2010-05-30

『俳句界』2010年6月号を読む さいばら天気

〔俳句総合誌を読む〕
エロとエロスと煙突の彼方へ
『俳句界』2010年6月号を読む

さいばら天気


昔と比べて、分厚くなったと思うのは気のせいでしょうか。『俳句界』の今月号、302ページあります。ついに300ページ越えか!? と思って先月の5月号を見ると、334ページでした。

特集 現代俳句のエロス~生きる喜び、生きる悲しみ p40-

エロ、エロス、エロティシズム。これらの日本語は、用語において互いに重複しながらも異なるカテゴリーなので、ややこしい。このうちエロの範疇がもっとも狭く具体的かつプラグマティック。一方、エロスの範疇は広汎(タナトスやら、アガペーやら、むかしガッコで習ったカタカナ語を思い出す人も多いでしょう)。

文芸の脈絡で、この話題を扱うなら、審美という要素を含むこともあって「エロティシズム」の語を念頭に置くのが理解しやすいのですが、この特集はあえて「エロス」。サブタイトルにあるように「生」にまで対象範囲を広げようという意図でしょう。特集冒頭の久保純夫「先人たちの俳句に見るエロス エロチシズムとは全世界を再構築する方法・思想である」では、「あらゆる事象がエロチシズムの対象である」とされ、したがって、「白牡丹といふといへども紅ほのか」(高浜虚子)まで、この話題の脈絡で語ることになります。それが適切なのかどうか。私にはちょっとわかりません。

特集に収められた他の記事も総じてエロスを広義に捉えています。エロスそのもの、エロティシズムそのものにまつわる、ある種哲学的な問題に踏み込むことまではせず(これはきっと手強いでしょう)、論調は文学的で、特集全体として「エロスっぽい句」「エロスげな句」の紹介という風情。それなら、いっそのこと性愛に絞ってもらったほうが、アンソロジーとして興味深く、テーマとして明確だったかもしれません。

(確信犯的にエロスを拡大解釈して『新撰21』(邑書林)の紹介に3ページを費やした九堂夜想氏は「ゼロ年代俳人」の1人として義理を果たしたかんじ。こういう仁義の通し方、わりあい好きです)

ちなみに、俳句における「ほのめかし」や「象徴」の問題とも関連しますが、「え? こんな句にまで?」といった句にまでエロスの範囲を広げてしまう読み方について、私自身は「それってどうなんでしょう?」という見解。併せて、象徴を援用する読みについては、それが行き過ぎれば、世の中のすべての長い物を男性性器に読み替え(飛行船のことをフランスでは「処女の夢」と呼ぶそうです。そのたぐいのことですね)、すべての凸と凹を男性と女性に読み替えてしまう、といったバカげたことになりかねない(脳内エロス交換装置?)と考えています。

ただ、川瀬晶子「時実新子の挑戦」に紹介されているこの句。

  凶暴な愛が欲しいの煙突よ 時実新子

これは陰茎象徴(phallic symbol)を狙ったと解するのが自然だとは思う。そのうえで「煙突」の突拍子のなさ、身も蓋もなさがきわめて凶暴、というおもしろさ。

ま、そんなこんなはともかくとして、おもしろい句が読めたりするので、句を拾って読むぶんには、この特集、オススメです。



坂口昌弘 詩的想像による俳句の解釈 p100-

矢島渚男『俳句の明日へⅢ』(紅書房)を紹介したくだりに、こんな箇所がありました。

(長谷川櫂『俳句的生活』を)渚男は批判するだけでなく肯定的な自然観も示す。桜がどうしてたくさんの花をつけるのか考えて、人間に好まれ愛されることによって種の繁栄がはかられるという考えに賛同する。
孫引きでこんなことを言うのはなんなのですが、え? 人間に好まれ愛されるために? 桜が?

このことが正しいか間違っているか、私は知りませんが、この手の人間中心主義(anthropocentrism)、世の中ではめずらしいことではないとはいえ(ある種の宗教など)、実際に目にすると、やはり吃驚。

俳人さんの書く本は、ひょっとすると、この手の言説の宝庫かも、と、ちょっとワクワクします。



佐高信「甘口でコンニチハ!」(p119-)のゲストは櫻井よしこさん。この組み合わせに目を引かれましたが、記事は、さらっと穏当。

それから、ちょっとニッチな話題に光を当てた特集「前書の魅力」(p127-)で、虚子の句(ある意味、トンデモ句)、

  地球一万余回転冬日にこにこ

が、門下の五十嵐播水の結婚30周年を祝った句であることを知りました。30周年だから10000万余回転なのですね。


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