2010-04-18

中学生が読む新撰21 第3回 髙柳克弘・村上鞆彦

高校生が読む新撰21 
第3回 髙柳克弘・村上鞆彦……山口萌人・青木ともじ

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載
髙柳克弘論……山口萌人

ことごとく未踏なりけり冬の星

句全体に流れる独特の空気感、大胆な表現。高柳克弘氏の句には不思議な魅力がある。

掲句は第一句集「未踏」収録。実景としては冬の星空に星が瞬いているということなのだが、それを見て「未踏」である、と言ったことには驚いた。

そんな独自の感性を持つ氏の句を、今回は見ていこうかと思う。


  うみどりのみなましろなる帰省かな
  枯るる中ことりと積木完成す

一句目、夏らしい開放感のある句。「うみどり」の白さ、それは少年の時の自分には当然であったこと。その再認識は、帰省の夏ならではの気分であろう。二句目、積木を積む音には、どこか冬に向かう空気の乾いた音がある。それは葉の落ちるような音も思われるし、木の質感も想起される。

高柳氏の作品の特徴として、たとえば積み木を描く時、遊ぶ人や行為を主体に描くのではなく、その「物体」としての質感を主体に描いているということである。それによって、句の世界に統一された印象が生まれるように思う。

このように、彼の句にはそれぞれの要素におけるベクトルが合致した、丁寧なつくりの句が少なからずある。例えば、

  秋の暮歯車無数にてしづか
  数へ日や水槽の灯の届く床

といった実景の見える句では、嘘のない言葉が光っている。そして、そこには作者や中の人物の息遣いが感じられない独特の空間がある。


  六月の造花の雄しべ雌しべかな
  呼ぶこゑの届かぬ子ゐる春野かな

一句目、プラスチックで出来た雄しべ雌しべに、ザラザラした布で出来た花弁が付けられている造花が容易に想像できる。六月あたりから咲く花のどぎつい色は、造花にも通じるところがあるだろう。二句目、夢中になって遊ぶ小さな子どもは、親の言うことも聞かずにどんどん先に行ってしまう。そんな野遊びのような景が立ち上がる。

ここで考えたいのがそこから読みとれる内容である。どちらも、「人造物における屈折感」「元気な子供」といった分かりやすいテーマを描いている。これは読み手にとっては大変読みやすい。裏を返せば、やや安易に解りすぎてしまう、ともいえる。


  つまみたる夏蝶トランプの厚さ
  籠抜けて花喰ふ鳥となりにけり

第一部で取り上げたものとは異なる、景が確定されないものを取り上げた。

一句目、捉え方からして、この蝶は死んでいるのだろう。トランプは絵札、蝶はアゲハのような模様の派手なものを思いたい。どこか妖艶な「物質」として描いている(これは先程も言ったように、彼がモノを捉えるときの一つの視点である)。二句目、「花喰ふ鳥」は今本当に食らっているのではないだろうが、籠を抜けた鳥が自由ゆえの美しさを持った、ということだろう。季節こそ違うが、「野ざらし紀行(芭蕉)」の
馬上の吟

 道のべの木槿は馬に食はれけり   芭蕉

も思われる。

どちらも(芭蕉の句と違って)、「いつ、どこで」といった設定がなされていないのにもかかわらず、自分が体験するようなリアリティがある。感覚的な表現をしながらも、しっかりとした映像を持って読者の心に訴えるのだ。このような句において、景は読み手に任される。
 
高柳氏の句に目を通していて思ったことがある。そこに描かれるものは、概してどこか哀しみを孕んでいるように感じられるということだ。そして、それを彼は拒むでもなく救うでもなく、淡々と描いている。この描き方によって、句の世界が読み手が足をつけている世界とは全く別世界で進行しているような錯覚に陥るのである。その隔たりこそが彼の句のもつ魅力ではなかろうか。冒頭に挙げた「未踏」の句を見れば納得できる。

(注)句は邑書林「新撰21」による。ただし、「野ざらし紀行」引用は角川書店「野ざらし紀行講釈」を参考にした。


村上鞆彦論……青木ともじ

投げ出して足遠くある暮春かな

これは実に実感のある句である。きっと作者は暮春の野にいるのだろう。あるいは縁側なのかもしれないが、そのときに自分の爪先であるのに手の届かないところにあるというのが暮春に適している。それをいとも平易な言葉のみを用いて詠っていることがより実感を持つ所以であろう。

村上氏の句を読んでいて気づくことは前述の通り、平易な言葉のみを使っている点である。これといって着飾った言葉やいやらしい言葉を使わずに俳句の世界を表現している。それによって極端に良い句悪い句の少ない安定した作品になっているのではないだろうか。それをこれから見ていくこととしよう。



 うしろより手が出て恋の歌かるた
 剥製にガラスの眼しぐれけり

これらを含め、彼の句はひとつの実景としてよくわかるものが多いが、その先に何が読めるかが重要となってくる。「歌かるた」の句は言わずもがな、恋を奪われた、といった感じであろうが、それを直接的に言わずに実景を描くことによって表現しているところがいやらしいかんじを受けずにすんなりと受け入れられる要因だろう。「剥製」の句もガラスの眼という表現から剥製の持つ触感や冷たさが想起される。実景としても時雨が眼に映っているのかもしれない、綺麗な景である。

元来俳句というのは実景を描写するものであると思うが、彼の句もそれに従っている。そしてその先に読ませたいことがらが上手く表現できているのではないだろうか。それは、彼がつける季語が近すぎず、また無理をしすぎない距離感を保っているからだろう。



  落葉飛ぶ中を遅れて新聞紙
  振り消してマッチの匂ふ秋の雨

村上氏の使う言葉の平易さに付随してくるものだろうか、もうひとつ感じることは目の付け所の良さである。前者は「新聞紙」であるところに実感がある。たとえば公園のようなところが想像させられるだろう。新聞紙と落葉の質感の違いを出せているのが「遅れて」である。質量の違いといったところで理がつくかもしれないが、感覚的な違いといったところで納得できるだろう。

後者は私が最も好きな句である。マッチを「振り消」すという動作はマッチを消すには非効率的な動作であるのだが、正しくはまっすぐにもってすっと落とすようにするのが消えやすい。だが、むしろこの「振り消」す動作のほうがよく見受けられる。そのときの煙と匂いの広がる感じは実感があるだろうし、その匂いのこもる感じを支援しているのが「秋の雨」であろう。

意外性のある言葉を使わないにもかかわらず彼の句に魅力があるのは句の中における動きの魅力である。たとえば前者ならば「飛ぶ」のは新聞紙であって落葉が飛ぶとはあまり言わないだろう。そこであえて「落葉飛ぶ」とだけ言ったところで新聞紙が飛んでいる様子のほうを引き立たせているのだろう。後者ではマッチを「振り消」すという身近にある違和感に目をつけたことでひとつの確立された世界をつくっているのだろう。

また、ひとつの句のなかに時間の流れを感じさせられることがしばしばある。「マッチ」の句は特に時間の流れを意識することで魅力がうまれるのである。句の中に時間的な幅をあたえることで、人の、あるいは物の動きをより繊細に見せる働きをしているだろう。


 
  団栗の青きが握り拳の芯
  短日や梢を略す幹の影

彼の句の中には、少ないものの比喩を使ったものがいくつかあった。そのなかで目に付いたものがこれらである。前者はひとつの事柄を一気によんだところに心地よさがある。後者は「梢を略す」という表現の実感に魅力を感じるのだろう。

彼の比喩はあくまで視覚的な観察に裏づけされたところから表現されている。だからこそ、人の共感を得ないような表現になることは無い。また、比喩のようで実景であり、実景のようで比喩であるという微妙なところを詠んでいるので、それが、強いインパクトを受けない原因ともなり、はじめに述べたように句を安定させる要因ともなるのかもしれない。

幾度か述べたが村上氏の作品はとても安定したものである。どの句をとっても一定の水準の上手さがあり、これといって悪い句が目立たない。同じような詠みぶりのようでいて、それぞれに違う世界観をもっている。じっくり読むことでその深みは増してくるであろう。反面、強く印象に残る句は多くはないのだが、百句を通して読んでみることで質素な魅力を作品のところどころに多々感じるのである。そして、深く読んでいくことでその魅力も次第に大きくなっていくのではないだろうか。

※編集部注 この原稿を執筆している山口萌人氏と青木ともじ氏はこの四月をもって高校に進学したため、今回からタイトルを「中学生が読む新撰21」から「高校生が読む新撰21」に改めさせてもらいました。




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