2010-04-25

恋の平行四辺形 北陸湯けむり殺人紀行:後編 上野葉月

青春俳句小説! 業界最長! 19万字!
恋の平行四辺形 北陸湯けむり殺人紀行 【後編】

上野葉月

承前

金沢の駅前では靖子の家の車が待っていた。運転してきていたのは剣持さんという初老の男性で、羽根家の使用人ということになるらしい。正確に言えば羽根家の財産を管理する会社の役員だという話は前もって聞いている。
「お帰りなさい、お嬢さん」という口調が自然にもの柔らかで、どこか番頭さんという感じの人だなと思っていると「はじめまして、ようこそおいでくださいました」と私たちに挨拶して、私の荷物を車に運んでくれた。迎えにきていた車は白いトヨタのエスティマだった。改造してあり、後部座席が運転席から独立した感じで向い合わせの六シートになっている。
「すごい、リムジン仕様のエスティマだ」シートに腰掛けながら志々目くんがはしゃいでいる。確かに普通のエスティマより縦にやや長いような気がする。特別仕様か。車が動き出してもエンジン音がしない。「あ、これハイブリッドだ。すごいすごい」と興奮気味に志々目くんは運転席の方を見る。いかにも自分で運転したそうなそぶり。フェラーリやポルシェで興奮する若い男はよくいるけど、トヨタの車で興奮できるのは珍しい。車は金沢の街をあっという間に抜け出し、すぐ山道になった。東京と違って街が狭い。それだけで旅行に来た甲斐を感じる。遠い山には雪が残っているのが見える。近くの山は人工的な印象すら受けるほど鮮やかな緑だ。
暮色が空を覆ってきているが、それでも心地よい色彩が目に入ってくる。「きれいなところね」まだ靖子の家に着いていないのに、ちょっと持ち上げるようなことを言ってしまった。そのとき短い電子音が鳴った。
「おっと俺のだ」と志々目くんがポケットから携帯電話を取り出した。どうやらメールが着信したらしい。蓋をあけて液晶を覗き込んでいる。
「まただれかから、『顔も見たくないわ』って?」神屋さんが訊く。
「いや、先輩からのメール」別に反論もせず、志々目くんは親指を使って返事を書き始めた。
「ねえ靖子、あの山はなんていう山」
「うーん。知らない」いたって簡単な答え。靖子に訊いたのがそもそも間違いなのだが。「あれはイオウゼンだよ。やっちゃん。しっかりしろよ」と神屋さん。
「へえ、あれがイオウゼンですか」と靖子。
「イオウゼンってどういう字書くの」
「お医者さんの医に王様の王に山で医王山」
「お医者さんに関係あるの」
「わからない」と神屋さんの方を見る。とりあえず助けを求めているようだ。
「静かだと思ったら、志々目が寝ている」と神屋さん。本当だ。つい今しがたメールを打っていた志々目くんがすでに完全に眠っている。
「もうこのあと乗換えがないから、安心したのか」
「今までは安心してなかったんですか」
「一応、志々目が予約した列車だから、道案内は自分だとは思っていたんじゃないかな。こう見えても人並みに責任感のようなものの持ち合わせはあったような気がする」神屋さんはいつのまにかノートを出している。どうやら俳句の整理を始めているらしい。「ここのところ、忙しくてあんまり寝ていないって言ってたからなあ。もっとも志々目の場合、忙しいのではなく自分で忙しくしているだけなんだけど」
「そんな感じですよね。想像がつきます」
すぐ近くで噂しているのに、起きる気配がまったくない。正直なところ私も眠い。志々目くんが静かなせいもあって、ちょっと油断したら眠ってしまいそうである。しかし可愛らしくうつらうつらできる保証があるわけではない。口開けて涎たらしたりイビキかいたりしたら、まあはっきり言って大問題である。神屋さんはちょっと忙しいそうにノートになにやら書き込んでいる。
金沢からちょうど一時間。車は靖子の家の門をくぐった。ちょっとうつらうつらしたけれど、イビキはかかずに済んだはずだ。地方の旧家ということだから、自動車で家の敷地に乗り入れられることは予想していたが、ここまでりっぱな家だとは思っていなかった。ここにくるまで車窓ごしにいくつか古い大きな家を目にしたが、靖子の家のように古風でりっぱな家はまるでなかった。よく分からないが江戸時代からの建物なのだろうか。うちの近所の神社仏閣なんかよりもよほど年季がいっていて風格がある。自動車を降りると今度は神屋さんが荷物を玄関まで運んでくれた。玄関といってもうちの玄関と同じカテゴリに入るとはとても思えないシロモノである。奥からひとが出てきてきちんと正座すると「おかえりまさいませ」と挨拶した。中年の女性ふたり。
「お疲れ様です。今回はお客様もいるので特にお世話をかけますが、よろしくお願いいたします。東京からいらした志々目さんと元木さん」と靖子が私たちを紹介した。「慎一郎さんはふたりともご存知ですよね」
丁寧なやり取りにアテられたような気分になれる。
「はい、存じております」年嵩のほうが答えた。「近藤と申します、こちらは西といいます。よろしくお願いいたします」と深々と頭を下げた。ごく普通の洋服姿だがなんか時代劇みたいだ。
「ご丁寧にありがとうございます」まだ眠そうな志々目くんがあわてて頭をさげた。さすがに面食らったらしい。神屋さんがおかしそうにこちらをうかがっているところを見ると、私も驚いたような顔をしているのだろう。もっとも私が驚いたのは、靖子の口調が変化したことだ。東京で同年輩の友人たちに囲まれているときとは別人みたいである。「今日は慎一郎さんも泊まるので、その分もお願いします。お祖母さまは、お部屋ですか」
「大奥様はもうおやすみになられました。お疲れということです」
「では、ご挨拶は明日の朝にします」靴を脱ぎながら靖子は言った。列車の中では「おばあさん」と言っていたが、家に着けば「お祖母さま」である。緊張感が違う。
「お食事の用意は出来ておりますが」
「すこし休んでから。一時間後にお願いします」それから靖子はこちらを向いて「客間まで案内します」と私たちに言った。古い家らしい長い廊下を通る。とにかく広い。部屋数はいくつあるか見当もつかない。「この部屋を男性ふたりで使ってください。香奈さんはとなりを」まず二十畳ほどの部屋に通され、それからとなりの八畳の客間に私の荷物を運んだ。「食事は男性ふたりの部屋に運んでもらいます。食堂もあるんですけど、こちらでかまわないでしょう」
「うん、ここでいいよ」と神屋さんが応じた。「じゃあ、お食事の前にお風呂に入ってください。香奈さんは小さいほうのお風呂を使ってもらいます」
「あれ、元木さんも一緒でいいのに」と志々目くん。
「セ、ク、ハ、ラ!」とやり返す。
「慎にいさんはお風呂の場所知ってますよね」
「うん、わかるよ。大丈夫」
慎一郎さんではなく「慎にいさん」と呼ばれたのに神屋さん自身気づいたかどうか良く分からない。靖子はすぐ気づいたらしく、しまったという顔をした。家に帰ってきたので、つい子供のころからの呼び名が出てしまったらしい。私は靖子についてまた長い廊下を歩いて、靖子の部屋へ行った。この大きな古い家の中だったら、靖子のような浮世離れした娘が育つのが不思議でもなんでもない。
「この家って江戸時代から建っているの」
「確か明治時代になってからの建物、私の祖父のそのまた祖父が建てたはず」
「広さはどれくらいなの」
「建物の面積は調べてみないと。二十部屋ぐらいだったと思う」
「神屋さんって彼女いるのかしら」こんなこと訊く気はなかったのに、つい口に出た。
「どうなんでしょうね。すくなくとも今はいないと思う。もしいたら必ず私のところに文句のひとつも言いに来るはず」
「そう。誰からも苦情が来ないの」
靖子は神屋さんのすぐ近くに住んでいる。根津では珍しい八階建ての新しいマンション。神屋さんが二階に住んでいて、靖子は同じマンションの五階だ。なんでも靖子の亡くなったお父さんが神屋さんの近くに住むならという条件で東京の大学に通うことに同意してくれたらしい。確かに靖子のいう通り、神屋さんに恋人がいれば文句のひとつも言いに来るはずだ。最初、神屋さんに紹介されたときは、靖子の恋人か、あるいはどうかすると親の決めた婚約者というようなものなのかなと思った。またいとこ半だかなんだかよく分からないが、少なくとも結婚できるほど遠い親戚であることは確かだ。ただ今日、神屋さんと列車で揺られてきて、靖子とはそういう関係ではないということは想像がついた。もし何かしらの関係が二人の間にあれば、神屋さんの場合、かえって靖子のことを志々目くんと同じように羽根さんと呼ぶような気がする。
「うん、今のところ誰も。そういえば小学生のころ、剣道の試合見に行ったとき、試合の前に慎一郎さんと話していたら、剣道部のマネージャに睨み付けられたのはいまだによく憶えている」
「へえ、神屋さん剣道部だったの」
「主将だったのよ」
「中学校の剣道部にマネージャがいたの?」
「高校の剣道大会」
「だって靖子が小学生のときでしょ」
「慎一郎さんは私より五学年上よ」
「えっと。じゃあ、二浪してから大学に入ったんだ」
「大学にはストレートで入ったんだけど、教養課程を了えた後休学して二年間海外を徒歩旅行してたから」
それは初耳だ。「二年間もどこ行ってたの」
「香港から始めて、結局スペインまで。ほとんど徒歩とバスと自転車で移動したそうだけど。はじめは一年間のつもりだったけど、インドで一年近く時間をとられてしまって二年休学することになったということだけど」
インドに一年近く居たようには見えない。知合いにインド好きが何人かいるけど、どいつもこいつも日本社会に適応できなくなっている。神屋さんはとてもそんな風に見えない。剣道部というのはちょっと意外だったが、インド帰りほどそぐわないわけではない。きちんと日本社会に適応していきそうである。
靖子の部屋は襖で仕切られていて元々日本間だったことは覗えるが、木の床にカーペットを敷いていて、洋間感覚の割と普通の若い娘の部屋といった感じだった。明るい柑橘系の色のカバーが掛かったベッドのあるせいかもしれない。靖子は用意されていた浴衣と丹前を手渡して、廊下のつきあたりの浴室まで案内してくれた。
「狭くてごめんなさい、お客さん用のお風呂は男性陣だから」
「何言ってるの、明後日からは温泉じゃない」
「そうね」なんて会話をやりとりして先に風呂に入った。狭い広いじゃなく、浴室がいくつもあるということのほうがコタエルということに気づかないのだろうか。一年の付き合いだが、どうもその辺が釈然としない。こっちの考えることを理解した上で、まったく気づかない風を装っているのか、それとも単にそんなこと興味もなければ気付きもしないのか。靖子を見ているとホントにどっちでも全然おかしくないように思えてくる。考えるほど分からなくなるので、なるべく考えないようにはしているのだが、風呂に浸かったりすると気になったことがどうしても頭の中に浮かんでしまう。
十五分ほどで風呂を出て、少し寒い脱衣スペースで浴衣を着る。丹前はかなり重い。丹前と言うより綿入れとか半纏とかいう方が似合いそうな頑丈なものだが、私でも高級品であることがわかる丁寧な作りになっている。浴衣に関しては良いものなのか普通程度なのかよく分からない。
靖子の部屋に戻ると、靖子はすでに着替えをしていた。「じゃちょっと待ってて。私も入ってくるから。退屈だったらテレビ着けて」
「昔のアルバムとかあったら、見せてよ」
「ええっ! 香奈さん、そんなもの見てもおもしろくないわよ」
「それは不公平というものですぜ、お嬢さん。うちに来たとき私のを見たでしょうが」
「だって、私、そんな、見せるほどの写真なんて」
「つべこべ言わんとハヨ持ってきなはれ」
「香奈さん、江戸っ子でしょ」
「話をそらさず、ハヨ持ってきなはれ」
「はいはい」と靖子は机の近くの本棚からアルバムを取り出した。「本当に、なんでこんなもの見たがるの」
自分だってうちに来たときに私のアルバム見たくせにこんなことを言う。
「あとこれがさっき言ってた慎一郎さんの載っている俳句の雑誌」そう言って白い背のB5版の雑誌も手渡す。
白い雑誌をとりあえず脇に置いて赤い装填の古典的なアルバムを開くと、最初のページの赤ん坊を抱いて立ってこちらを見ている若い女性の写真が目に飛び込んできた。写真の下に日付と靖子退院の文字がそっと記されている。
「どひー。何よこれ」
「どひーって、香奈さんが肥料の話をするなんて珍しいわね」
まったく神屋さんといい靖子といい、どこからみても普通の顔で冗談を言うのは、この郷の習いか。
「肥料の話じゃないわよ。驚いたの。誰よ、これ」
「誰って、母よ」
「お母さん? 靖子のお母さん」
「そうに決ってるじゃない」
「何歳なの、これで」
「十九よ、母はそれこそ本当のお嬢様だったから、大学なんていかないで、十八でこの家に来たの」
そういえば、靖子の感覚からするとお嬢さん大学に通うことすらお嬢さんらしくないのだった。
「それで十九であなたを産んだの?」
「そうよ」
十九といえば、靖子や私と同じ歳だ。写真のお母さんは靖子といろんな点で似ていることは確かだがとても十九には見えない。十四五と言われても可笑しくないあどけなさが感じられる。丸々と太って幸せそうな赤ん坊を抱えている。思わず隣りにいる靖子と見比べてしまった。こういう赤ん坊が、全体的にほっそりしているくせに俗な言い方をすれば「出るべきところは出ている」娘さんに育つわけか。
「じゃ、ごめんなさい。私お風呂に入ってくるから」そう言って靖子はそそくさと立ち上がった。そして「すぐ戻ってくるからちょっと待ってて」と言い残して部屋を出て行った。私の舐めるような視線に耐えられなくなったのだろうか。靖子が行ってしまったので、改めてアルバムの写真を見た。
アルバムの若い母親は靖子と同じようにまれに見る美貌だが、より浮世離れしていてまるで戦前の映画女優のような感じがする。戦前と言っても、湾岸戦争やヴェトナム戦争じゃない。普通のカラー写真なのにセピア色しているような錯覚を覚える。
アルバムをめくっていくと、お決まりのハイハイや歩き始めた頃の写真もある。お母さんも時々写っているがだんだん少なくなってくる。かわりに幼稚園や小学校の友達との写真が増える。小学校のころから、靖子は美人だ。美少女と言った方が正確なのかもしれないが、誰も「この子は将来美人になる」なんて言わなかったことだろう。すでに気恥ずかしくなるほど綺麗だ。しかし小学校に入ったころからだろうか、表情がこころもち暗い。写真に写るときぐらい笑えよと突っ込みたくなる。もしかしたら今でもそうなのかもしれない。東京での飄々とリラックスした優しい表情が、この土地に着いて以来すっかり影をひそめてしまっているし、アルバムを見ていても同じことが窺える。大勢でいる写真には時々、若い頃の神屋さんらしい少年が写っている。考えてみると、靖子のお母さんは十歳の時に亡くなったという話だった。十九で靖子を産んだと言うことは二十九で亡くなったのだ。ちょっと尋常じゃない若さである。美人薄命とはよく言ったものだ。
次に神屋さんが載っているという俳句雑誌を開いた。
目次を見ると確かに「新鋭・二十代俳人特集」というのがある。
ページをめくって行くと特集の二人目に神屋さん。
見開き二ページに俳句が十句載っている。右ページには小さな顔写真。正面からのもので現在より髪が短く体育会系っぽく写っている。そういえば神屋さんは高校時代剣道部だったそうだから文字通り体育会系なのか。
俳号は社社(やしろやしろ)になっている。なんかお笑い芸人みたいな名前だ。
俳句の方といえばやっぱり何がなんだかわからない。

遠くから雲誘い込む干潟かな
性格ではなく症状ヒヤシンス
東京に野原ありけり春時雨
白椅子に集う石英春の宵
花疲れ夢の形の尾底骨
運転席に笛吹く人のある薄暑
梅雨寒のヴァイオリン工房に柴犬
妹の滝壺愛のあるごとし
遠雷や汽水域なる人の肌
バシレイオス二世の橋や夏の牛

春と夏の俳句だということぐらいはわかる。滝壺愛ってなんなんだろう。志々目くんほどあからさまじゃないけど神屋さんも変な人なのだろうか。
そんなことを考えているうちに靖子が帰ってきた。どうやら湯船に浸かっただけらしい。少なくとも髪は洗わなかったようだ。
「この次のアルバムはないの」
「次って」
「これ小学生のときまでじゃない」
「探せばあるだろうけど、もう食事の時間だから」
靖子が軽く眉を整えるのを眺めてから、また靖子の後をついて廊下を抜け男性陣の客間に移動した。襖をあけると、神屋さんと志々目くんが据え膳をはさみ向かい合っている。
「ごめん、待ちきれなくて始めてしまった」と神屋さん。
「待っているといけないから、お酒を出すように言っておいたので」と靖子。
私はちょっとまよってから神屋さんのとなりに座った。靖子は私の正面、志々目くんのとなり。
「なんか豪華だねえ」志々目くんは靖子のとなりというだけでうれしそうだ。
「料理はまだこれからたくさん出ますから」
「料理じゃなくて、浴衣の美女ふたりで」
「ふたりそろってというところがいいね。普通の浴衣なのにふたりだととても花がある」と神屋さん。
「悩殺的でしょう」と私。
「うん、しっとりと華やいでいるとでもいうか」
「さすがに俳人はいう事が違う」と志々目くんがちゃちゃを入れる。
「寒くないかしら」と靖子。
「私ちょっと寒い」
靖子は立ち上がって、部屋の中央ちかくに出してあった電気ストーブを調整すると「ちょっと台所を見てきます」と言い残して出て行った。なんかテキパキしている。やはり東京での靖子とは別人みたいだ。
部屋の隅には大型のメインのエアコンが置いてあるが、電気ストーブで済ましているらしい。地元の人間にとってはうららかな春の宵なのかもしれない。
「元木さんもどうぞ」と神屋さんがお銚子を差し出した。
「私は靖子が帰ってきてから」
「お客さんなんだから、気を使わないでリラックスしたほうがいい。そのほうがやっちゃんも喜ぶよ」
「そうですか」といわれるままにお猪口に注いでもらった。このお猪口が高級品であることは私にもわかる。口をつけると温度のやや高い燗で妙にさっぱりした味である。「おいしい」と思わず口に出た。
「元木さんはいけるクチなの」と志々目くん。
「好きなんですけど、たくさん飲めない」めずらしく正直に答える。靖子の目がないほうがなんとなく楽だ。
「たくさん飲めないって一升ぐらい?」と神屋さんが訊く。
「もう。靖子と一緒にしないでください」
「羽根さんってそんなに飲むんだ」志々目くんが目を丸くした。
「あの子、たくさん食べるしたくさん飲むから実際どれぐらい飲んでいるかよくわからない」
「そうだね、手当たりしだだからね」
「ふーん」
「句会っておもしろいでしょ」神屋さんがこちらを見て訊いた。
「そうですね。本当に」まったく期待してなかったので、意外と面白かった。「神屋さんは、どうして俳句始めたんですか」
「僕は高校のとき、担任の先生が国語の教師で、その人が俳句をやっていてそれなりに知られているような人だったから」
「高校時代に始めたんですか」
「一年生のときに、今日の元木さんみたいにいきなり句会に連れて行かれた」
「へえ」剣道部でしかも秀才だったのだから、先生方の御おぼえも目出たかったことは容易に想像できる。
「この志々目晴彦の場合、ミステリ研究会で文才を轟かせていたところを」
「誰も志々目のことは訊いとらんぞ」
「またすぐそうやって」
「誰が聞いてなかったんですか」お皿を持って帰ってきた靖子が尋ねる。ふたりのお手伝いさんもいて、どうやらメイン料理の用意をするらしい。
「俺が俳句を始めたきっかけというのを」
「それはもう三回ぐらい伺いましたね。こちらに鍋の用意をしますから、そちらの方は平らげてください」
「まだ、ひとくちも食べてないよ」と私。
「あらごめんなさい。ゆっくり食べて」と言って先ほどと同じ志々目くんのとなりに座った。お手伝いさんたちは、押入れから丸いテーブルを出して鍋の用意をしている。目の前の膳の上には刺身のほかに、小皿が五つも並んでいる。煮物とか小魚の唐揚げらしきものなど。もうこれだけで充分なような気がするが、となりでは豪華な鍋が構築されつつある。刺身をひとくち食べると「おいしい」とまた思わず言葉が口から漏れた。どこから見てもただのブリの刺身だが、いつも口にしているものとは味がまったく違う。
「そうでしょ。俺もおどろいた」と志々目くん。
「だから、日ごろから言ってるじゃないか、東京の魚は魚じゃないって」
「確かに社は味オンチなくせに魚にだけはうるさいよな。他のものはどうでもいいくせに」と今度は志々目くんがお酒をついでくれた。また一口飲む。靖子に食欲で退けをとってばかりいるのも癪だ。とは思うのだが、あまり食がすすまない。結局、鍋の用意が出来ても、お膳の小鉢はのこり、小鉢と一緒にテーブルまで移動して、お膳だけが片付けられていった。
靖子がせっせと鍋に材料を入れるところは三人でしばし眺める。故郷にいると彼女は働き者になるらしい。
「でも元木さん、句会では驚いたよ。とても初心者じゃないみたいだったな」と神屋さん。
「うん、センスあるよ。うらやましい」志々目くんも言う。
「誉めてもらっても何にも出ませんよ」
「でも面白かったでしょ」
「面白いっていうか、句会という言葉から連想するようなものではなかったです。でも」
「でも、面白かった?」
「面白くなかったわけではない」
「なかなか頑固ですね」と神屋さん。
「俳句向きの性格かも」今度は志々目くん。
あんまり、ありがたくない。でも誉められれば悪い気もしない。比較文学論の講義だったと思うけど、俳句は欧米では前衛詩だと見なされるという話を聞いたことがある。前衛詩ともなれば、あまり線香くさくない。今の時代、日本での評価より国際的な評価の方は重要だ。今の時代というより明治以来ずっとそうなのか。日本にいるときは単なる田舎っぽい若者でもメージャーリーグで活躍するとかっこ良く見えたりするのが世の常だ。そういう国際的な評価を念頭におけば『趣味は俳句です』というのは悪くないかもしれない。少なくとも歳時記は持っていると何かと役立つかもしれない。
「いろんなものと帰る道、なんてなかなか出ないよ」と志々目くん。
「感覚の良さといったものは確かに感じられるけど。でもそれが俳句にむいているかどうかの判断は、とても難しいような気がする」
「おっと、慎重だね。社。何人もの女を泣かせているから」
「何人も泣かせたんですって」わざとらしいくらい興味津々といった風情で訊いてみる。取り敢えず、実際に興味がまったくない訳ではないのだが。
「泣いたのは多めに数えてもひとりふたりだよ。怒ったのは一ダース二ダース、大笑いしたのは百人二百人といったところかな」と神屋さんがあっさり答える。そんなことないよとでも言ったら疑惑の炎が燃え上がるところだが、さすがは国立理系である。
「でも、あの根津俳句会の髪の長い子、あの子はきっと社のことが好きだったんだぜ」
「根津俳句会のぉ、髪の長い子おぉ。可愛いのその子?」
「うん、社ってああいう子が好みなんだろうと思ってたんだけど」
「お前は自分の好みのことだけ考えていろよ」
「ねえねえ、その髪のぉ長いぃ子が神屋さんをどうしたの」
「社をどうしたんじゃなくて社がどうにでもして、って訳じゃないか。社がどうにでもしようと」
「志々目、お前やっぱり発病したようにしか見えない」と言って神屋さんは志々目くんのお猪口にお酒をついだ。
「もう一年くらい前になるんだけど、句会で僕がこれはもろ類想だの季語に寄りかかっているだの、いつものように好き放題言っていたら、途中で帰ってしまってその次から出てこなくなった女の子がいて、社が泣かした泣かしたってちょっと評判になってしまったことがあって。でも一年経っても憶えているのは志々目くらいなものだよ」
「社がいつもの冷静な顔で君は筋がいいとかセンスがあるとか言って俳句始める気にさせといて、少し慣れてきたらけちょんけちょんだから、立ち直れなくなったんだよきっと」
「いけない人なんですね」
「そうそう、このいけないところが一部の人には『クーたまらん』なわけで」
「ふーん」
「よくまあ、それだけ好き勝手なことを」と言いながらお銚子を取って、今度は私と靖子に注いでくれた。
「僕はあのいろんなものの句より、爛漫の日向に配る甘茶かな、の方が印象的だけど。見よう見真似で五七五にしたみたいに見えるところもあるけど、並みの初心者じゃないような感じがする」
「ありそうでないような」
「うん、普通ああいう風にはならないような気がする」
「ほらそうやって、可愛い女の子をたぶらかしてその気にさせようと」
「志々目にかかるととても俳句の話をしているとは思えなくなる」
鍋の炊き具合がよくなったらしく、靖子がお玉を使って具をよそいはじめる。鍋自体に味がついているらしく、薬味やポン酢はつかない。浴衣姿のせいもあるけど、鍋をより分ける靖子には独特の雰囲気がある。ちょっと見てはいけないものを見たような気にさせる。なんか変な気分だ。もしかしたら疲れているのかもしれない。お酒を一口。さっぱりした味。こういうのを辛口というのだろうか。
「すごい美味い、これ」志々目くんはご機嫌だ。「これ何」
「アンコウ鍋です」
私も食べてみた。おいしい。確かにおいしいのだが食欲を刺激しない。それどころかなんとなく気持ちが悪くなってきた。鍋とは別に出されている焼蟹を割って一口つまんでみる。それからまたお酒を一口。気分をかえるために、神屋さんと志々目くんにお酒をついでみる。
「わあ、なんかもう温泉にいかなくてもいいみたい。浴衣の美女のお酌で。この家のお風呂、槙風呂だし」
「槙のお風呂なんですか」
「そっちはそうじゃなかったの」
「私が入ったところは、普通のユニットバスだった」
「あれは私の部屋についているバスだから。明日時間をずらせば、広い方のお風呂使ってもらえるけど」
「別に時間をずらさなくても、一緒に入ればいいのに」
「君はオヤジか?」
「酔うとオヤジ発言が目立つんだよ、志々目の場合」
「分かりやすい性格」
「わかりやすいことは良いことだあ」
「本当に酔ってますね」
蟹を食べてお酒を一口で少し落ち着いてきた。また鍋に取り掛かってみる。二口ほど食べるうちに、なんか座っているのも辛くなってきた。
「ごめんなさい。私疲れちゃってもう起きているのが辛い」
「そんなに飲んだかな」
「日本酒ってあまり飲む機会がないから」
「これ宗玄っていう能登の酒で、翌日残らないのには定評があるんだけど」と神屋さんが残念そう。
「翌日はともかく、いまは酔っ払っているようには見える」と志々目くん。
「お酒より長旅で疲れが出たと思います。五時間も続けて列車に乗ったのは初めて。悪いけど先に横になります」と言って立ち上がった。
「そう、じゃあおやすみなさい」
「おやすみなさい」
「大丈夫?」靖子は心配そうについてきた。「香奈さんには雑炊も食べてもらいたかったのに」と食べ物のことを話しているのはやはり靖子らしい。
「心配ないよ。ようするに疲れて眠いだけだから。ごめんなさいね。あなたたちはゆっくり食べてて」
となりの部屋に移ると、家の人が用意してくれていた蒲団にもぐりこんだ。
「本当に大丈夫?」
「心配ないって」
「小さな灯りつけとくから」と言って床の間にある骨董品のようなランプのスウィッチを入れると靖子は戻っていった。
ひとりになると、家の古さに気圧されて心細くなってきた。となりの部屋で三人が食事しているのに、広い部屋の反対側にいるせいかあまり話し声が聞こえない。横になると少し楽になったので、今まで座っているのすら辛いほど疲れていたのが改めて感じられた。今日は色々なことがあった。靖子のジーンズ姿や浴衣姿を見たのも初めてだが、俳句を詠むなんて想像もしていなかった。その上、きわめつけはあの靖子のお母さんの写真。あれは堪えたような気がする。靖子は目のさめるような美人だが、かといって天使のように美しいわけではない。

翌朝、靖子が襖を開けるまでまったく目がさめなかった。夢を見たようだがよく思い出せない。
「おはよう」起こしに来た靖子に挨拶する。
「香奈さん、具合は」
「快調。よく眠ったからかしら。すごく元気」
「良かった。いつまでも起きてこないからお医者さん呼ぼうかと思ったの」
「そんな大袈裟な。今何時」
「九時」
「十時間以上眠ったわけか。まったく我ながらずうずうしい」と言いながら、昨晩は誰も夜這いに来なかったななんて考えた。こんなこと朝一番に考えるなんて発情期かしら。あの国立理系デフレコンビはどっちともそんなことやりそうにない。むしろ白昼堂々っ感じか。もっとも誰か来たけど高いびきに呆れて帰ってしまったという可能性も捨てきれないが。
「あの二人は?」
「もう出かけたわよ」
「早いのね」
「ええ、近くに天狗山公園って名前のところがあるって聞いたら、志々目さんが絶対に見たいって言って出かけていった」
「なんなのそれ、面白いところ?」
「ただの公園。天狗山っていうけど、山というより丘といった程度の高さだし。ただ天狗山っていう名前だけでも絶対に見ておきたいって」
「あれは妖怪オタクでもあるのか」
「どうなんでしょ。それより、朝ご飯冷めちゃうわよ」
「ああ、うんうん。顔洗ってくる」洗面所は客間のすぐそばにあったはず。
「じゃ、私は隣で待っているから」
この洗面所はどうも改造して後から加えた感じだ。設備は新しいし、元々和室だった気配がある。手洗いを済ますと浴衣のまま靖子の待っている部屋へ顔を出した。昨日鍋に使ったテーブルがそのまま残っていて、靖子がちょうど味噌汁をつけているところだった。そそくさと席につき、いただきますと箸をとった。
「本当は昨日の雑炊を残していたんだけど、今朝、慎一郎さんたちが食べちゃったから、普通のご飯しかないの」
どうやら本気で私に雑炊を食べさせたかったらしい。
「あの二人何時ごろ出かけたの」
「七時ぐらいかしら」
「ずいぶん早いのね」
「慎一郎さんの家にいったん寄って着替えてからまた来るから、時間がかかるの。天狗山公園を通ると少し遠回りになるし」
「神屋さんの家って遠いの」
「谷を挟んで村の反対側だから、歩くと二十分ぐらいかしら。昨日言っていたじゃない慎一郎さんが」
「憶えていない」
「本当に酔っ払っていたのね」
そういわれると記憶がたくさん抜け落ちているような気がして若干不安になる。それなら、往復で四十分ぐらいだ。いくら天狗山とやらに寄るっていったって、そんなに早く出ることもないのに。靖子のお父さんの一周忌は午後からのはずである。
「このお味噌汁おいしい」
「よかった。香奈さんの口にあって」うれしそうである。
「蟹が入っているのね」
「おかしいかしら」
「素敵な味、パラディッシーモ」
「本当にどうしてそんな不思議な言葉が出てくるのかしら」
「適当に言ってみただけよ」
そんないい加減な会話をしながら、食事を続けた。靖子のことだからきっと神屋さんたちとも朝食を摂ったのだろうけど、私と同じくらいは食べる。おかずは味噌汁と焼き魚。やがて、年嵩のほうのお手伝いさんがお茶を運んできた。
おはようございますと私に挨拶してから、「大奥様がお目覚めです」と靖子に告げた。
「そう、食事が終わったらご挨拶にうかがうと伝えてください」
「はい」お茶を注ぐとお手伝いさんは去っていった。
「私もう、いいわよ。靖子はお祖母さんに会いに行ってきて」
「じゃあ、香奈さんも一緒にいきましょう。紹介したいし」
「そうね、私も挨拶しとかないとね」
田舎だし、泊めてもらっているし、挨拶しないと大変な礼儀知らずにされてしまうかもしれない。
お茶の飲み終えると着替えをした。靖子はまだ喪服を着ておらず、白いワンピース姿だったが、私はこのあと着替える機会があるかどうか判然としないので、仏事に出られる格好にした。靖子の後について長い廊下を歩いて母屋の奥だという靖子のお祖母さんの部屋へ行った。歩き回るうちに、どうやらこの家は「くの字」型になっていて、私たちが泊まった棟もけっこうな由緒正しさだが、この母屋のほうがさらにもっと古いことがわかってきた。
靖子が声をかけて襖を開けると、さして広くない日本間に老婆がちょこんと正座していた。
「おばあさま、おはようございます。昨晩かえりました」
「ああ、靖子かい。ひさしぶりだねえ」
「お久しぶりです」
「一年ぶりかねえ」
「はい、一年ぶりです」
靖子のお祖母さんというから、若いころはさぞ美しかったろうと思わせる老婦人を想像していたのだが、割と普通の田舎の老婆だ。靖子とは全然似ていない。しかし、なんというのだろうか。福相である。観音さまのような慈悲深そうな顔とでもいうか、人相が良い。
そういえば、昨日から顔を合わせているこの土地のひとはみんな優しそうで人相がいいような気がする。日ごろから人相が悪い人間とばかり会っているせいで、このあたりの人は皆いい顔に見えるのかもしれない。考えてみると東京辺りでは志々目くんのように人相の悪い人間があたりまえだったりする。
「それにしてもお前は、あの『おひいさま』に年々似てくるな」
「おばあさま、白内障のほうはよろしいんですか」
「あいかわらずじゃがなあ。朝がきたことぐらいわかる、物の形もわかりおる。もうひとかた居なさるのもわかる」
「こちらは、大学でのお友達で、元木香奈さん」と靖子が紹介する。
「おはようございます。昨日からお世話になってます」と私は挨拶する。
「へえ。なにもないところで申し訳ないが、ゆっくりなさっていってくださいな。まあ、東京の娘さんはさすがに垢抜けておりますなあ」と、言って薄目をこちらに向ける。とても見えているとは思えないが、いっぺんにこのお祖母さんが好きになってしまった。私はいいかげんなことを平気でいう人間に好意を感じることが時々ある。観音さまのような印象があるのは、眼を半ば閉じているからだ。
「よろしくお願いします」
「へえ、靖子が当主になって初めてのお客様がこんな素敵なお嬢さんだというのはめでたいことで」靖子はやっぱりトウシュなのか。
「当主となって初めての仏事。粗相のないようにな」
「承知しました。近藤さんたちが良くしてくれています」
「へえ」
どうもこのお祖母さんの「へえ」ということばは耳に残る。この土地では当たり前の言葉使いなのかもしれないが。
「そうじゃ、思い出しよった。了沢が靖子が帰ってきたら、渡したいものがあるから寺によって欲しいと言っておった」
「寺にですか。今日おじ様には午後になればお会いするのに」
「仏事の前に渡したいものがあると言っておった」
「なんでしょう」
「わからん。渡したいものがあると伝えてくれというだけの話じゃった」
「そうですか」
私たちは挨拶してその部屋を出た。「ごめんなさい。急に奥のお寺まで用ができちゃって。時間に余裕があれば元々挨拶はしようとは思っていたんだけど。香奈さんも一緒に行ってくれる?」靖子が廊下を歩きながら訊く。
「うん、一緒にいくわ。何分くらいなの」神屋さんたちもいないのにひとりで家に置き去りにされてもすることがない。
「うちから五分ぐらいのところ」
「さっきおじ様って言ってなかった」
「そのお寺の和尚さん、了沢さんといって、私の父の兄にあたる人なの」
「ということは、今会ったお祖母さんの息子になるわけ」
「そうよ」
「へえ」私の口にするへえはテレビ番組の影響である。「その人がお父さんの仏事も担当するんでしょ。こういう場合は担当とは言わないのか」
「ええ、了沢さんが読経してくださることになっているんだけど。何か都合が変わったのかもしれない」
靖子は忙しそうにしている近藤さんを見つけ出して、クルマの手配を頼んだ。昨日は暗くてよくわからなかったが、やはり広い敷地。どこからか初めて会う若い人がやってきて、昨日のエスティマで寺まで送ってくれることになった。靖子の家からクルマで二分ほどで着いた。忙しいだろうからと靖子は門前でクルマを返した。帰りは下りなので歩いても大したことなさそうだ。龍谷寺という名で曹洞宗の寺だそうだ。門構えは靖子の家によく似ている。門をくぐり、境内を抜け、かつて知った様子で靖子は寺に上がった。私も靖子と同じところで靴を脱ぐ。そこへまだ若いお坊さんが通りかかり「どのようなご用でしょうか」と私に尋ねた。
「了沢さんを探しています」とすでに寺の中に上がっていた靖子が答えた。
「アア、これは羽根のお嬢さん。了沢でしたらわたくしが呼んでまいります。こちらでお待ちください」
「わかりました」と靖子が答えたが、若い僧はすでに走るように去っていた。
私は一度脱ぎかけた靴を履き、靖子は靴を履かず寺の中で立ったままの姿勢でまった。ほどなく先ほどの若い僧が戻ってきて私たちを本堂裏手の別棟に案内した。
了沢さんに会ってちょっと驚いたのは、もう絵に描いたようなお坊さんだったことだ。午後に仏事があるので正装しているせいもあるのだろうが、まるでコンピュータゲーム用にデザインされたかのようなお坊さんだった。靖子の伯父にあたるのだから、実年齢はたぶん五十歳ぐらいのはずだが、四十代から七十代のどの年齢にも見える、およそ歳月を超越した感じの落ち着いた風貌。さっき会った靖子のお祖母さんの面影もどこかに感じられる。
「やっちゃん、忙しいところありがとう。髪が短くなったね」
「こちらこそ、このたびはお世話になります」と深々と頭をさげた。
「何もそんなにかしこまらなくてもよろしい。しかし。やっちゃんももう当主だから、こちらの方はかしこまるべきかな。ところでそちらのお嬢さんは」
「こちらは大学でのお友達で元木さん」
「元木香奈です。はじめまして」
「了沢と申します。遠いところをわざわざ。今日は、朝から目の保養になりました」とニコニコ笑う。靖子と並んでいる場合は少し考えなければならない台詞なのかもしれない。しかしこの一言で悪い人ではなさそうだと思ってしまうあたり、やはり女は単純である。ちょっと反省。
「伯父さま、何かご用があるとうかがったのですが」いきなり用向きを尋ねるのはあの靖子としては珍しいのではないか。父親の一周忌を控えて時間がないのはわかってはいるが、意外な側面といえる。
「そう。仏事の最中ではおそらく話をするひまはないと思って、忙しいのはわかっていたのだが、わざわざ来てもらった。明日は出かけるということも聞いたのでな」
「はい。何か渡したいものがあるということをお祖母さまからうかがいました」
「もう十年以上前に」少し考えてから続けた。「やっちゃんのお母さんから預かって、寺の蔵の中に置いてあったものがあっての」
「それ…。何故今ごろ…」靖子でなくても訊きたくなる。十年ほったらかしておいたものをなんだって今ごろ出してくるのか。その了沢というお坊さんは立ち上がって、部屋の隅にあるふみ机までいって引き出しから小さな箱を取り出した。そして靖子の前まで大事そうに持ってくると手渡した。靖子は不思議そうな顔で受け取る。彼女も初めてみるらしい。宝石箱だ。それも非常に凝った手作りのものであることが素人にもわかる。
「わあ、素敵」その場にいる若い娘の義務として、ちょっとした歓声をあげてみる。重苦しいばかりの雰囲気を変えようという努力でもあるわけだが。
「お母さんが嫁入りのときに実家から持ってきたものの中でも、とりわけ高価なものだったそうだ」
「でも、なぜこれがここにあるんですか」
「そうだな、うまく説明するのは難しいことなのだが」了沢さんはこちらを見た。
「すいません、和尚さん」
「なにかな、お嬢さん」
「あの、和尚さんって呼び方で間違っていませんか、ごめんなさい、私よく知らなくて」
お嬢さんって呼びかけられて、ふと心配になり確認してしまった。和尚さんお嬢さん、よく似ている。
「まさしく拙僧は和尚じゃよ。まったく間違いなし。宗派によってはカズショウなどどわざわざ発音するところもあるかとは思うが、この寺では和尚でけっこう」
「えっと、それで和尚さん。私ここに来たの初めてなので、庭を見せてもらいたいんですけど」
「それはそれは、自由に見てもらって」
「香奈さんにはここにいていただいてかまわないから」靖子が会話に割って入った。「あとで事情を聞かれたら私が説明することになるので二度手間になってしまいます」
確かにそういう見方もできる。席を外したところできっと私はあとで好奇心を抑えられず聞き出そうとはするだろう。しかし和尚さんにも私にも事情というものがある。その辺のことも考慮して欲しいものだ。
「まあ、お嬢さんには今度時間があるときにゆっくり庭を見てもらうことにしよう」和尚さんはあっさり折れて説明を始めた。「その指輪だが、お母さんがなくなる前、拙僧のところへ持って来なすってお金に換えたいとおっしゃってな。この寺は先代のころから骨董屋が何人も出入りしているものだから、そういう商売の人に買い取ってほしいということだった。拙僧にも非常に珍しい高価なものに思えたので買い手がつくまで時間がかかるだろうといったのだが、あの人は急いでいるので価値どおりの値段に換えることなど考えていない、すぐに現金にしたいということをおっしゃった。そのとき二百万ほど拙僧の自由になるお金があったのでそれを渡してこの指輪を預かることにしたのだが。もちろんよい店で扱ってもらって相応の値段で売れたらそのときにはその金額を渡して二百万を返してもらうつもりでいたのだが」
「母はそのお金をどうするつもりだったのですか」
「お母さんは家を出ることに決めていたのだと思う。そのために現金はある程度用意したかったのだと。もちろんあの人自身がそう言ったのではない。わしがその時そう思ったというだけの話じゃが」和尚さんは一息ついた。「しかしお母さんはやっちゃんも知っているように、病気であんなに若いまま亡くなってしまわれたのでな」
「そのお金を利用する機会を持てなかったのですね」
「そうだったのだろう。それにしてもこの一年でやっちゃんも学生さんらしい話し方をするようになったな」
「そうでしょうか」決まり悪いのか、靖子は下を向いて和尚さんから手渡されていた箱を開いた。紫の内張りの上に白い輝きが目立つ。ちょっと息をのむような光景だ。
「うちに出入りしている者の話では、零点五カラットのダイヤが二十四個並んでいるプラチナリングであるそうだ。とても丁寧な細工なので指輪だけでも数百万というわけにはいかないらしい。それより入れ物のほうはずっと古くて江戸時代に由緒ある家で薬箱として使われていたものを宝石箱に転用したらしいということじゃ。金属に漆細工をした薬箱というのはそれだけで珍しいそうなのだが、表の絵は拙僧は知らん名だったがその道では名の通った有名な蒔絵師が天明のころ筆であることも調べてもらった。表面を削って確かめないとわからないが重さからしてほぼ確実に金製であるということだった。この箱のほうは一介の骨董屋が扱うようなものではなく、美術館にでも収めたほうがよいとか言っておったな、値段らしい値段がつかないそうじゃ」
「すごおい。ちょっと持たせてもらっていい」と言って隣の靖子からひったくった。こんなもの直に触る機会なんてそんなにない。確かに見た目よりずっと重い。これが金の重さなのか。
「香奈さん、欲しい?」と靖子が訊いた。
「滅相もない」とすぐに靖子に返した。靖子だったら「欲しいならあげる」なんてバカなことを言い出すかもしれないと不安になったので蓋も開けずに慌てて戻す形になった。
しばらくその場の三者とも口を開かなかった。
二十秒ほど沈黙が続いたあとで、「そのとき母は私も連れて家を出るつもりだったのでしょうか」と靖子が和尚さんに訊いた。
「それは。わからない」と和尚さんは答えた。「お母さんに最期に会ったとき、亡くなる数日前だったが、あの指輪がまだ寺にあると伝えると、あれは靖子がハタチになったら渡して欲しいと頼まれた。ハタチになればあの子も私の気持ちがわかるようになるだろうからとおっしゃっていた」靖子は私と同じ十九だが、誕生日が五月なのでもすぐハタチだ。和尚さんにしてみれば、この機会を逃すと何年も渡しそびれるかもしれないということが心配だったのかもしれない。
「母が亡くなってすぐに渡していただいても、きっと私は今と同じように考えたと思います」靖子は話を終えて立ち上がりそうな気配を見せた。
このまま帰ると、この伯父姪がまるで喧嘩別れをしているような印象を私は受けた。
「和尚さん、句会ってやったことありますが」
「句会? 集まって俳句を詠み合うあれかね」
「私、ここに来る列車のなかで初めてだったんですけど、神屋さんや靖子と一緒に句会したんですよ」
「そういえば慎一郎くんは俳句をやったな。羽根家の先々代、やっちゃんのじいさんだな、拙僧の実の父親でもあったわけだが、あの先々代はそういうことが好きだったので時々顔を出したものだが。最近の若い人も句会を開くことがあるのかね」
「よかったら、ご一緒にどうですか。明日、金沢見学から帰ってきたら、またあの人たち句会をやりたがると思うし人数はひとりでも多いほうが楽しそう」
「香奈さん、金沢はこの村と違って広いから見て回ると帰りはかなり遅くなるわよ」
「適当に切り上げてくればいいじゃない。明後日は朝から温泉まで神屋さんの車でしょ。軽く早めに切り上げましょうよ。天気予報みたら明日は寒くなるってことだったし」
「そう」
「まあ、あわてて決めなくてもよろしい。明日もし金沢見学が早めに終わったら、夕方にでも連絡しておくれ。拙僧も東京の可愛らしいお嬢さんに会う機会はすこしでも多く持てればと思います、遅い時間でも歓迎ですぞ」
「じゃあ、明日何時になるかわかりませんけど、考えておいてください」
そんな話をしてから私たちは了沢さんに送られて門前にでた。寺の前の道を靖子の家の方へ下りながら、「あの和尚さんは、一年前に亡くなったお父さんのお兄さんにあたるわけ」と訊いた。
「うん、そうよ。幼いときにあのお寺に養子に出されているから、戸籍上は他人だけど」
「戸籍上は他人って、お兄さんなのに養子に出されたの」
「あの了沢さんは次男よ。私のお父さんは三男。もうひとりいる父の長兄が家を継がなかったから、父が家を継ぐことになったの」ゆるい下り坂なので、歩調が速い。それに合わせてか話も簡潔である。こんな山間の村でも家はいくつもある。中には真新しい家も立っている。当たり前なのかもしれないが、敷地は広い。地方には貧乏人がいない。東京を離れるたびに思う。山のようなホームレスや数え切れない貧乏人にかこまれた東京の生活。
エスティマで上ってきたときにには気付かなかったが急に勾配のきつくなる曲がり角があった。視界が開ける。
「あの向こうに見える高くなったところが天狗山」靖子が指差した。「それでその手前の方に家がかたまっているところに慎一郎さんの実家があるのよ」
「へえ、そうなの」確かに上り下りがあってちょっと骨が折れそうだが思っていたよりずっと近かった。
寺から五分ほども歩いただろうか。靖子の家に着いた。やはり明るい中で見るこの家の門構えはかなりのものだ。龍谷寺の門より大きく、瓦はあたらしい。門をくぐれば、敷地の広さに圧倒される。手伝いに来ているらしい近所の人たち何人かが靖子に挨拶してゆく。
靖子が近所の人と話しこんでいるところに、神屋さんがやってきた。
「ああ、おはようございます」
「どこ行ってたの」
「龍谷寺って、少し登ったところにある、靖子の伯父さんの」
「ああ、了沢さんに会ってきたんだ」と言って笑う。黒い服に着替えている。昨日はこちらに泊まったが、今日は家に戻って喪服に着替えてきたのだ。フォーマルな格好が似合い過ぎていて、かえって不自然なくらいの印象を受ける。
「ごめんなさい。私、着替えてくる」と近所の人との話を終えた靖子が、私と神屋さんに声をかけてさっさと行ってしまった。なんか急いでいる靖子って靖子じゃないみたいだ。そういえば、昨日志々目くんはなんて言ったっけ。優しい社って社じゃないみたいだ、だったか。
「志々目さんは、どうしたんですか」
「天狗山でころんで泥だらけになったから、今風呂を借りている」
「ころんだあ? 小学生みたいに跳んだりはねたりして遊びまわったんですか」
「いや、日陰の斜面で。雪の残っているところで脚をすべらせて。まあ言うなれば季節感のある転び方だった」私達は泊まっている棟のほうへ歩き出した。門からだと庭を縦断するかたちになる。
「なんか季節感というより、マンガの登場人物みたいですけど」
「志々目はマン研にも顔出していたことがあったな。関係ないかこの場合」
「いったいいくつのサークルに顔出してるんですか?」
「いくつというより、どこへでも顔をだすというような捉え方のほうが」
「神屋さんは俳句だけなんですか」
「趣味で何かに所属しているっていうのは俳句だけかな」
「楽器はやらないんですか」
「ピアノだったら少々」
「へえ、ピアノですか」
「意外かな」
「意外です。きっと琵琶とか尺八とか言い出すのかなと思っていました」
「そうかなあ。元木さんは何か楽器を」
「私はドラムスやってみたいとはかねがね思っているんですけど」
「へえ。十五へえぐらいな感じだ」
「でもきっかけがなくて、なかなか」
「ドラムスは始めるのが確かに難しいんじゃない。俳句みたいに手軽には始められそうもない」私達は中庭の縦断を完了し、縁側に座った。
「この家って建って何年ぐらいなんですか」私は話題を変えることにした。
「明治の中ごろだから、ちょうど百年くらいになるはず」
「もっと古いのかと思っていました」
「あの向こう側の土蔵は、この家で最も古い建物だと思う。あれは多分江戸時代の建築」と神屋さんは庭の反対側の蔵をゆびさした。「となりの新しい方の倉庫は、この棟と同じときに建てたそうだから昭和三十年代だね」
「その向こうにある建物は」
「あれは離れで、茶室にもなっているらしい。あれもこの棟と同じときに建てたって話だけど。今はやっちゃんの伯父さんが使ってる」
「了沢さんが?」
「そうじゃくて、羽根清一さんっていって、京都で大学病院で働いていた人なんだけど、十年ぐらい前に身体を悪くして帰ってきているんだ」
「病気なんですか」
「うん、滅多に外には出ないらしい。僕も一二度しか会ったことはない」
「へえ。今日の一周忌にも出ないんですか」
「たぶん、出ないんじゃないかな。去年の葬式にも出なかったし」
「靖子のお父さんって何人兄弟だったんですか」
「養子に出た了沢さんを含めて三人。やっちゃんのお父さんが末っ子だったわけだけど。お兄さんの清一さんが京都の大学病院に勤め出したから末っ子だけど家を継ぐ形になったんだ」
「それでお父さんが亡くなったから、靖子が当主って訳ですか」
「そう三十七代目だったかな。羽根家当主」
「昨日、靖子のお母さんの写真みたんですけど。靖子そっくりですね」別にそっくりだとは思わなかったが、話のついでというものである。
「そうかな、この世のものとは思えないような人だったからやっちゃんに似ていた印象は強くないけど。やっちゃんはオシメしているころから知っているからなあ。京都のお公家さんの家系だったそうだけど」
「本当に『おひいさま』だったんですね」
「僕が小学生のころだったけど、正月の集まりで羽根の若奥さんが琴を弾いたことがあった。あれは忘れられないなあ。全身が震えるような衝撃だった」
「琴の腕前に」
「多分演奏技術もかなりのものだったんだろうけど、それより全体的な存在感というか存在感の欠如というか。幻想的だった。こんな田舎に嫁に来ちゃいけない人だったのかもしれない」
「でも東京に行くっていう感じでもないでしょ」
「それはそうなんだけど。あのときの琴。あの蔵のなかにまだあるはずだ」神屋さんは新しいほうの蔵を眺めた。
「あの中には、たくさんお宝が隠れているのでしょ」私はさっき見た指輪のことを思い出しながら言った。
「古いものは多いと思う。でも蔵の中よりむしろ、ここの建物自体がとても貴重なものだから。今残っている母屋は柴田武彦という明治期の割と知られた建築家の設計したもので」
「有名な人なんですか」
「知らない人は知らないし、知っている人は知っている。自分でいうのもなんだけどなんて論理的な発言なんだ」笑いながら付け加えた。私もつられて笑った。志々目くんが同じこと言ったらハリセンをかましたくなるところだが、人柄というのは恐ろしい。「大きな駅の設計なんかでも知られている人で、当時の日本の建築家の間では最先端ってところにいた人かな。そういう人が純和風の民家を設計したんだから非常に珍しいと言える。その上、施工したのは羽根家と古くから付き合いのあった金沢の宮大工だったそうだから、そういう点でも貴重じゃないかな。宮大工が民家を手がけることも珍しいし」
「詳しいですね」
「一応専門分野。僕の専攻は建築工学だから」
「へえ、建築科なんですか」
ノーベル賞に建築賞とか工学賞とかあっただろうか。今の女子学生というのはたとえお嬢さん大学に通っていても、将来稼ぎの良い男をつかまえて目出度く専業主婦の座に納まるなんて将来は描けないものだ。結婚するにしても結婚しないにしても、自分の食い扶持ぐらい自分でどうにかしなければならないと覚悟していたりする。それでも仮に将来結婚する機会があって、もしその愛しのだんなさんが毎日真面目に会社に行っているなあと思っているとある日突然ノーベル賞をとったりしたら、やっぱりすごく素敵じゃないかとは思える。うら若き多感な娘がこの程度の夢を描いたところで一体誰が彼女を責められるであろう。
「本来だったら、重要文化財に指定されていてもおかしくないけど。昭和三十年代に大規模な改修工事をしているせいで、幸か不幸か文化財に指定されることを免れたとも言えるんだけど。先々代、やっちゃんのお祖父さんが新し物好きで、一度母屋も全部解体してセントラルヒーティングを引いたんだ。そのとき明治に建てたときの設計図を利用したそうだから。それも蔵の中を探せば出てくるはずなんだけど」
「見たことないんですか」
「うん、やっちゃんが蔵に人が入るのを好まないんで、探したことがない」
「へえ」幼いときにいたずらしてお仕置きに蔵に閉じ込められたことでもあるのだろうか。それとも。志々目くんが想像しそうな背徳的な出来事とか。
「まあ昭和に改修したおかげで、文化財にも指定されず、今でもあちこち気楽に改修したり修理したりできて住んでいる人には便利なんだけど」
「文化財に指定されてしまうと、修理もできないんですか。人が住んでいるのに」
「個人の持ち物で実際にその人が住んで使っていても、文化財となるといちいち許可が必要でかなり手続きが面倒になるはずだよ」
「そうなんですか」旧家というのは確かに色々ありそうだが、そんなことも問題になる場合があるんだ。
「そういえば庭の向こう側、あすこに高い楡の木があるでしょう」
「あの、五本くらい木が並んでいるところ」
「うん、あの中の一番背の高い木。あれは樹齢のある古い木で県の天然記念物に指定されているから、それこそ勝手にできない」
「そうなんですか」私は立ち上がって、その木の方を見た。
「そうだ、元木さんにもこれを見てもらおう」神屋さんは急に思い立ったらしく、ポケットから紙を取り出した。そのA4ぐらいのコピー用紙を広げて私に渡した。俳句らしきものが表裏にびっしり書いてある。

天狗山歌仙

幻氷の此方彼方に立ちにけり
家へと続く永き日の道
春炬燵猿の指もつ男ゐて
砂の眠りへ風のささやき
月光は真つ直ぐライムソーダ色
きみゆゑに増す秋思の目方
天高く凭れてもよい肩のあり    ウ
灯りを消して見えるのは何
たましひの深きところに冬銀河
風呂場の窓に銀のスプーン
目を瞑る苺畑の棲みやすく
丘の上には千の声吹く
かきならす朧月夜のバラライカ
午前二時まで語る花冷え
蝶々を追ふ君の手を持つたまま
象牙色にて返らざる音
教会に散らばりし米夏初め
空の高きを理由なく集め
禁断の青林檎なる蛸の園      ナオ
扉開いて霧の未来へ
出会ひしは呼び名を三つ持つ女
なむばないんぬなむばないんぬ
かくさずにゐられずにゐて冬の雷
ぶだう酒よりも深きくれなゐ
ただ暮れる釣瓶落しの変な紙
お年頃です木の実十七
車窓より好みのもみぢ物色す
じぶんじぶんと頬を涙が
世界中のひとへおやすみ月冴えて
朱色のかをりメヒコへの夢
たはむれのごとく虞美人草を売る  ナウ
今は隠るる場所を探して
君を好く如くにぼくを好いてくれ
心の扉を開く薄氷
ひとひらの花を肌に歩き出す
言の葉の謎かく咲きて蒔く

いい若い者がふたりそろって、朝っぱらからこんなことで時間をつぶすのか。もうデフレの申し子としか表現しようがない。若いんだからもっと他にエネルギーを使うことがあるだろうに。撫ぜたりさすったりとか出したり入れたりとか。まったく日本の将来は大丈夫なのか。
「私には、何が起こっているかさっぱりわかりません」
「連句って聞いたことない?」
「聞いたことぐらいあります」
「ふたりだけでやるのはちょっと反則なんだけど。最初、当季で詠んで次に短句をつけて次々に長句短句の順でつけていくんだよ」
「このナオとかナウとか書いてあるのは何なんですか」
「名残表と名残裏、面白いでしょ」
「何がなんだかわかりません」こんなものの何処がおもしろいっちゅうんだ。
「そうかな。元木さん、すごくセンスがあると思うけど」
「神屋さんはそうやって、女の子がいると悪の道に誘い込むってもっぱらの評判ですね」ここで取って置きの笑みを見せようかとも思ったが、やめることにした。まだまだ先は長い。あせるなあせるな。
「あはっ。そうだね」神屋さんはずいぶんと穏やかに微笑んだ。まったく一筋縄ではいきそうもない。さすが国立理系である。
「ふたりで仲良くなんの相談?」そこへ志々目くんがやってきた。彼も喪服に着替えている。「もう式が始まるよ」
「お前を待ってたんじゃないか」
「それにしちゃ、二人っきりでなんか楽しそうに」
「二人っきりにするから、あやうく悪の道に誘われそうになったじゃない」と私。
「そうなんだよ。社ってちょっと見はおとなしそうな顔をして、やることがいちいちいけない奴なんだよ。法定伝染病に類する措置を取ってもらわないことには枕を高くして眠れない」
「法定伝染病はお前の方だろ」
受ける雰囲気がだいぶ違うのにこのふたりは妙に仲がいい。類は友を呼ぶとはいうけど、興味とか知識の傾向も似ているようだ。頭の程度もやはり同じぐらいなのだろうか。まあ同じ国立大学だからな。
「式が始まるって、まだ人が来ていないようだけど」
「もうずいぶんいるよ」と志々目くん。
「表玄関は建物の向こう側になるから、来客はこっち側は通らないんだ」と神屋さん。「もう行ったほうが良さそうだ」
「あれが表玄関じゃないんですか」私はクルマも含めて何度か出入りした玄関をさした。
「あれは東門。表の門はここからだと母屋の向こう側にあたる」
「ごめんなさい。私荷物取ってくるから、ちょっと待っててください」
縁側からそのまま家に上がって、手洗いを済ませ荷物を置いてある部屋に戻った。香典と数珠を荷物から取り出すと、神屋さんたちの所へ戻った。
一旦その東門から外に出て、私たちは表門から屋敷内に入りなおした。受付けには近藤さんとクルマで送ってくれた若い人が座っていた。母屋の表玄関は、まるで毎日葬式が出ても対処できるという縁起でもないことを考えさせるほど広かった。その広い如何にも旧家らしい玄関のなかでこれまた古い由緒正しそうな花瓶に活けられた花がそのだけ明るく目を引いた。誰が活けたのだろうか。あの大奥様と呼ばれている靖子のお祖母さんだろうか。花の名前もわからないが、とても品があって落ち着いた佇まいがかえって視線を誘う。靴を脱いで玄関から上がると、もうだいぶ人があつまっているのが見えた。正確にはわからないが百人くらいもいそうな気がする。和装のひとが多い。若い人間が少ないせいか、全体として小柄に見える。なんとなく外国に行ったときの感覚に近いものを覚える。一周忌は二十畳の部屋がふたつ並んだ間の襖を取り払って広くしたところ、映画で見る田舎の昔の葬式そのままのような場所で始まろうとしていた。靖子はお祖母さんと並んで最前列にすでに座っているのが見えた。後ろの方の空いているところに座ろうとしたら、「もう少し前へ行こう」と神屋さんが言った。
「でも私、親戚でもないし」
「親戚は多いけど、仏さんの家族に当たる人がほとんどいないから、友人関係は席次が高くなるんだ」
どうもよくわからない理屈だが、私は神屋さんと志々目くんと並んで前から3列目ぐらいに座った。そこにたどり着くまで人の目が集まって落ち着かないことはなはだしかったが、座ってみれば特に何もない。あちこちで人の話し声がする。特に私たちのうわさをしているとは思えない。ほどなく了沢さんがやってきて仏壇の前に座った。同時に靖子が立ち上がって、簡単に挨拶した。本当に簡単なもので、お忙しいところ亡き父のためにお集まりいただき感謝しておりますというようなことを、ゆっくりと大きな声で誰へというわけでもなく話しただけだ。でも、りっぱな態度だったとあとで誰もが言うだろうとは思った。
やがて了沢さんの読経が始まった。それからは長い長い一時間だった。正座が苦手なつもりなかったがすぐに脚がしびれてどうしようもなくなった。志々目くんはいつも以上に落ち着きがなく早々に正座を崩してしまったので、私も時々脚を崩してごまかしごまかし過ごした。神屋さんは剣道少年だっただけに少しも苦しそうじゃない。やがて脚のしびれが意識を混濁させる始めたらしく、周囲のことなんて目に入らなくなってきた。繰り返し体重の移動を試み体内の重心を探求する、長い長い一時間が過ぎた。待ちかねた読経の終了。後ろの列の方から立ち上がり移動し始める気配。私は脚を伸ばした。それから立ち上がろうとしたが立てない。
「元木さん、顔色が悪いよ」と神屋さんが手をとって助け起こしてくれた。
「今度は赤くなった」と志々目くん。ひとこともふたことも多い人間だからなにか言うだろうとは思っていたが、予想していたところでやはり腹が立つ。とっさに何か言い返そうとしたが周囲の視線が気になってうまい言葉が思いつかない。それにしても私ってそんなに顔色が変化するほうだったのだろうか。別室に食事の用意がしてあるので、そちらに移る。今度も神屋さんと志々目くんに挟まれて座る。
「両手に国立理系」状態とは言える。靖子は離れたところにお祖母さんと了沢さんと並んで座っている。志々目くんは料理が珍しいらしく、片っ端から手をつけている。食べるのに忙しく口を滅多にきかないのは助かる。神屋さんは顔なじみが次々に現れてビールを注いでいくので、そちらの方が忙しい。皆、「慎ちゃん」とか「慎一郎さん」とか話し掛け、珍しそうに私を見ては、「同じ大学の人?」と訊く。「やっちゃんの大学の友達」と神屋さんが答えると、一様に安堵したような表情を浮かべる。神屋さんの大学の後輩とか友達という答えが返ってこなかったことに対する安堵が見て取れるような気がする。仮に私が神屋さんの友達だったら親類で集まって結納の金額の相談でも始めそうな緊張を感じるとも言える。かんぐり過ぎかもしれないが。
神屋さんのご両親にも紹介される。彼らは私が靖子と同じ大学だと知っていたらしく、そのことに関する質問は出なかった。この人たちも話の合間の「へえ、へえ」いう言葉使いが耳に残る。それから神屋さんと八つ年が離れているという妹さん。高校生だがやたら初々しく、頬がまさしくリンゴのようだった。こんなに人目が多くないところだったら触らせてもらうのこともできるのに。そんなことを考えているうちにさっさと靖子の方へ行ってしまった。どうやら靖子と仲が良いらしい。しばらくして神屋さんと同じくらいの年齢の男性がやってきた。案の定というか高校時代の同級生だった。ひさしぶりだねえ、というようなやり取りの後、やはり皆と同じく「慎ちゃんの大学の人?」と私のことを訊く。
「いいえ、靖子さんと同じ大学です。元木といいます」
「上坂です。どうも」とペコリと頭を下げる。そして「東京の人ですよね」と念を押した。
「生まれもの育ちも東京だよね」と神屋さん。
「ええ、まあ」三鷹だってもちろん東京である。しかも私の場合、先祖代々というか寛永の大火以来あの辺りの住人だ。
「そう。正真正銘、掛け値なしの東京の女子大生」と今度は志々目くん。掛け値なしの女子大生というと幼稚園から付属でずっとエスカレータであがってきた女子大生のことを指すような気がする。私はずっと公立だったので私の定義からすると正真正銘掛け値なしということにはならない。
「へえ。すごいなあ」なにがすごいのかまったく判らない。「うん。この機会によく見ておくといいよ」と神屋さん。いたって冷静に言うのでやはり冗談なのかどうか判然としない。
「テレビで見るのとはだいぶ違うね」というやり取りが遠くの席の方でする。まさかとは思うが私のことを言っているのだろうか。いまどき女子大生だのが出てくるテレビドラマなんてやっていただろうか。なにがなんだかわからん。ただの私の思い過ごしだといいが。後でちょっと靖子に訊いてみよう。
この神屋さんの元同級生は私が東京の女子大生だという確認が取れたらそれで満足したらしく、自分の近況を神屋さん相手に話し始めた。金沢のPCソフトメーカーで働いているらしい。考えてみれば神屋さんだってとっくに働いていて良い年齢だ。オブジェクト指向だのプラットホームだのの話がひとしきり続く。もちろん何のことを話しているかわからない。上坂さんは時々私にもビールを注いでくれる。私は他にやることもないので上坂さんと神屋さんと志々目くんにビールを注ぐ。やがてオブジェクト指向の話は終わったらしく、ひとしきり同級生の話題になる。これはスクリプトやデータの取込みの話以上に掴めない。同級生のひとりにもう子供がいることで話は大いに盛り上がるが、その人を知らない私は当然何が面白いのかわからない。これなら俳句の話でも聞いていたほうがまだ注意力が持続する。けっこうビールを空けてから、その上坂さんはまた別の場所へ移っていった。
「ちょっと、やっちゃんのお祖母さんに挨拶しておこう」と神屋さんは志々目くんと私に告げた。
「ああ、そうだね」と志々目くん。
「私はもう挨拶したけど」
「でもまあ、やっちゃんのところに行こう」
靖子とお祖母さんは部屋の奥まったところ、みんなからすこし離れた感じの席に座っていた。了沢さんの姿が見えない。すでに引き上げてしまったのかもしれない。
「ああ、慎一郎さん。よくきたね。靖子がいつもお世話になっております」お祖母さんは神屋さんにすぐ気付いた。白内障とはいえ本当にわかるらしい。
「ご無沙汰しております。靖子さんには、いつもこちらの方がお世話になっているくらいです。昨日も今日も泊めていただいているぐらいですから」
それから志々目くんを「彼も今回一緒に泊めていただいている友人です」と紹介した。
「はじめまして。志々目晴彦と申します。お世話になっています」
志々目くんは丁寧にお辞儀した。なあんだ、やればできるじゃないか。と私は思った。これだったら日本の将来を背負って立つ若者に見えないことはない。見えないことはなさそうだが、見えるとは断言し難い。名前はなんといったか、靖子のすぐ前にいた神屋さんの妹さんが珍しそうに志々目くんを見ていた。たしかに珍しいけど。
「遠いところをよう来なさった。ゆっくりなさってください」仏さまのような笑顔で言う。やっぱり見えてないのではないかとも思う。「そちらは東京からいらしたべっぴんさんだね。食事はお口に合いましたか」見えているものかどうかはっきりしなくても、べっぴんさんという言葉の感触が心地よい。こまったものである。
「ええ、たいへんおいしかったです」
「まだまだ時間はあるからたくさん召し上がっておくれ」
「あ、はい」
「靖子。わしはそろそろ引き上げるから」
「そうですか…」
「長い間座るのももう億劫な歳でな」
「はい」靖子は手を出して、お祖母さんが立ち上がるのを手伝った。脚がかなり弱っているようだ。
「わしは部屋に戻りますが、皆さんゆっくりなさっていってくださいな」一分近い時間をかけて立ち上がると、お祖母さんはそう言い残して靖子に手を引かれながら去っていった。退室する前、年配の男性数人と何事か言葉を交わしている。
「あの人たちは」と誰とものなく尋ねる。
「ああ、あれは県会議員がふたり。あと警察署長さんだったかな」と神屋さんが答える。
お偉いさんたちへの挨拶が済んでお祖母さんが立ち去ると、それを待っていたように、帰り支度を始める人がいる。と思う間に帰ってしまう人もいる。中には帰りがけに私たち、要するに神屋さんや志々目くんや私に暇を告げて帰るひともいる。田舎のこういう儀式、法事というか仏事というか祝儀不祝儀の類というかよくしらないが、こういうものはやたら時間がかかると覚悟していたのだ。なんか拍子抜けするほど、さっぱりと帰っていく。帰り際に挨拶に来たさっきの上坂さんが神屋さん兄妹と話し込んでいるところに、靖子がようやくという感じで戻ってきた。そろそろお暇します、みたいなことを上坂さんが言うと「ゆっくりしていってください」などと返すが、まるで引き止めているように見えない。靖子の姿に気付いて、残っていた人たちもそれぞれ挨拶に来る。それぞれ異口同音に「りっぱなお式でした。これでお父さんも安心でしょう」というようなことを口にする。これはこれでやはり時間がかかる。私も靖子のとなりでまるで家族のように挨拶を受ける。すこし離れたところに居る神屋さんのまわりにはいつのまにか立ち話の輪が広がって、帰ると言っていた人がいつまでもしゃべっているようだ。話に加われなかったらしく志々目くんがこっちにやってきて私のとなりに座った。「社の奴すっかりこっちのイントネーションになってしまってまるで別人みたいだ」なんて言う。この土地のイントネーションになっていたことには私も気付いていたが、特に別人みたいとは感じなかった。ひとが居なくなった席ではもう後片付けが始まっている。そろいの服装の人たちが入れ替わり立ち代り動き回っている。私もすることが特にないので片付けと手伝おうかと思い「あの人たちは」と訊いてみた。
「旦杏っていう」
「旦杏?」
「花の名前だね。夏の季語」と志々目くん。
「へえ」俳句をやっているとこの志々目くんでも教養がありそうに見える。やはりこの機会に歳時記は買っておこう。
「旦杏っていう金沢の料亭の人たち。うちではいつも頼んでいるところ」
「あんなに余っているのに、もう持って帰っちゃうの」と志々目くん。「大丈夫です。近藤さんに頼んで、残ったものは十人前ぐらい取り分けておいてもらいましたから」
「ああ、それなら安心した」十人分ぐらいあれば、靖子と志々目くんが総力をあげても多分問題ないだろう。私も安心する。お店のひとがやっていることだったら、変に手伝わない方が良いかもしれないと考えて、おとなしく席にいることにした。靖子はさきほどから客たちとの挨拶に忙しい。そうするうちに三々五々、人が少なくなり、ほとんどいなくなった。残りは神屋さんの友達数人だ。
残っているが自分たちだけと気づいたらしく神屋さんが近づいてきて「ちょっと、その辺まで散歩がてら送ってくるから」と靖子に言った。「はいどうぞ」
「じゃあ、次の集合は十八時半に僕たちの泊まっている部屋で。明日の予定はそのときに決めよう」
今度は志々目くんや私にも念を押した。「ええ、十八時半ですね」と私。「OK」と志々目くん。「それじゃ」と神屋さんは妹さんと友人数人とともに部屋から出て行った。「じゃあ、私は着替えてきます」と靖子が立ち上がる。私も立ち上がった。「あれ、そこ何が入っているの」靖子の喪服のスカートが膨らんでいるのに気がついて尋ねた。
「えっと」靖子は不思議そうな顔をしてポケットを探る。出てきたのは今朝了沢さんから渡された宝石箱だった。「あらやだ。どこに仕舞おうか考えているうちにそのままポケットに入れて来ちゃったんだ。私っておっちょこちょいだから」
おっちょこちょいなんて言葉を使うあたりがまさに靖子のおっちょこちょいなところだが、欠点がひとつやふたつだったら、有り余るほどのお釣りがくるんだからいいじゃないか。
「ちょっと、見せて」人目が少ないのをいいことに手を出した。
「あ、どうぞ」と靖子が差し出した箱を両手で受け取る。さっきも思ったが見かけよりずっと重い。金の重さ。
「なんなの、それ」と志々目くん。当然、身を乗り出して訊いてくる。どうしてここまで予測どおりに動くんだろう。私は箱を開けてみた。確かに金属の感触がある。
「靖子のお母さんの遺品。事情があって了沢さんのお寺に置いてあったものを今朝渡してくれたの」靖子が黙っているので、私がかわりに説明した。黙っているとかえって勘繰られるに決まっている。特に志々目くんの場合。
「ふーん、指輪?」
「きれいでしょ」形容のしようはいくらでもあるのだが、もっともありきたりな言葉を選んだ。
「うん」志々目くんの返事も実に簡素なものである。「香奈さん、欲しい?」
「ぜんぜん」一瞬の緊張のあと、なるべくそっけなくならないように気をつけながらも簡単に答えた。もちろん「ぜんぜん欲しい」わけではあるが、そんなこと口にしたら、やはりあげるとか言い出しかねないような気もする。相手は靖子だからこういうときは最悪の状況を想定して言葉を選ぶべきだ。私は蓋を閉じて宝石箱を靖子に返した。
「私も着替えなきゃ」
「俺、着替えるついでに、また風呂使わせてもらっていいかな」
「ええ、いくらでもどうぞ」
靖子がにっこり微笑む。「ほんとに気に入ったんですね」
「うん、素敵なんだ、槙の風呂。元木さんもよかったら一緒に」
「昨日からそればかり言ってますね」
「うん、俺って簡単に心変わりするようなタイプじゃないんだ」
本当に口が減らない。綾波のフクラハギのくせに風呂が好きというのも変な話である。オタクが風呂嫌いというのは世の中に流通している謂われなき偏見のひとつなのだろうか。靖子が部屋に引き上げたので、私も寝泊りしている部屋で着替えをした。きっと靖子はジーンズじゃないだろうかと思い、私も持ってきたものの中で一番ラフなものにした。ユニクロのコットンパンツ。ラフといっても新品おろしたて。今回の旅行では私はけっこう衣装もちである。着替えて終わって靖子の部屋を訪ねるとちょうど部屋から出てきたところだった。思ったとおりジーンズを履いている。昨日新幹線で穿いていたものとは違う。
「それ、小さすぎない?」
「去年まではピッタリだったんだけど」
「もしかしてお祖父さんのオサガリ?」
「そう、よくわかったわね」
この家屋敷全体がお祖父さんのオサガリみたいなものだから。
「もしかして、お祖父さんって変わった人だった?」
「別に変わってなかったと思うけど。にぎやかな人だった。なんていうの、多趣味?」
「フーン」
「私、東京に出て少し太ったみたい」
「靖子の場合は大きくなったって感じだね」
他のところに肉がついてもウエストさえ無事なら太ったとは言わない。
「羽根靖子、日々成長しております」と靖子は高らかに宣言した。将来県会議員に立候補するときの予行練習か。靖子がすたすた歩き出したので、後を付いて行く。「ねえ、神屋さんの妹さんって可愛いね」
「え、かよちゃん。そうね」なんかそっけない。考え事でもしているのだろうか。神屋さんの妹さんはそういえば佳代子という名前だった。今思い出した。こちらとしてはもうちょっと神屋さんに関する情報がほしいところなのだが。だいたい女なんてものには、もっと何か物語る欲求というようなものがあるだろうに。若い娘なら糸口さえつければ「それでね、それでね」と話は続いていくのが普通じゃろうが。
靖子は後片付けを指示している近藤さんと何か話があるようなので邪魔にならないようにまた庭に出た。まだ明るい。北陸というとなんかいつも雲が低く立ち込めているような印象もあるが、きょうは良い天気だ。こういう日は珍しいのだろうか。あとで神屋さんに訊いてみよう。いつのまにか日が長くなったことに気付く。もうすぐ四月か。神屋さんに教えてもらった栃の木まで行く。根元のところに小さな金属製のバネルが植えてあり、なるほど県指定保護樹木であることが記されている。靖子がやってきた。庭に出てからあまり時間が経っていない。
「もういいの、片付けの方は?」
「うん、ちょっと進行状況を確認してきただけだから」

十八時過ぎに男性陣の泊まっている部屋に入ると、志々目くんがトレーニングウエアのような姿で寝ていた。こういう格好をするとますますガキに見える。声を掛けたら目を開けた。
「ああ、驚いた。新幹線の中で句会している夢を見ていた」
「しょうがないなあ。あれは夢じゃなくて昨日実際にあったことでしょ」
「そうじゃなくて東京へ帰る新幹線の中で席題を決めている夢」
「マジで?」
「うん」
「信じられない」
「志々目さん、今日の夕食もこの部屋で良いでしょうか」
「うん、ぜんぜん大丈夫」
そのとき部屋に入ってきた近藤さんが靖子に声をかけた。
「お嬢さん、あの。清一さんが、お声をかけても出ていらっしゃらないのですが」
靖子は困ったような顔をした。
「それは。いつものことじゃないですか」
「ええ、でも。お食事が手付かずで」
「それも珍しいことではないのではないですか?」
「そうですが、あまり召し上がらないときも、味噌汁ぐらいには手をつけているものでございますが、先ほど晩御飯をお持ちしたときにみたら、前に出していた昼御飯にまったく手を触れた感じがありませんので、声をおかけしたのですが返事がありませんので」
「おかしいですね」
「清一さんって、離れに住んでいるっていう伯父さん?」と訊く。
「ああ、あの京都の大学病院で助教授までいったっていう伯父さん?」と今度は志々目くん。
「ええ、まあ」
「ちょっと来ていただけませんか。部屋の中で倒れてられていたらと思うと。大事ですから」近藤さんが言う。
「でも人に会わない人なんだろ」と志々目くんが不躾に訊く。
「まったく部屋から出てこない訳ではないです。夕方ぐらいは身体が楽らしく、時々庭に出ていらっしゃることもあります」と靖子が答える。「ひと月かふた月に一度くらいは金沢まで買い物に出かけることもあります」
「ふーん」
「すみません、お嬢さん。お願いします」近藤さんの声にはどことなく怯えているようなところがある。
「ええ、わかりました」
「俺も行こうか?」
「いえ、けっこうです。こちらで休んでいてください」
「いや行くよ。もし倒れていたら、だれか運ぶ人間がいたほうがいいでしょ」そんなことを言うが、単なる好奇心、物見遊山にしか見えない。
「まってよ。私を一人で置いておく気」
「元木さんも来なよ。社が居たら、『鬼に金棒』とか言うところだ」
「何よ。私が鬼なの?」
「そう、俺が金棒…、」
「ちょっと待って、今続けて何かセクハラ発言をかまそうとしたでしょ」
「まさか、そんなこと」
「いや、何か言おうとした、絶対」
「それはまあ置いておいて、とにかく様子を見に行きましょう」志々目くんはすでに立ち上がって近藤さんを促す。本当に落ち着きがない奴。
「香奈さん、ごめんなさいね」靖子が謝る。謝るほどのことではない。
「別に謝るほどのことじゃないじゃない」
近藤さんと志々目くんに続いて廊下に出ると、ちょうど帰ってきた神屋さんに出くわす。
「どうしたの、みんな揃って」
「いや、離れの伯父さん、倒れたかもしれないっていうから。様子を見に行こうということになって」
「まだ倒れたと決まったわけじゃないわ」と私。
「それでみんなで様子を見に行くのか。『三人寄れば文殊の知恵』だったっけ」
「いやこういう場合は『鬼に金棒』。元木さんが鬼で俺が金棒で、それでもって」
「もうそれ以上、金棒について話題にすることは禁止!!」
「はいはい、すみません。もう言いません」
「よろしい」
こんな馬鹿な話をしている間にも靖子は近藤さんと並んで、旧家らしい薄暗い廊下のはるか先まで歩を進めていた。東京でののんびりした靖子とは明らかに違う。
私達の泊まっている棟の端まで来るとそこから渡り廊下になっており、離れにつながっている。離れの建物自体は新しい印象だけど渡り廊下は古風でどこか雅な感じを受ける。どの辺りが古風なのかよくわからないが。
見るとお膳がふたつ並んでいる。ひとつは味噌汁と小さなお櫃に茶碗と焼き魚らしい一皿に何かのお浸しらしい小皿。もうひとつは一周忌の後に出た料亭の高級そうな弁当箱。多分こちらが夕食として近藤さんが運んで来たものなのだろう。
「おじさま、靖子です」と言って渡り廊下に面した戸をノックしている。返事はない。あんなに大人しいノックじゃ、寝ていたら多分気付かない。何度も繰り返すうちに靖子の声もだいぶ大きくなった。しかしやはり返事はない。
「何。一日に三回、近藤さんが食事をここに運んで置いておくわけ?」志々目くんが訊いた。
「いえ、二回です。伯父は午前中ほとんど、その、動けないらしいので。昼御飯と晩御飯を運んでもらっています」靖子が答える。
「しかたない。もし急病で倒れていたりしたら大変だから、男二人でこの扉をぶち破るか」と志々目くんが神屋さんに提案する。
「よく見ろ。これはすりガラスを使っているから目立たないけど、この種の格子戸を作れる職人は今じゃ日本に数えるほどしかいない」
「よく見たって、そんなもんわからん」
「鍵は清一さんが持っているだけ?」と神屋さんが靖子に訊く。
「おばあさんのところには、合鍵があるはずだけど」
「じゃ、それを使って開ければいい」
「ごもっとも」と志々目くん。
「すみません。近藤さん。おばあさまの部屋に行って鍵を。おばあさまがお就寝みになっているようだったら、文机の引出しに鍵がたくさん入っているはずですから、そこから探してきてください」
「はい、いってまいります。しばらくお待ちください」と近藤さんは足早に廊下を戻っていった。
「その清一さんって伯父さんは、何年くらいここに住んでるんだっけ」
「もう十年になる」と神屋さんは靖子の方をむく。
「今何歳ぐらい?」
「たしか、今年五十二になるはずです」
「じゃあ、三十代で国立大学の医学部の助教授になったんだ。バリバリのエリートじゃん」
「あんまりそんな風に考えたことはないな」
ここにいる引きこもり伯父さんも国立理系なのか。なんかこの数日に限って、私の周囲の国立理系度が上昇している。
近藤さんが庭から現れた。渡り廊下側の鍵が見つからなかったので、離れの表玄関の鍵を持ってきたそうだ。皆が庭に降りられるように人数分の履物まで持ってきている。用意がいい。
渡り廊下から庭に降り、みんなして玄関側にまわる。靖子が鍵を開け、どこかアンティークな扉を横にスライドさせると、神屋さんと志々目くんが中に入った。玄関のスペースが小さいので残りは外のままだ。
「明かりのスイッチは」と中から神屋さんが訊く。
「たしか、右側の壁に」と靖子。しばらくして明かりがついた。といっても何秒も経っていない。
先に入った男二人が履物を脱いで玄関を上がったので、私たちも玄関の中に入った。すぐに部屋の明かりもつく。
「あれは寝ているようには見えないな」明かりがついて十秒以上もしたころだろうか、神屋さんの声がした。
靖子に続いて私も玄関から部屋に上がる。八畳ほどの和室。
「眠っているようには見えない」
「ミステリ研だろ、もっと何か言うことはないのか」
「本の中だったらともかく生身の死体には馴染みがない。首にロープを巻かないと安心して眠れないという人もいるかもしれない」
「そんな、お前の書いた小説じゃあるまいし」
ふたりとも一応取り乱しているらしいのだが、どうもきちんと慌てているようには見えない。それが取り乱しているということなのかもしれないが。
やがて神屋さんが意を決したらしく、部屋の隅に横たわっている人に近づいて「清一さん」と声をかけた。屈みこんで肩に手をかけもう一度名前を呼ぶ。返事がない。
両手を肩にまわして身体を起こす。
「和尚さん!」思わず叫んでしまった。それぐらい驚いた。自分でも声の大きさに戸惑ったぐらいだ。神屋さんも驚いてこちらを見た。
「びっくりしたなあ」志々目くんが本当に驚いたようにつぶやいた。「急に大声出さないでよ。心臓に悪い」
「それ私に言ってるの? だって和尚さんじゃない。了沢さん」
「そりゃ似ているけど。兄弟なんだから。よく見なよ。髪の毛があるし、無精ひげも」
「でもそっくり」
「それより、具合は」
「息をしてないと思う」と神屋さん。
「近藤さん、急いで中村先生を呼んできて。電話じゃなくて深瀬さんに言ってクルマで迎えにいってもらって」と靖子。
「はい」と小さな声で答えて近藤さんがすぐに出て行った。
「中村先生って?」と靖子に訊く。
「村で開業しているお医者さん」
「さっき食事の席でかなり酔っ払っていた人でしょ。なんかお約束な感じの村医者」と志々目くん。
そういえばそんな人がいた。
「どうして中村先生がお約束なのかまったくわからんぞ、志々目」神屋さんは立ち上がって靖子の方へ向き直って言った。「でも、お医者さんが来てもこの状態じゃ、なにもすることがない。もう冷たくなっている」
「あんまり触らないほうがいい」と志々目くん。
「どうして」
「だってこれって」志々目くんが肩で息をしている。ちょっと苦しそうに見えるくらいだ。一息ついてから、改めて深呼吸して息を整えた。
「これって密室殺人じゃないか」
「目が血走っているぞ、志々目」
血走ってこそいないが、確かに異様な目つきになっている。
「渡り廊下側も玄関も鍵が掛かっていた。ここも、隣りの部屋だって雨戸がしまっているし内側からのつっかえが降りている」開け放しになっている障子ごしに、隣りの部屋をのぞきながら言った。となりは茶室らしいが布団が敷いてある。おそらく万年床なのだろう。
「こっちのキッチンになっているスペースだって、窓が狭いし格子があるから人の出入りはできない」志々目くんは奥の台所に入りながら言った。つられて残り三人も移動した。ちょっと変わった空間だった。おそらく元々は水を汲む用途に使われるだけだったスペースにシャワーとトイレも設置したように見える。
「だって自殺だろ。鴨居にロープを引っ掛けた後がある」
神屋さんに言われるまで気付かなかった。茶室とこの部屋の間の鴨居の部分がさけて浮き上がっている。
「そんなの工作に決まっている。密室殺人は当然自殺に見せかけるために密室をわざわざ作り出すものだ。別に不可能犯罪を成立させてマニアを喜ばせようとする犯罪者なんているわけがない」
「自信たっぷりだな」神屋さんはさっきから上ばかり見ている。倒れている人にはあまり注意が向わないようだ。
「だって鴨居が壊れてロープが途中で外れたっていうのか。しかも途中で外れたのにきちんと自殺に成功したって?」
「自殺にみせかけるのに、殺して床に転がしておく方がおかしい。それこそ殺してから必ずどこかに吊りさげるだろう」
「それは」
志々目くんが何か言い返そうとしたとき、玄関の開く音がした。中村先生が昼間クルマで龍谷寺まで送ってくれた若い人と入ってきた。彼の名前が深瀬さんというのか。
「清一さんが倒れたんだって」玄関に一番近いところに立っていた靖子に軽く頭を下げると中村先生は訊いた。
「こちらです」
中村先生は靴を脱ぎ玄関を上がった。さっき一周忌から帰っていったときに比べると、足取りがしっかりしている。しかし顔はやや酔いでむくんでいる感じだ。部屋に入るとすぐ横たわっている身体の脇に座り込んだ。古風な診察鞄を畳の上に置く。首に巻きついているロープを外すと、耳の下辺りに手をやってしばらくそのままでいる。たぶん脈を探っているのではないかと思う。それから今度は両手を顔にあて指で瞼を押しあげた。「ちょっと慎一郎くん」と神屋さんを呼び、サインペンほどの懐中電灯を手渡した。「ちょっとここを照らしてくれないか」とどこかを指さす。神屋さんは先生と並んで座り懐中電灯を構えた。「ああ、ありがとう」
しばらく神屋さんとそのままの姿勢でいた。
「これは完全に死んでおる。医者を呼ぶには一日遅かった」
「一日ですか?」すぐ隣にいた神屋さんが聞き返した。
「まあ一日は経っておらんかもしれん。死後硬直もすでに引き始めているようだから短くても二十時間は経っておることはまちがいないじゃろ」
みんなそこで沈黙した。ということは昼に縁側に座ってこの離れを眺めていたときには、すでにこの清一さんという伯父さんはここに横たわっていたことになると私は思った。
「この遺体を降ろしたのは、慎一郎くんたちかね」
「えっ、」神屋さんは珍しく慌てたように見えた。志々目くんも神屋さんを見る。神屋さんは靖子を見た。
「いえ、私たちが来たときには伯父様はそこに倒れていました」靖子が落ち着いた声で答えた。
「このままにしておくわけにもいくまい。どうなさる」
「先生の病院まで運んで安置していただくわけにはいきませんか。明朝には葬儀社の手配をします」
「うちは知ってのとおり小さいところだが、ベッドは開いておるからかまわんが」
「えっえっ、遺体を動かしちゃうの」と志々目くんは慌てた声をを出す。
「ここに放っておくわけにはいきません」
「そうじゃなくて、警察が来るまで遺体は動かさないほうが」
「誰か警察を呼んだんですか?」
「誰も呼んでないの?」志々目くんは驚いたようである。
「中村先生、呼びましたか」
「いや、誰にも声をかけないで来たが」
「深瀬さんは」と玄関にいる彼に訊いた。
「特にどなたとも連絡はとっていません」
「じゃあ、警察を待つ必要はないわけですね」
「そういったって。現場検証しないと」
「お前がきめることじゃないだろ。志々目」と神屋さん。
「そりゃそうだけど。そういったって」本当に心残りらしい。
そうしている間に診察鞄を持って出て行った中村先生が戻ってきた。どうやらクルマに鞄をおいて来たらしい。
「じゃ、慎一郎くんとお友達もちょっと手をかしてくれんか。清一さんをクルマまで運ばなければならんから」
深瀬くんが玄関の扉を開け放った。志々目くんは観念して神屋さんの反対側から遺体をささえた。
声をかけて遺体を持ち上げる。靖子と私は邪魔にならないように台所の方に移動する。遺体が玄関から運び出されるのに付いて行くように私たちも玄関から外に出た。
離れの玄関から五六歩という感じのところにエスティマが停めてある。
神屋さんと志々目くんと深瀬くんが苦労して後部座席に遺体を乗せているところだった。一度神屋さんが遺体から離れ先に乗り込んで中から引っ張ってようやく清一さんの遺体は後部座席に収まった。
「うちの病院まで行けばストレッチャーがあるから、深瀬くんだけで足りる。君たちはいいよ」中村先生はそういい残して、清一さんの遺体のとなりに乗り込み、羽根家を後にした。
「中村先生のところって大きい病院なの?」
「小さいところよ」と靖子。
「ベッド数が五つぐらいかな」と神屋さん。
「病室に遺体を寝かしておくの」
「入院患者はいないはずだから、別に誰も迷惑だとは思わない」
ここで会話が途切れた。神屋さんは靖子の顔を見る。
「取り敢えずお食事ですね」いかにも靖子らしいことを言って、離れの部屋に上がると灯りを消してから、また玄関から出て玄関の鍵をかけた。志々目くんがどことなくうらめしそうな目をしている。
「志々目食事にしよう。腹からぼた餅って言うだろ」
「腹が減っては戦ができないと言いたいのか?」
「まあ、とにかく飯だ」と母屋の方へ歩きだした。
「あの部屋、パソコンがあったな」
「ああ、確か二年前ぐらいにADSLが使えるようになったとき、清一さんが買ったんだ」
「ここADSL来てるの。携帯は圏外なのに」志々目くんが持ち前の裏返った声をあげた。
「都会は幾相もの都会性が折り重なって出来ているように、田舎では幾相もの田舎性が折り重なっているものなのだと考えて欲しい」また神屋さんが訳のわからんことを言うが志々目くんはいっこうに気にしていない。
「あの部屋、テレビもラジオもないようだったけど、ネットで外界につながっていたんだ」
「うん、清一さんはメールアドレスを持っていたはずだよ」過去形で言ったことに自分で気付いたのだろうか、神屋さんはちょっと苦い顔をした。
「あのPCを立ち上げれば、だれと連絡を取っていたかわかるかもしれない」
「たしかOSはウィンドウズ2000だったから、立ち上げるのにユーザパスワードが必要だ」
「それだったら、ハードディスクはずして他のウィンドウズマシンにスレーブとしてぶらさげれば、中のデータを吸い上げることができる。同じメーラをインストールすればメールのデータだって簡単に見れる」
「お前、そういう知恵だけはすぐ働くところ、いつも感心するよ」

神屋さんたちが寝泊りしている部屋に戻ると、食事の用意を前にして、靖子が「すみません、私、お祖母さまに会ってきますので、先の食事を始めていてください」と言った。
「うん、ぼくたちのことは気にしないで、行って来て」
「じゃあ、ちょっと失礼します」と言い残して座りもせずそのまま立ち去った。
私たちはしばらく立っていたが、やがて近藤さんがビールを持ってやってきたので、それを潮に食事を始めた。
志々目くんに神屋さんがビールを注ごうとすると、「俺ちょっといいわ」と志々目くんは断った。なにがちょっといいのか判然としないが、私は神屋さんに神屋さんは私にそれぞれビールを注いで食事が始まった。
昼に出た弁当がいくつもある他、いろんなものを盛り上がっている大皿が食卓の真ん中に鎮座している。
「私、こういう地方の一周忌って、もっと時間がかかって面倒なものかと思っていた」
「俺も」と志々目くんが簡単な同意を表明した。
「前はずいぶん時間がかかったものだけど。羽根の家も人が少なくなったから、みんな遠慮して、早めに帰るようになった。やっちゃんのおじいさんの生きているころは夜遅くまで人がたくさん残っていたと思う。もっともこっちも子供だったから、すごく遅くまでと感じた部分もあると思うけど」
「靖子のおじいさんっていつ亡くなったんですか」
「もう十五年ぐらい経つかな。たしかぼくが小学校の三年か四年だったから」
私は靖子のアルバムの写真に幼い靖子と写っていた少年を思い出した。
「それから十年前にやっちゃんのお母さんが亡くなって、去年はお父さん」
「今年は伯父さんですか」
「そうだね。もう本当に羽根の家もお祖母さんとやっちゃんの女ふたりだけになってしまったな」
神屋さんはちょっと遠くのほうを見るような顔をした。この人はこういう表情がよく似合う。悪くない。というよりかなりいい。
「でも、あの清一さんって伯父さん、本当に了沢さんにそっくりでしたね。兄弟っていってもあんなに」
「あれ言っていなかったかな。清一さんと了沢さんは双子だよ」
「双子!」
「大きな声出すなよ、志々目。了沢さんの俗名は清二さんだったはずだ」
「双子なのか」あとに続けて何か言うのかと思ったが、志々目くんはまた黙り込んだ。
私は大皿にあった巻物のような形をした料理と他の料理をいくつか小皿に取り分けて二人の前においてから自分の分も取った。さっきから巻物がおいしそうで気になっていたのだ。志々目くんは料理に見向きもしないで何か考え込んでいる。
「志々目、お前も食えよ」神屋さんが料理を口まで運びながら言った。
「ちょっと待ってくれ。今、この志々目晴彦の灰色の脳細胞が活動中なんだ」
「お前のはピンク色だろ」
「お約束な反応だな」
「志々目にピンクはツキ過ぎか?」
まったくこの連中の発想は片時も俳句からが離れることができないのか。
その後も志々目くんはビールにも手をつけず、放心状態が続いた。本人に言わせれば考えているのだろうが、呆けているようにしか見えない。それでも何色だか判然としない脳細胞は栄養を必要とするらしく、時々小皿に箸が伸びる。神屋さんと私は呆けた志々目くんんを眺めながら、食事を続けた。
「残念だけど、明日の金沢見学はお流れだね」
「そうですね。それどころか温泉行きも予定通り行かないかもしれませんね」
「うん。清一さんの葬式を出さなきゃいけないから、やっちゃんはかなり忙しくなるはずだ」
「当主か」
私と同じ年齢なのに因果なことだ。
「まあ剣持さんがいるから、うまく取り仕切ってくれるだろうけど」
「そうですね」
ビール壜が一本空になったところで靖子が戻ってきた。
「おばあさん、どうだった」神屋さんが尋ねた。
「もうおやすみになられていましたけど。一応、布団のそばまで行って伯父さまが中村先生のところへ運ばれたことは報告しておきました。大変具合が悪いので中村病院に移りましたと。詳しい話は明日の朝するつもりです」
確かに大変具合が悪そうだった、あの伯父さん、と私は思った。
「確かに。かなり具合が悪かったね」と志々目くんが言う。同じようなことを考えていたのはちょっとナンだが、それを口に出すか出さないかが人間としての品格の違いだと思い直す。それにしても血のつながりがある肉親に「おやすみになられていました」という言葉遣いをしなければいけない家庭環境の方が不気味とは言える。
「私、おなかすいちゃった」と靖子は私のとなりに座って箸をとった。
「そんなこと言われなくてもわかっておるわい」
「それじゃ、私が一日中おなかすかせているみたいじゃない。今日は仏事のあとの食事のときは挨拶にいそがしくて、あまり食べていないし」
「あれだけ食えば普通はじゅうぶんなのだよ」
なんか社・志々目パターンを感じさせる会話だ。いつのまにか影響を受けたか。
そのとき庭に面した廊下の扉を叩く音がした。みんなお互いの顔を見る。するとまた叩く音がした。神屋さんが立ち上がって廊下に出る。それと同時に扉が開いてカーテンの間から了沢さんが顔を出した。
「やあ、こんばんは。母屋の方は暗くなっていたんで、こっちに来たのだが」
「あ、はい。こんばんは了沢さん」と神屋さん。
「お邪魔して良いかね」
「はいどうぞ」靖子が立ち上がって答えた。「お寺に電話をいれたのですが、お出かけだと」
「ああ、中村先生から電話があって病院まで行ってきた。寺に電話があったことは病院で聞いてな」
「よかった。来ていただこうと思っていたのです。今玄関を開けます」
「いや、ここから上がらせてもらうよ」
そう言うと了沢さんは履物を脱いでひょいと廊下にあがった。外見に似合わず、重々しさがない和尚さんだ。
昼に着ていたものとは違うが、相変わらずの和装でどこから見ても完璧なお坊さんである。
了沢さんは部屋に入ってくると「ああ、食事中だったのか。まさにお邪魔していることになるな」と言って神屋さんのとなりに座った。
「まあ了沢さんも一杯どうです」と神屋さんが勧めた。
「ああ、戴こうかな」
禅宗ではお酒を飲んでいいことになっているのだろうか。よくわからない。
「私が」と言って神屋さんからビール壜を取り上げた。
「これは慎一郎くんに注がれるより、十倍はうれしいな」了沢さんはにっこり笑った。
「十倍も差がありますか」
「うん、十倍はある」
「そういえば、香奈さんは紹介しましたけど、志々目さんはまだでしたね」と靖子が言った。
「いや、昼に挨拶だけはすんでいる。ジャズも俳句もやる慎一郎くんの友達だろ」
志々目くんは黙って頭を下げた。
「清一伯父さまにはお会いになってきたんですね」
「会ったといえば会った。すっかり冷たくなっていたが。坊主にとっては珍しいものでもなんでもない」
「ええ」
「中村先生が連絡をくれた。これでも一応肉親じゃから」
ここでふと気付いた。志々目くんがさっきから様子がおかしいのは、生まれて初めて死体を見て運んだりしたからなのかもしれない。私だって人の死体をまじかに見るのは初めてだったから、志々目くんがそうだったとしても別におかしくない。
「さっきから何考えているんだ、志々目」
「犯人について考えている」
「どうしたんだ。変だぞお前。変ということはいつものままだとも言えるが」
「だって、どうしたって不自然だろ。首を吊って死んだにしては」
「そうか、はじめて見るもんだからよくわからなかったが」
「あれは絞殺だ。間違いなく。首吊りだったらもっと頚骨が痛んでいないとおかしい。確かに首をしめられておそらく脳に血液が行かなくなったのが死因だろうけど」
「窒息ではないと」
「窒息死だったらもっと苦しんで暴れた形跡があるはずだ。死に顔は比較的穏やかだったしもがいた後もなかった。まるで即死に近いような迅速な死に方だぞあれは。寝静まっているところをよほど上手く首を絞めたか、それとも清一さん自身が協力的だったか」
「死に顔はって言ったって、お前さっき実物の死体には慣れていないっていっていたじゃないか」
「そういわれると自信がないが」
「それに協力的もなにも自殺だろ。そういえばなんかの本で読んだけど、自分で自分の首を絞めて自殺する人も時々いるらしいよ」
「自分の手で?」
「というか紐やロープを使って自分の手で首を絞めるんでも死ぬことはできるそうだよ。高いところからぶら下がらなくても」
「文字通り、自分で自分の首を絞めるか。傑作だな」
「あの清一さんも、もしかしたら首吊りに失敗してから、自分で首を絞めたとか」
「まさか。話としてはおもしろいかもしれないけど」
おもしろいかどうかを問題にするのは不謹慎だとも思えるのだが。
「とにかく俺の直観があれは殺人だと告げているのだ」
「志々目、やっぱりお前は珍しい人間だ。志々目の直観を信じる人間は地球上でもっとも稀少な存在だと言えるんじゃないか」相変わらず神屋さんの言うことにはなにか微妙なゆらぎと慈悲のようなものがある。
「この事件にはいかにも人の心をくすぐるところがある。身近にいるはずの意外な犯人とか」そう言って志々目くんはこっちを見た。「そういう点では元木さんなんて一番あやしいよな」
「えっ、何? 何が怪しいって」
「だって、昨日の夜、さっさといなくなったじゃない。今から考えてみると、ちょうどあの時刻にあの清一さんが亡くなったことになるもん」
「ちょっと、何。何の話」
「だから、清一さんが発見された今日の夕方には、すでに死後一日近く経っていたっていう中村先生の見立てが正しければ、彼が死んだのは昨日の深夜になる。ちょうどそのころ席を外したのが元木さんだという話」
たしかにお医者さんは一日近く経っているとは言った。仮にそれを二十時間だとすればちょうど昨日の私が就寝した頃になる。
「死後硬直って一日も続くのか」と神屋さん。
「うん、気温にもよるけど。生命活動が停止するとATPが分解されてイノシン酸になったりする段階」
「ATP。アデノシン三リン酸」
「良く知っているね、元木さん。そうか一年前まで受験生だったんだもんな」と神屋さん。私は別に受験科目で生物を選んだわけではない。活字中毒の神屋さんもダイエット本にはATPのような言葉が良く出てくることは知らなかったらしい。「あの刺身がこりこりするのも死後硬直なんだろ」
「そうだよ」
「白身の刺身は採れてから十二時間ぐらいが一番おいしいぞ」
「人間と刺身を一緒にするなよ。不謹慎な」
「うわ、志々目に不謹慎って言われた」神屋さんはショックだったようだ。
「ともかく、清一さんの遺体が発見されたとき仮に死後二十時間程度だったとすれば、その時刻この家に滞在していた人物の中で最もアリバイの不確かなのは元木さんということになる」
「何よそれ。なにか真面目な話としてそれを語っている訳?」
「単に一般的な話。まったく意外な人物が犯人だという」
「私は単に疲れたから先に寝ただけじゃない」
「いや、もちろん単なる可能性のこと。お話として言っているだけだから」と口先では笑っているが、目はかなり真剣だ。
「なによう、要するに私が犯人だと言いたいわけ」
「だからただのお話としては、そういう可能性も捨てないほうがおもしろい」
「なんで私が一度も会ったことがない、靖子の伯父さんを殺さないといけないの」
「一度も会ったことがない伯父さんという考え方より、清一さんが羽根さんの伯父さんだと気付いたときから、羽根さんに接近するようになったと考えるほうが辻褄は合う」
「なんなの、それ」私はすでにだいぶ呆れていた。了沢さんと神屋さんと靖子は、どちらかというと面白そうに聞いている。
「だから言った通り」
「言った通り?」
「知り合ったのは偶然かもしれないが、いつの頃からか羽根さんが仇の実の姪だと気付いた元木さんが、学部も所属サークルも違うのに何かと行動を共にしたりして親しくなり、正月には家に誘って、羽根さんが彼女のこの実家に元木さんを招待するようにしむけたという」
「あれは靖子が大晦日まで教授の手伝いで帰りそびれたから、正月ひとりで過ごすのも変だから家にさそっただけじゃない」
「一年生なのに教授の手伝い?」志々目くんが靖子の方を向く。
「しょうがないじゃない。靖子なんだから」代わりに私が答える。これは教授のお気に入りなんだからしょうがないという意味である。と言うより、どの任意の教授でも靖子を気に入らないことは難しいので、当然靖子の指導教授も靖子を気に入っているに過ぎないとでも言ったほうが正しい。靖子も自分ではそう答えにくいだろう。
志々目くんは了解できない顔をしている。まったく鈍い人間と話すのは苦労がある。
しかし今にして思うと、年末忙しかったのは確かだが、靖子はむしろ一人ではあまり帰郷したくなかったのではないだろうか。そんな気がする。
「だいたい何で元木さんに清一さんを殺す理由があるんだ」と神屋さんが訊く。
「あの伯父さん、京都の大学病院で医者をやっていたわけだから、おそらく十年前に手術で人を殺してしまい、それがもとで医者を止めて故郷に隠遁することになったんじゃないか。その殺された患者が元木さんの親戚とか」
「うちは代々三鷹武蔵野辺りの住人で、関西に親戚なんかいないわよ」
「じゃあ、腹違いのお兄さんとか」
「仮にうちの父にもし腹違いの兄弟を設ける才覚があったら、父を見直してしまうわよ。まったく」
「だいたい清一さんは小児科で呼吸系の疾患が専門だったはずだから、手術をする機会はあまりなかったんじゃないか」と神屋さん。
「じゃ、医療ミスで患者を死に至らしめて、そのために元木さんの恨みを買ったと」
「だから私には関西に親戚なんかいないって」
「志々目さっきからなんでそんなに恨みを買ったって決め付けるんだ」
「それは、昨日列車のなかで行われた句会にヒントがある。昨日元木さんが出した四つの俳句の上五のうしろから二番目の音節をつなげるとマンヅロスという言葉になる。これはインドネシアの第一言語であるジャワ語では『復讐』とか『仇を討つ』に相当する言葉だ」
虚を突かれたように一瞬皆の反応が麻痺した。その一瞬後、神屋さんが腹を抱えて笑い出した。畳の上を転がって笑っている。本当に苦しいそうだ。
私は笑う気になれない。ウケを狙って言ったギャグとも思えない。むしろ病的なものが感じられて不気味ですらある。了沢さんは楽しそうに笑っている。靖子はいつも通りの顔だ。要するにニコニコしているのである。志々目くんからさっきの清記のコピーを渡してもらうとそれを見て「本当だ。すごい」と私に向って言う。
「私がすごいんじゃないでしょ。志々目さんがすごいバカなことを言っているだけじゃない」
「ああ、そうね」
靖子に「そうね」と簡単に片付けられて志々目くんはちょっと哀しそうな顔をした。
「いや、若い人と話すのは楽しいものだ。いつもそう思うが、今日は特別驚かせてもらった」笑い転げている神屋さんを眺めながら了沢さんが言った。
神屋さんはやっと笑いの発作が収まったらしく、座りなおして志々目くんに訊いた。
「確かにそれはすごいが、どうしてまたインドネシアの言葉なんだ」
「元木さんはどっから見てもイマドキな東京の女子大生だけど、実はご先祖のひとりがインドネシア人なんだ」
「本当?」と靖子が訊く。
「いちいち真にうけない。でたらめに決まってるでしょ」
「ともかくこの容疑者は、天下の名探偵が旅に同行することを知って、わざわざ探偵の面前で犯行予告を行い挑戦状をたたきつけたというわけだ」と神屋さん。
「いや、むしろ復讐の紅蓮の炎に焼かれ犯行の練りに練っていたにもかかわらず、もしかしたら誰かが止めてくれるのではないかと内心期待するところがあったのではないかと思う」
「復讐のためとは言え、人を殺すことに迷いがあったわけだ」神屋さんがどことなくうれしそうな表情で続ける。「元木さんが犯人だとすれば、清一さんの死は密室殺人という事になるけど、どうして元木さんは密室を構成したんだ」
「どうしてって、理由のことか」
「ああ、そうか。どういう方法で密室状態を作り出したのかという意味で訊いたんだ。それから何故密室を作る必要があったかも志々目の意見を聞きたいな」
「何故かという点については、前にも言ったように自殺に見せかけるためだ」と志々目くん。「いかなる方法で密室状態を作り出したかというと、昨晩母屋のお祖母さんの部屋からあらかじめ鍵を取り出していて、今朝、おばあさんのところへ挨拶に行ったとき、隙をみて鍵をもとのところに戻しておいたんだ」
「そんなに簡単にいくか?」
「相手は目が不自由で耳の遠い年寄りだ。そんなに難しいことじゃない」
「今朝、おばあさんのところに行ったときは靖子も一緒だったのよ。おばあさんはともかく、靖子が気付くはずじゃない」ばからしいとは判っていたが、私はたまらずに反論した。
「ということは、昨夜のうちに鍵はもとのところに戻していた可能性が高い」と志々目くん。
「うん。むきになって否定するところはじゅうぶんにあやしいな」と神屋さんが楽しそうに笑う。
「どうも私には状況がよくわからないのでわざわざ明言しなくちゃいけないのか判断できないんですけど、私の家は明暦の大火のころから三鷹武蔵野辺りに住んでいて関西にもインドネシアにも親戚はいませんし、医療ミスで死んだ腹違いのお兄さんもいません」
「そういえば、ナシゴレンのゴレンって紅蓮と同じ語源なんだって」と神屋さん。
「そうだよ。常識じゃないか」
「常識かよ」と私。
「容疑者は完全に怒ってしまっているようです」
「困ったな」
「どうも容疑者は動機を完全に否定しておるようですが、志々目探偵」と神屋さん。
「動機なんて気にしているようでは現代の犯罪を語ることはできないよ、ドクタヤシロ。俳句のような意味性の転倒こそが私たちが問題にしなければならない、今ここにある犯罪なのだ」
なんか本当に頭が痛くなってきた。誰かこの連中をどうにかして欲しい。
「動機の根拠となるものは脆弱なうえに、犯行時刻と目される時間帯には元木容疑者はすっかり酔っ払っていて、とても大の男を計画的に絞め殺せるようには見えなかったが」
「あんなの芝居に決まっているじゃないか。今日なんか昼からあれだけ飲んでいるのに全然平気だろ」
「でも昨日は真っ赤になっていたぞ」
「女の子なんて必要なときにいつでも涙を流せるし顔色なんていくらでも変えられる」
私は唖然とした。神屋さんはまたひっくり返った。
「ほっほ。慎一郎くんのお友達、志々目さんじゃったかの。若いのに苦労しているようだ」了沢さんはほがらかに笑った。
「いえ、こいつの場合はなんというか」神屋さんは苦しい息のなかで言葉を次いだ。「苦労しているというより。自分から望んで罠に落ちるというか。恋愛多動性障害とでも認定しなきゃいけない状態で」
学習障害とか多動性障害という言葉を初めて聞いたとき、ひと昔前ならドジとか間抜けですんだものが今では障害かとうんざりしたものだが、志々目くんには障害という言葉を是非とも適用していただきたい。
「いやいやりっぱなものだよ、若いのに。なにより面白いところが良い。たいしたものだ」
「和尚さんに誉めていただけるとは光栄です。ではこれから、事件の真相。本当の意外な犯人に迫りたいと思います」
「じゃ何。今までのはナンだったの」
「だって初めから言ってるじゃない。単なる仮定、単なるお話だと」
「その割には目が完全にマジだったじゃない」
「考えすぎだよ」
いや、ぜったい考えすぎではない。確信がある。
私は了沢さんと神屋さんにビールを注ぎ、自分のコップにも注いだ。志々目くんは灰色とピンク色でまだらの脳細胞を慮っているのか、ビールには見向きもしない。
「この恐ろしい事件の背後には、この家自体が背負っている重い宿命が隠れているのです」志々目くんは朗々と演説を始めた。もう手が付けられない。
「いわば、昭和三十年代に行われたこの建物の改築、あるいはあの離れが建てられた年がこの場合重要になってくる」
この謎解きの時間が今日のクライマックスだと言わんばかりの表情である。半ズボンを履いて名探偵コナンのコスプレをしていないのだけが不幸中の幸いだとしか言いようがない。
「この事件は・・・。羽根清蔵氏の妄執がこの惨劇を生んだと言えるのです」
「羽根清蔵氏って誰」と私。
「私の祖父にあたる人」と靖子。
「志々目って、本当に人の名前を憶えるのが得意だな。ずっと過去の人でも一度名前を聞いたら忘れない」
「探偵には欠かせない能力だからな」
「それにしてもいつから探偵になったんだ」
「日本の将来を背負う生物学士志々目晴彦とは仮の姿、その実態は向うところ不可ならざるところの天才探偵だったのだよ。常に」
「テンサイ探偵ということばは初めて聞くけど。忘れた頃にやってくる探偵のことか」
「社にしてはひねりがないぞ」
「こんなところでヒネリを加えたがるのはお前だけだよ」
「さて、この志々目が集めた情報を元に認識している範囲では、清蔵氏は明らかな躁病だったといえるのではないでしょうか」
「今度は会ったことも無い人の診断までするのか」
だいたい何時どこで情報を集めたって言うんだと、つっこみたくなったがきりがないので止めた。
「先々代の羽根家当主、羽根さんのお祖父さんは多趣味で、何にでも手を出すくせに厭き易くて、途中で放り出すことが多かったとか」
「それは確かにそうですけど」と靖子。「それが病的だったかまでは」
「少なくとも本人はそういう風に反省することも多かったはずだ」
「躁病的に何にでも手を出すって反省するのか」
「うん」
「反省するなんて躁病的じゃないような気もする」
「気分にムラがあるのもこの病気の特徴だから。ともかく」志々目くんは皆を見渡す。「みんなも気付いたかもしれないけど、あの離れは外観は比較的新しいにもかかわらず、茶室の内装は特に純日本風で離れ全体も天上には大きな梁が通っていた」
「うん。見事な梁だね。あれほどのものを探すのは昭和の半ばでも大変だったと思う。大体茶室を備えた建築なのに、天井がなくて屋根が見通せる構造を持っている離れなんてほとんど例がないはず。非常に珍しい建物だ」神屋さんは今にも離れに戻って隅々まで観察したいんじゃないかと思わせる表情をした。
「そしてあの梁同士を連結している中央の大きな材木」
「棟木のことか」
「棟木っていうのか。社だったら憶えているだろうけど、あれと梁の連結部分が非常に変った意匠になっていた」
「あの茶室の奥と反対側にあったアレか、へえ志々目が気付いていたとはね。確かに変ったものだったけど」
「うん、俺はあれに良く似たものを写真で見たことがある。ちょうどキューバ危機あったころ、一九六〇年代の初頭の旧ソ連の研究所での写真だ。ちょうど冷戦の烈しかったころだけにいろんな研究がなされていたんだけど、特にKGBでは人の意識を支配したり人格を改造したりするための多くの実験が行われていた。そのための研究施設の装置の写真の中にあの離れの梁の連結部分にそっくりのものがある。おそらく羽根清蔵氏は新しもの好きが嵩じて当時のKGB最新研究を屋敷の増築に取り入れたんだ」
「なんでまたそんなものを」
「さっきも言ったように羽根清蔵氏は自らの躁病気質を気に病んで抑うつ的気分を人工的に発生させる装置に大きな興味を持っていたんだ」
「その結果があの茶室のデザインというのか。元々茶の湯なんて気分を落ち着かせるためにやるものじゃないのか」
「その通り。だからこそ清蔵氏は茶室に当時最先端のマインドコントロールテクノロジの成果を投入しようとして恐るべき茶室を作り上げてしまったのだ」
「しかしぼくはあれは布生の一種だと思ったんだけど。たしかに変った形状だし、茶室で見かけるものではないが」神屋さんは冷静に対応する。
「おそらく、単なる偶然の類似だよ。むしろ社はなまじ建築の知識があるからかえって物事の本質に気付かないんだ」
志々目くんが言い切った。すごい。どうしてそんなことになるのか。
神屋さんはまた笑いの発作が起きそうになるのを堪えているようにも見える。
「そう、一見日本的な意匠に見える必要以上に大きなあの連結部分こそ、KGBが開発した当時の最新の低周波による抑うつ状態強制装置なのだ。そして、あの離れの正確な竣工日は誰も覚えていないようだけど、俺には断言できる。それは昨日から数えてちょうど一万六千三百八十四日前だ」
どこがちょうどなんだ。
「四十四年と三百二十四日前か。ああ閏年があるから四十四年と三百十三日前になるね」と神屋さん。この場で計算したらしい。さすが国立理経系である。「四十五年前の五月ごろか」
「確かにもう四十五年経つかのう。大改築が行われて」と了沢さん。「竣工日までは憶えておらんが。新しい屋敷の改築のお披露目は確か夏、盆に近いころだったように思うが」
「おそらくあの離れに関しては出来上がったのが一万六千三百八十四日前だったはずです」了沢さんの四十五年前という証言に力を得て志々目くんが悠然と言い放った。
「なんで一万六千三百八十四日前だと断言できるんだ」
「十進法での一万六千三百八十四は、バイト換算すると十二バイト、1が十二並ぶ」
「なんでバイト換算する必要があるんだ」
「エリック・ノイマンの昔からコンピュータの原理なんてちっとも変わっていない」
「コンピュータ? コンピュータ制御の茶室?」
「そのとおり。いやむしろあの離れ全体が特殊なCPUとして作動していたのだ。そして清蔵氏が取り入れた最新のマインドコントロールテクノロジは定期的に人間の耳では聞き取れない低周波をかもし出し、茶室の利用者がいない深夜に最高潮に達するように設計されていたのだ。そのことを知らなかった清一氏は病気療養のためあの離れに住み始め皮肉なことに抑うつ状態を生み出す低周波のために病状をさらに悪化させ十年の長きに渡って苦しむことになった。まさに悲劇だ」志々目くんはひとり盛り上がっている。「一日ごとに時を刻むように低周波の波動が巻き起こり、ついに十二バイト目の深夜最大級の波動が清一さんを襲い極めて絶えがたい抑うつ状態を作り出したんだ」
「なんの話を始めたか、みんな見当がつかないでいるぞ」と神屋さん。「志々目、さっきから、そこの離れで清一さんの遺体が発見された話をしているのか。それともお前の新作の小説の構想を話しているのか」
「もちろん、離れで起こった実際の事件についてだ。羽根清蔵氏の妄執がその息子である清一氏を抑うつ状態に追い込み、首をくくらせた」
「ようするに志々目も自殺だと言っているわけか」
「鴨居の飾りにロープを引っ掛け死のうとしたのに失敗しさらに絶望的な気分のなか自らの手で首を閉めなければならなかった被害者のことを思うと激しく胸が痛む。しかしだ、やはりただの自殺として片付けることに忍びない。通常の自殺とするには気になることが多すぎる。たとえばこれ」と言って志々目くんは俳句の清記をコピーした紙の裏に描いた図のようなものを私たちに見せた。
「ああ。これはこの屋敷の見取り図だね」と神屋さん。
それで私にもこれがなんだかわかった。
「ここの『く』の字になっているところが母屋ね」と指で確認した。
「これでわからない」
「なんのこと」
「じゃあこうやると昭和に増築された部分を示される」と志々目くんはボールペンで図の中の幾つかの建物を塗りつぶした。
「これでどう?」
「どうって言われても」
「これはマヤ文明の残した文字で、いまだに解読されていないものの一つだ」自信満々に言った。
「・・・」絶句して何も言えない。神屋さんが何か言ってくれるかと思い振り返ると、神屋さんは「すごい」と一言つぶやいた。
多分これは「志々目はやはりすごいバカだった」の略の「すごい」だと思う。
「志々目は、この屋敷が昭和に増築されたとき羽根清蔵氏がオカルトかぶれもしていたという説を取っているわけか」
「意図的にこうなったのか、偶然こうなったのかは判然としない」
「昭和のオカルトブームって石油ショック以後だったんじゃないか」
「そのことを考えると偶然に独特の呪術空間を作り上げてしまった可能性が高いような気もするけど。でも羽根清蔵氏はかなり凝り性の人だったようだから、世間で話題になっていなくてもユカタン半島の古代文明に並外れた興味を抱いていたことも考えられる」
「由香さん半島?」と神屋さん。
由香さんて誰だ。
「首しめられたいのか、社」
靖子の伯父さんが首を吊って死んだというのに、こういうことを平気で言えるところが志々目くんである。しかし「由香さん半島」という言葉に毒気を抜かれたのか志々目くんは黙ってしまった。
急にその場が静かになった。すると今度は靖子が口を開いた。
「ところで了沢伯父さま。お聞きしたいことがあります」
「なんだね、やっちゃん」
「清一伯父さまをころしたのは、伯父さまですね」
あまりにも唐突な発言なので、誰もが驚いた。了沢さんも同じようにおどろいた表情を見せた。
「何故、そんな風に思うんだね」了沢さんは落ち着いた声で靖子に訊いた。
「そんなこと、お顔を見ればわかります」
私はあきれた。そりゃ、靖子は顔を見ればわかるのかもしれないけど、それを口にしちゃまずいじゃないか。そんなことじゃ、結婚相手どころか恋人のひとりもできやしない。結婚から最も遠い志々目くんの地位を奪取して堂々一位に輝くのも遠い将来ではない。「羽根さんが満月の俳句を詠むとき、結婚相手は火星の衛星軌道上で外宇宙通信の実験中」なんて人が言うところが目に浮かぶようだ。
誰も口を開かない。了沢さんは否定も肯定もしない。一分ちかい沈黙の末、沈黙を肯定と解したのか単に沈黙に耐え切れなくなったのか、「でも一体なぜ」と志々目くんが訊いた。「それにどうやって密室を作り出したんだ」
「あれを密室殺人だと言っているのは志々目さんだけです」
「でも自殺じゃないとしたら、犯人はどうやって外に出たんだ」
「おそらく雨戸を開けて外に出て外から雨戸をまた閉めただけです。うちは建てつけが良いので雨戸を勢い良くピシャリと閉めるとあの内側のは何と言うのでしょう、あの内側の落ちるつっかえ棒のような」
「盗人返し」と神屋さん。
「あの盗人返しがストンと落ちてしまうのです。この家の人間だったら誰でも知っていますし、祖父は腕の良い大工を使ったことが自慢でしたから、他にも知っている人は多いと思います」
確かに密室という言葉を使ったのは志々目くんだけだ。神屋さんも雨戸のことは知っていたかもしれない。
志々目くんは青ざめている。唇から血が引いているのがわかる。おそらく怒りのせいだ。まさかミステリ小説ではこんなことは起こらない。もしこの雨戸のことを口にしたのが靖子ではなく別の人、たとえば了沢さんか神屋さんだったら殴りかかったかもしれない。
「やっちゃんはそのことを言いたくて、さっき寺に電話をしたのかね」
「いえ、特にそんなことは考えていませんでした。ただ私は明日の葬儀の予定を相談したくて、伯父さまをお呼びしようと思って電話しただけです。犯人をはっきりさせたいというような考えは私にはありません。ただ自殺という事では志々目さんが納得しないで、このまま徹夜で色々な推理を聞かせてくださりそうなので。明日もただの春休みでしたらそれでも良いのですけど、明日は葬儀をすまさなければいけませんので」
実に靖子らしい理由だ。優しそうな顔をして自分の都合ばかり優先させている。
「それに先ほどお祖母さまのところへ行った帰りに離れに寄って、伯父さまのパソコンを立ち上げて見ました。確かにパスワードは設定されていましたが、ある人の名前をアルファベットで入力したら、すぐ通りました」
靖子の眼が妖しく輝いた。よく分からないが怒りに燃えているようにも見える。パスワードを設定したのは死んだ清一伯父さんで、この了沢さんではないのに。
「メールの内容までは拝見しておりませんが、この数日、了沢伯父さまからのメールが何通も来ていました」
「坊主だって兄弟とメールのやりとりぐらいはする。大抵の用事ならメールですむからの。わざわざ会う必要もない」
「そうですね。でも首を絞めるためには会わないわけにはいかない」
おとなしく黙っている靖子の方がずっと素敵だと私は思う。
「言うまでもないことですが、羽根家から殺人の被害者を出すのは望ましくありません。また親戚から犯人を出すことももちろん出来ません」
そして靖子は志々目くんを正面から見据えた。
「ですから志々目さんには申し訳ないのですが、殺人の可能性はいっさい忘れていただいて、自殺あるいは事故として話をすすめたいと思います」
ここで靖子は一息ついた。
「それに二人残った子供のひとりがもうひとりを殺したと知ったら、お祖母さまはどんなにショックを受けられることか」
「やっちゃんが心配しなきゃいけないほど、あのばあさんはヤワではないよ」と了沢さんは静かに笑った。
「伯父さまがそうおっしゃるのでしたら心配しないことにします。いずれにしても、中村先生には事故として死亡証明書をだしていただきます。殺人に比べれば自殺の方がましですがやはり自殺では外聞が悪いので。それに警察には、事件性がない事故だったので捜査の必要がないことを改めて念をおして、そのように処理していただくようにお願いするつもりです。もちろん清一伯父が十年鬱病に悩まされていたことは皆知っていますから、事故で亡くなったと伝えても多くの人が自殺だったと考えるでしょう。自殺は今の日本では最も身近な死因で風呂で溺れ死ぬよりもずっとありふれた出来事だそうです、これは志々目さんに教えていただいた知識ですけど。もっとも十年来すでに死んでいたような人ですから誰も注意を払わないかもしれませんが」
病人とはいえ、えらい言われようだ。
「でも羽根さんは、何故清一伯父さんが殺されたか知りたくないのか」と志々目くん。
「了沢伯父は聡明な方です。もし口で説明できるような理由でしたら、殺人という手段以外に何か対処方法を見つけたはずです。それでも殺人を選ばなければならなかった以上、死んでも口に出来ないような理由があったとしか思えません」
どこか論理の飛躍がありそうだが、私にはすぐに指摘するのが難しい。ある程度正論だとは言える。こういう正論を吐く人間が嫌われるのは靖子にもわかっているのだろう。だから日頃から口数を少なくして気をつけているのかもしれない。
了沢さんは黙っている。むしろ穏やかな表情を浮かべて靖子を見守っていると言っていいぐらいだ。
「良いでしょうか、志々目さん」
志々目くんはこころもち青ざめた顔で答えた。
「今日限り殺人という可能性は忘れることにする。うん、約束する。でも今のうちに、和尚さんにどうしても訊いておきたいことがあるんだけど」
「なんだね、志々目さん」
志々目くんは正面から了沢さんを見つめて言った。
「和尚さん。あなたは本当に了沢さんなんですか」
「ほう面白い質問だ」
「そうですか」と志々目くん。
「面白いというのは、如何にも禅坊主への質問らしく見えることだが」
「そうですね」神屋さんが思わずという感じで相槌を打った。
「しかし実際の質問の意味はもっと限定されているようだ。わしが実は殺されたはずの医者だった清一で禅坊主の了沢に成りすましているのではないかと訊きたいのですな」
「そうです。そういう意味できいたんです。十年前何らかの事情で清一氏は世間から隠れて生活しなければいけなくなったが、自分の双子で容貌が極めて似ている了沢さんを殺して入れ替わり龍谷寺の和尚さんに成りすまして世間を渡って行こうとしたという可能性はどうしても捨てきれない」
「なるほどおもしろい話ではあるな。しかし拙僧の記憶に間違いなければ、わしは寺の子供として育った。もっとも小学生の頃は同じクラスに同じ顔の人間がいることがわずらわしくも思えたし、その同じ顔の子供が両親とともに住んでいることを不公平とも考えることはあったな、そういうことはあるものだ、本当のところ。自分がほんの少し早く生まれたばかりに家の外に出されたことをなどは、わしが人生で最初に出合った自分ではコントロールできない出来事だった。わしの性格に何かしらの影響は及ぼしたことだろうが、いずれにしても大した問題ではない。小学生の子供の考えるようなことじゃて」
「先に生まれたというと、やはりあなたは清一さんなのですか」
「清一はいま中村先生のところで冷たくなっておる兄だよ」
「志々目、双子の場合は先に生まれたほうが弟になるんだ」と神屋さん。
「えっ、本当?」
「知らなかったのか」
「知らない。元木さん知ってた」
「初めて聞いた」私は正直に答えた。
「最近の若い人はそうだろう。畜生腹なんて言葉も聞いたことはないだろうな」
「ありません」と私。
「わしが子供の頃ですら、そんなことは大抵の人は気にしなくなっていたが。まあ。この羽根家ではちょっと事情がちがったようじゃ。もっとも志々目さん、そんなことは今回の・・・、事件とはなんの関係もないことだ。期待を裏切って申し訳ないとは思うのじゃが」
「いえ、別に申し訳ないとかそういうことは」と志々目くん。腰が据わらないというか、へなちょこというか。
「そういえば今思い出したよ。小学校の二年生のときだったと思うが、一度だけ清一と服を取り替えてお互いに成りすましたことがあった。今まで思い出しもしなかったが。不思議なものじゃな。あのとき服を取り替えたのは憶えているが元に戻した記憶の方はあいまいだ。もしかしたら服を取り替えてからずっとそのままできたのかも知れない」
「伯父さま」
「なんだね、やっちゃん」
「私からもひとつお願いがあります」
「なんだね」
「清一伯父さまが何故殺されなければいけなかったか、私にはわかりません。でも。これまでもいくらでも機会はあったはずなのに、昨日の夜を選んで決行した理由はよくわかります。この家に人が多かったからです」ここで靖子は数えるようにみんなを見まわした。「日頃は祖母と清一伯父、あと敷地内と言っていいお隣りの剣持さんしか、人が居ないのに、昨日はそれに加えて、日頃は通いの近藤さんと日向さん、それに私たち四人と人がいつもと違ってずっと多く居たからです」
また靖子の眼の奥の色が変わったように感じた。
「すこしでも人が多い時のほうが、もし殺害が発覚した場合当然容疑者が増えるわけですから。お客さまに大変失礼な理由で、犯行に昨晩が選ばれたことは確かなことだと思います。私が当主になって初めてのお客さまなのに」
「お客さまなんてりっぱなものじゃないわよ」私は思わずフォローしてしまった。
どうも靖子は怒っているようだ。一年の付き合いでごく偶には靖子でも怒ることは私も知っている。しかし非常に優しくて整った顔立ちなので、仮に怒ったところで外見から見分けるのはとても難しい。
「清一伯父様に手をかけたことは深いお考えの末になさったことと思います。それでも、私のお客様に迷惑をかけた事に関しては了沢伯父さまには是非この場であやまっていただきたいです」
その場の緊張感が一瞬のうちに高まった。手をかざせば熱を感じるのではないかと思うほどの怒りが了沢さんからほとばしった。こういう感覚を殺気と呼ぶのだろうか。神屋さんが右ひざをわずかに動かしてすぐ立ち上がれる態勢を取ったのもほぼ同時だった。靖子は動かない。私はてっきり了沢さんが靖子に襲い掛かるのだと思った。
しかし、恐ろしい殺気は一瞬で止んだ。神屋さんの緊張は解けてないように見える。結果的には何も起こらなかったがそれはあまりに強烈な印象だった。それまでは話として聞いていただけだったが、この瞬間私は目の前にいる了沢さんが殺人者であることを確信した。遅ればせながら徐々に恐怖が募ってきた。
平時の穏やかな表情に戻った了沢さんはペコリと頭を下げ「いや、本当に恥ずかしいことだな。皆さんに迷惑をかけてしまって。遠くから来てくれた人たちに不愉快な思いをさせてしまった。明日の金沢見学も流れてしまったし。まったく申し訳ない」
「とんでもない」志々目くんがすぐに答えた。この男だけ目にしている世界が違うかのようだ。ここまで鈍いとそれも才能のうちのような気もする。
靖子は居住まいを正し了沢さんに話しかけた。
「では明日はよろしくお願いいたします。正確な時間は未定ですが、おそらく夕方から通夜なしの本葬という形になるでしょう。今日父の一周忌があったばかりなのに、さらにまた通夜と本葬と二日続けたらさすがに親戚の人たちにご迷惑ですので、お祖母さまに相談してできるだけ簡素な形にしたいと考えています。よろしいでしょうか」
「もちろん拙僧には依存はありません。いずれにしても当主が決めるべきことです」
「では明日午前中に葬儀社の方から、細かい時刻の連絡が行くと思います」
「承知いたしました」と了沢さんは頭を下げた。神屋さんはまだ身体の緊張が解けていない。すぐ立ち上がれるように構えているのが分る。
一方、了沢さんはこれ以上ないほど温和な様子だ。
「本当に東京に行ったのは、良い選択だったね」と穏やかな声で付け加えた。
「亡くなったお母さんにも、成人したやっちゃんを見せたかった」とまた静かに微笑んだ。それから「余計なことを言いました。年寄りは愚痴っぽくていかん」と言い立ち上がった。「これ以上バカなことを口にしないうちにお暇しようか。明日も忙しい」
了沢さんは静かに言った。本当に思慮深い美しい表情だ。靖子の言葉に影響されているのかもしれないが、確かにこの了沢さんならどんなことで深い考えの末に行うように見える。人間の顔とは不思議なものだ。犬猫にも蛇にも魚にも顔はあるが、人間の顔のこの情報量の多さはなんなのだろう。
今朝、初めて会ったときもこの表情にひかれて信頼感を持ったのだった。あの時、了沢さんは血をわけた兄弟を絞め殺してきて何時間も経っていなかったはずなのに。人は人の行動や言葉に信頼を寄せるのではない。ちょっとした表情などが信頼の基礎になっていて、人間関係を作り上げていくのだ。よく憶えておきたい。今後のためになりそうだ。
了沢さんが部屋から廊下に出ると神屋さんの緊張が少し和らぐ。すると今度は志々目くんが口を開いた。
「羽根さん本当にいいの。このまま帰してしまって。本当に警察に届けなくて」
「どうしてですか」と靖子。
志々目くんが立ち上がる。「だって了沢さんは、この羽根家の財産が目的かもしれない。そうしたら次は羽根さんが狙われる番だ」
「はっは。志々目さん、そんな心配は無用だよ」廊下で立ち止まって了沢さんが言った。「確かに羽根はそれなりに古い家柄で由緒正しい方かもしれんが、財産といえばこの家屋敷と小さな山が二三。それから金沢にいくつかビルがあるくらいだ。羽根は本間さんのところとは違う。龍谷寺の財産とどっこいどっこいじゃて」
「そうですか」志々目くんは簡単に納得してしまったようだ。しかし私は違う。とても納得できない。文京区のワンルームマンションのひとつふたつは数に入らないことの方が、殺人よりよっぽど犯罪的な気がする。
「それに財産狙いだったら急がないと。半年経てば、仮に私が死んだところで、生まれてくるこの子に財産は渡ることになります」靖子がお腹を撫でながら言った。
これには全員が凍りついた。
了沢さんでさえ目を見張った。誰もが身じろぎもしない。
長い長い数秒間が過ぎた。
「いったい誰の子なの?」私は勇気を振り絞って訊いた。
「やだ、香奈さん。冗談よ。私も少しは話を面白くしたくって」
「こら、羽根靖子!」
「はい、羽根靖子です」
「あなた、自分のキャラクタってものを考えなさいよ。あなたは黙って座っていればいいの。志々目さんじゃないんだから、話を面白くしようなんて考えなくていいのよっ」
「サ、ベ、ツー」と言って靖子は口を尖らした。悪夢だ。了沢さんの言うように確かに靖子は変わった。一年前は決して「サ、ベ、ツー」なんて口にしなかった。
それにしても、と私は靖子を眺める。
まったく妊娠していてこのウエストサイズだったら、私こそ鴨居の飾りにロープをひっかけて首を吊りたいところだ。冗談にしろ気をつけて口にして欲しい。
「まったく今日はやっちゃんに一本も二本も取られたよ。それじゃ皆さん、遅くまでお邪魔したね。おやすみなさい」と言って了沢さんは先ほど上がった場所からひらりと庭に降りた。
「和尚さん」
「なんだね、お嬢さん」
このまま帰したら、途中どこかで崖から身を投げそうな気がして思わず了沢さんに声をかけた。しかし私が送って行きますというもの変だ。今朝龍谷寺から羽根家に歩いたときにはそれなりの勾配の坂道だったが別に身を投げるのに適しているような崖なんか目に付かなかったけどなんとなく心配だ。それにしても、和尚さんとお嬢さん、やはり似ている。
「あの。句会の約束、流れてしまいましたね」
「そうだ。忘れていたよ。また機会もあるじゃろ。明日通夜のときにでもまた話し合いましょう」
「そうですね。おやすみなさい」意を決して声をかけた割にはこんな言葉しか出てこない。
「おやすみなさい。皆さん」そういい残して了沢さんは庭の闇の中に消えて行った。本当にこの辺りの夜の闇は深い。あっという間に見えなくなった。
「香奈さん、ごめんなさい」了沢さんが消えるのを待っていたように靖子が謝った。
「靖子があやまることないじゃない」
「だってこんなことになるなんて。志々目さんも慎一郎さんも、本当にすみませんでした」
「いや、俺は面白かったからいいよ」志々目くん。神屋さんは何も言わない。
「こんな人殺しのあった家に寝泊りするのはいやでしょう。今から金沢にホテルを手配して、深瀬さんに送ってもらいましょうか」
「いや俺は全然、かえって面白いくらいだから」
「私はそこの広い部屋でひとりで寝るのはこころ細いから、靖子が一緒に寝てくれると助かるんだけど」
「じゃあ、布団をもうひとつ用意します」
「ありがとう」
「なんか修学旅行みたい」
「正月うちに来たときも言ってなかったか、それ」
「じゃ臨海学校みたい」
「もういいわよ」
「元木さんひとりで寝るのがいやだったら、この志々目晴彦がここにいるのに」
「お前、いつもあれだけ決定的に的外れなことを言うくせに、なぜだかそこまでお約束なことも平気で言えるんだよな」神屋さんは心底感心している。
「一貫しているとプラスに評価してほしい」
「まったく」と私。
「すみません」と靖子がまた謝る。「明日はお通夜なので、金沢見学には行けなくなってしまいました。でも香奈さんは本来無関係だから、式に出ないで慎一郎さんたちと出かけていただいてもかまわないけど」
「なんなのよう、それ。このデフレの申し子みたいな俳句オタクたちを私一人で相手しろって」
「デフレの申し子だって」神屋さんが志々目くんの方を向いて言った。
「せめて地球にやさしいと言ってもらいたいな」
「ウーン、ぼくは『地球にやさしい』といわれるくらいなら、『デフレの申し子』の方がまだいい」
「社って、やっぱりそういう奴だよな」
どういう奴なのか、やはりよくわからん。
「予定は一日延ばして明後日に金沢観光、その次の日から温泉でいいじゃないか」
「志々目、お前が火曜日までに東京に戻らなきゃいけないからって、この日程になったんだろ」
「あれ言わなかったっけ。昨日金沢に着いたときメールが入っていて、エイプリルフールライヴはバンマスの都合で、四月の第三土曜に延期になったんだよ」
「聞いてないぞ、それ」
「エイプリルフールライヴ?」
「四月一日に東新宿のライヴハウスで演奏する予定だったんだけど、延期になったんだ。元木さんも見に来て。今度は四月の第三土曜だから」
「いくらなの」
「ワンドリンク付きで二千五百円」
「高い。招待券とかないわけ」
「ないなあ、二杯目からはおれがおごるから」
「でもまず二千五百円でしょ。素人の演奏に二千五百円ってのは」
「俺は素人だけど、他のメンバはプロ並みだし」
「そんなことより、温泉行きは後ろにずらしすのは問題ないのか」と神屋さん。
「ああ」
「元木さんは」
「私は大丈夫」一応考えてから答えた。春休みだから一日二日東京に帰るのが遅れたところで何の問題もない。
「問題は宿の予約を変更できるかだけど」
「ホクホク温泉」
「そう、ホクホク温泉、白泉荘。ちょっと電話してみるわ。あっとそうか、ここは圏外だった」
「私、これから明日の葬儀社の手配で剣持さんのところに行って、その後中村先生のところと署長さんのところへ電話しますから、そのついでに旅館にも電話します。その旅館の電話番号教えてください」
「悪いね。お手数を掛けます」と言って立ち上がると志々目くんは自分の荷物の所まで行き、旅館のパンフレットを取り出した。
「予約の変更ができるようでしたら、一日あとにずらせばいいですか」
「大事を見て二日ずらしたほうがいいんじゃないか。まあ、やっちゃんが決めればいい。剣持さんとも相談して」と神屋さんが答えた。
「じゃあ、すみません。私ちょっと行って来ます」
靖子は立ち上がった。立ち上がると腰のあたりがちょうど視線の高さにくる。「銀行の制服ってあれはあれで大したものだろ」と言ったのは確か神屋さんだったが、日本家屋というのもこれはこれで大したものである。言うまでもないことだが、靖子だっていつまでもおしめをしていたころのやっちゃんではない。志々目くんなんか目が点になっている。
靖子はテーブルの上の料理に欲望も顕わな一瞥を投げかけてから、部屋を出て行った。
「ふう」と息をついて神屋さんが畳の上に仰向けに横になった。と思ったらすぐ起き上がってビール壜を取ると「まあ、志々目も一杯どうだ。さっきから全然飲んでいないだろ」と言った。
「元木さんのお酌のほうがいい」
なんか神屋さんと違って全然疲れていないような志々目くんである。
「はいはい、美女のお酌でどうぞ」と神屋さん。
神屋さんからビールを受け取って志々目くんについであげた。「はい、美女から一杯」
「かたじけない。」
「これだけの料理を前にして箸を動かさないと、志々目晴彦の名に瑕がつくぞ」
「ほんとうにあの和尚さん、清一さんとの入れ替わりじゃないのかなあ。それに殺人だったのか自殺幇助だったのかもはっきりしない」
「まだ言ってる」と私。
「ホントにライヴ、延期になったのか」
「ホントだよ」
「旅館の予約、変更できるかしら」
「温泉が混む季節とは思えないけど」
「一応、春休みだからなあ」
神屋さんにビールをつぎ、それから志々目くんについだ。
しばらく沈黙が続いた。
やがて私は神屋さんに訊いた。
「去年亡くなった靖子のお父さんは本当に事故だったんですか」
それに十年前のお母さんの死。あるいは靖子のお祖父さんの死。一周忌の席で客達がそそくさと帰っていったことが思い出される。
「うん、交通事故だったよ」と神屋さんは言った。そのあと黙っていたがしばらく考えてからまた口を開いた。「やっちゃんには彼女なりの考え方があるかもしれない。きっとそのうち元木さんはやっちゃんから直接話を聞くことにもあるんじゃないか。おそらく一生のつきあいになるだろうから」
一生のつきあい。確かにそうかもしれない。高校時代の仲がよかった連中は半年もしないうちにメールのやり取りもなくなった。卒業時にはずっと友達でいようねみたいなお定まりの台詞をやりとりしたものだ。しかし靖子は違う。こんな場所に居合わせた以上神屋さんが言うように一生の付き合いになりかねない。そして何十年間私が「靖子」と呼び続けても向こうは私を「香奈さん」と呼び続けるだろう。
「志々目、お前ここでの事件をもとにした小説をミステリ研の同人誌に発表したりするなよ」
「まさか誰がそんなことを」
「『北陸湯けむり殺人紀行』とかいってちゃっかり載せたりしないか」
「ありえねえ! こんな、犯人と被害者が双子なのに死体の入替え偽装もなければ、坊主が犯人のくせに俳句の見立ても無い!」
「興奮するようなことか」
「だいたい、地方の旧家なのに遺産争いもなければ、美貌の未亡人が殺されるわけでもない。こんなんじゃミステリにならんじゃないか」
「美貌の未亡人は犯人役と決っているんじゃないのか」
「金田一が探偵ならそうだろうが、この志々目くんにかかったら」
「丸の内のOLさんか。当然OLさんは出てくるんだろ」
「当然、埼玉美人の丸の内系OLが探偵役で」
「黒いストッキングを履いて事件を解決するわけか」
「事件が起ころうが事件がなかろうが、OLさんはストッキングを履いていない状態であるとき以外は履いている状態であるはずだ」
「なるほど論理的な表現だ」
確かに一見論理的だが、謀らずも履きかけの状態とか脱ぎかけの状態が好きなことを露呈しているようにも思える。
「俺が書くんだったら、やっぱり瀬戸内海の孤島で美貌の未亡人がわらべ歌に沿って立て続けに殺されて、当然主要人物には出生の秘密とか盛りだくさんで、あっと驚くような超科学的なトリックを素人探偵のOLさんが看破して」
志々目くんは立ち上がった。頭のなかでは『ロッキーのテーマ』が鳴り響き、美貌の未亡人やらOLさんやらの大群が押し寄せてくるところを幻視しているようにも見える。バカそのものとも言えるが、いずれにせよ立ち直りが早いのは良いことである。
「常々疑問なんだが、それだけ色んな趣味に時間を割いていて、よく卒論が通ったよな。実際」
「その辺、世間様がこの志々目晴彦を天才と呼ぶ由縁で」
そこへ靖子が帰ってきた。
「ああ、おかえり」と神屋さん。
「どうしたんですか、志々目さん。こんどはダンスの練習かなにか」
立っている志々目くんを見て靖子が言った。表情が柔らかくなって、当主モードからいつものおっとり女子大生モードに戻りつつあるのが覗える。きっと警察署長への電話も葬儀社の手配も上手く言ったのだろう。次に出てくる台詞は「私お腹がすいちゃった」であることはほぼ確実である。それにしても、相変らずウエストが細い。
「温泉に行く日程は変更しなくて良くなりました。中村先生と相談して伯父さまの遺体は一月ほど霊安室に安置してもらって外部には重傷で入院中だと説明することにしました。一月後に様態が急変したことにして肺炎か何かで死亡証明書を書いていただきます。そうすればゴールデンウイークごろの葬儀になって親戚の皆さんにも迷惑が少なくなります」
私は呆気に取られて黙った。これが田舎の人間関係か。日本のミステリには地方の旧家を舞台にしたものが多いのも納得できる。それにしても昨日到着した時は暗いように感じられた靖子の表情が清一伯父さんの死体が発見されてから目に見えて明るくなっているような気がしてならない。まったく困った奴だ。

(了)

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