定調和的季語の斡旋、季題趣味俳句の意味するのは、一つの季語から見出せる『本質的類型句』の中からすぐれた句を人に先駆けて生み出すことであるという根本原理の証明なのである。類型句の創造、それが季題趣味の本質なのだ。本質的類型句は誰でも詠み出す可能性がある。だからこそ共感も得やすい。
と書く。例によって、「根本原理」うんぬんが分かりにくい。『本質的類型句』と書かれてあるところも、「類型句」とした方が意味を読み取りやすい。いずれにしろ、「本質的類型句は誰でも詠み出す可能性がある」は重要な指摘だろう。俳句の初心者に、「これこれの季語を使って、五七五を書いてごらんなさい。」というような指導がなされる理由の一つがここにある。

そうした指導を受けたことがあるにせよ、ないにせよ、季語の持つ予定調和の世界を意識せずにすむ俳人はいないだろう。そうした世界に育ってきた俳人の感覚を、「親題」という言葉は、よく表現できているのではないか。

季語の持つ予定調和の世界は強い。その世界を壊そうとして、単にその世界の境界線を広げるだけだったりする。もちろん、これは言葉の綾で、境界線を広げるというのは新たな『本質的類型句』の創造という、非常に重要な仕事である。にもかかわらず、そうした言い方をするのは、季語の持つ予定調和の世界が飽和状態に近くなっているのではないかという感覚が私の中にあるからだ。『本質的類型句』が生み出される確率は減ってきている、という感覚だ。ちょっと、息苦しい。

息苦しさを感じることなく、「親題」の発想で句を作れないか、と感じていた私のところに飛び込んできたのが「忌日俳句」。これは、作りやすい。

当然、忌日の対象となるご本人の作った世界があるのだが、その世界のどこを切り取ろうと自由自在、句を作る前に予定調和があるのでなく、句を作った後に世界が現出するような気がしてくる。案外、「ホトトギス」の全盛期の頃、全国津々浦々で歳時記を片手に句を作っていた人々の感覚もそれに近いかもしれない。詠む前に世界があるのではなく、詠んでから世界が現れるのだ。歴史的には、談林の前の貞門の流行時にも、そのような感覚で俳諧連歌に取り組んだ人がいるかもしれない。予定調和の世界がなければ、これほど息苦しくないものか、というのが現在の実感。この実感があるうちは、忌日俳句を抜け出すことはないだろう。

ところで、柳人側の「反題」はどうか。私は小池正博をはじめいろいろと柳人とつき合っているが、よく分からないというのが本音のところ。おそらく、「反題」(テーマをひっくり返す)に、「無題」(テーマがない)、「非題」(テーマにとらわれない)、「超題」(テーマから跳躍する)の入り交じっているのが川柳の現状という気がする。手っ取り早く言葉でまとめるよりも、見物人としてはじっくり観察したい。


2 コメント:

筑紫磐井 さんのコメント...

野口様
古い拙著を丹念に読んでいただきありがとうございます。読みづらい旧著と多少意味の分かりやすい新著は、表現という意味では多少進歩しているかもしれません。ただ10年前の方が覇気があって自分では気に入っていますが。
いま、「俳句ウエップ」で「伝統の探究」の連載を開始しました。最近誰も言わなくなった「伝統」俳句の根源を探究して(たぶん私しかやらないと自負していますが)、「似非伝統俳句」を糾弾しようとしています(現代俳句協会青年部の見解では「伝統」の対立軸の「前衛」は死んでいるそうですから)。お暇な折ご覧頂き比較していただければ幸いです。
ーーー筑紫磐井

野口裕 さんのコメント...

筑紫磐井 様

 ちょっと旅行などしていた関係で、レスポンス遅れましたが、コメントありがとうございます。
 旅行前に、『女帝たちの万葉集』を、読み終えたところです。『定型詩学の原理』での、万葉集の取り扱いはとまどいましたが、『女帝たち…』を読んで、『定型詩学』での万葉集の取り扱いが何をねらっていたか、また読む側の当方がなぜ読みにくかったのか、ようやく理解できたような気がしています。『定型詩学』上の人麻呂の位置もようやく腑に落ちました。

 『飯田龍太の彼方へ』も、なぜか読んでいるのですが、作家は処女作に向かって成熟するという意味で、『定型詩学』こそがやはり筑紫さんの処女作なのでしょう。以後の作品は必ず『定型詩学』にリンクしています。
 現在住んでいるところが、繁華街からやや離れ、新規情報がなかなか入手しにくいところですが、時間のある折りに、「伝統の探求」、読んでおきます。
 処女作に向かっての次の展開、期待しております。