【週俳3月の俳句・川柳を読む】
乱暴なまでに……澤田和弥
格子戸の奥男根をぶら下げる 石部明
この男根はまだ男性の股間にぶら下がっているものを
イメージすべきでしょうか。それとも切り取られた
男根をイメージすべきでしょうか。張型という候補も
あります。どれをイメージしても、その印象はきわめて
強烈です。これは「格子戸の奥」という場面設定によるものと
考えられるかもしれません。
戸は家の内と外との境界です。もちろん壁や塀という
境界もありますが、そこをもって出入りするという点から
「境界」としての意識がより強いように思います。
新妻の笑顔に送られ出でくれば
中より鍵を掛ける音する 久松洋一
この歌には「戸」という言葉は出ておりませんが、
甘い新婚生活を送る家の内から、7人の敵がいる
外の世界(もしくは現実)に出てしまった、
その境界としての「戸」を強く感じます。
さらに「鍵」によってその感覚はより濃厚な
ものになっております。戸の外に出てしまえば
たとえ家族であろうとも、他者です。
家の内に対して第三者の目を持つことになります。
父の実家は築100年以上経つかという旅館でした。
個室ごとに戸はあるものの、玄関の戸というものがなく、
外から入ってくるといつの間にか建物の中に
いるという、私にとってはとても不思議な建物でした。
家の内と外との界線を設けずにその部分を曖昧に
溶け合った形にしていることを「日本的」と呼んでしまっては
言いすぎでしょうか。その曖昧さから生まれてくるのが、
格子戸というもののように思います。
格子戸は戸ですから間違いなく境界です。
しかし内から外を、外から内を見ることができます。
格子の奥の遊女を見ることはできますが、
格子の奥に入らない限りは遊女とチョメチョメすることはできません。
戸として存在していながらも、久松洋一の歌に出てくるような
完全なる境界ではない、その曖昧さが
格子戸に物語性や不思議さを与えています。
掲句の視点は格子戸の外からのものです。
格子戸の内に対して他者の視点です。
そうでなければ「奥」という言葉が活きてまいりません。
襖や障子は開け放たれて、家の奥までが見えています。
そこにぶら下げられた男根。
いや。「ぶら下げられた」ではありません。
「男根をぶら下げる」です。能動的な表現です。
男根をぶら下げる「人がいる」という部分が隠されています。
ここにもう一人の登場人物「男根をぶら下げる人」がいます。
ぶら下げている人なのか、ぶら下げた人なのかは分かりません。
前者であれば人も見えていますが、後者であればその存在を
感じることはできても視界の内にはおりません。
屋外を裸で歩いても問題のなかった江戸以前とは違い、
現在は屋外で男根を曝すと警察のお世話になるという
世知辛い時代です。よって男根を曝すのは家の内のことと
基本的には限られています。しかしそれが格子戸によって
屋外にいる他者とその世界を共有していることになります。
そこに一つの詩的世界が発生しています。
掲句は「男根」という言葉があるから強烈なイメージを
生んでいるのではなく、格子戸によって乱暴なまでに
内の世界に引きずり込まれてしまった他者の視線、
つまり主人公の視線によってきわめて強烈な印象を生んでおります。
格子戸の奥にぶら下がる男根。もしかしたら現実に
そういう場面に直面することもないとは言い切れません。
その際にはこの句を思い出しながら、
すぐに警察に通報することをおすすめします。
川柳作品
■石部 明 格子戸の奥 7句 ≫読む
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2010-04-04
【週俳3月の俳句・川柳を読む】 澤田和弥
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