2010-05-23

新撰21の20人を読む 第8回 神を追い求める男と地に足をつけた女

新撰21の20人を読む 第8回

神を追い求める男と地に足をつけた女

山口優夢


 


洋梨とタイプライター日が昇る

たとえば100句の巻頭を飾る一句、

ことごとく未踏なりけり冬の星

この句について、船団のホームページのブックレビューで小倉喜郎は「この句を作者の決意として高く評価する者もいる。」と発言している。「作者の決意」とはどういうことか。そのヒントになるのは、たとえば豈ウィークリーに書かれた中村安伸の句集『未踏』評より引用すれば、次のような読みである。

つまり冬の星とは、自らの内面に散らばった言葉の断片であり、俳句形式の可能性という空間に浮かぶ未だ書かれざる句の数々であり、歳時記という宇宙にきらめく季語の数々といったものを、象徴的にあらわすものなのであろう。

つまり、この句を作者の詩的営為に対する決意表明の象徴として読み、未踏の星々を踏破してゆくがごとく詩の世界へ打って出るぞ、という姿勢を読みとるという読みなのである。それを前提として、前述の小倉は以下のように批判的な発言をしている。

『未踏』の始まりにこの句を置く感覚があり、またそれを当たり前のように受け入れる俳壇がある。この感覚では句集が面白くなるはずがない。そもそも詩を志すことは「未踏」の地をゆくことであり、だからこそ表現活動をやっていると言っていい。表現活動の原点なのだ。

あるいは、この句については、神野紗希が豈ウィークリーに書いた『未踏』の書評のように、素朴な読み方もある。

つめたい空気の中で、鋭くかがやく星の光を仰ぎみている。あの星も、この星も、視界に広がる満面の星は、「ことごとく」人類未踏の地だという感慨が、憧憬とともに描かれている。作者は、いつかあの星のどこかへ行ってみたいと、科学少年のように、夢想しているのだろう。

いずれの読みでも共通しているのは、作者自身が未踏の地(それは冬の星でもあり、また別の抽象的な何かでもあるだろう)に対してそれを踏破しようという意思を持っている(行ってみたいという夢想も、方向性は同じだろう)、と読んでいるということだ。なぜそのような読みがなされているのか。一つには小倉の指摘している通り、この句が句集の巻頭に置かれているということ、および句集名がこの句から採られているということから作者の並々ならぬ思い入れを読者が読みとっているということがあるだろう。それは所謂「俳壇」の話法でもあるだろう。そして、今回の100句でも、この句は巻頭に置かれている。

さらにそれだけではなく、作者自身が句集『未踏』のあとがきで次のように発言していることも大きいのではないか。

経験や算段によっては至りつくことのできない、言葉の未踏の彼方に詩を求める克己の営みは、俳人として今後も放擲することはない、という誓いの意味でもある。

これは未踏の句に対する自句自解ではない。しかし、「言葉の未踏の彼方」と言っている通り、未踏の句を踏まえた物言いでもある。つまり、未踏という語からそれを踏破しようという意図を感じさせるのは、誰あろう作者自身の思惑だったのである。

しかし、そのまんま作者の意図に乗った読みを展開していていいのか、というのが今回のこの鑑賞文の裏テーマでもある。

「ことごとく未踏なりけり」という言い回しに、いつかはそれらを踏破したいという意図を読みとることは、無理ではないにしろ、絶対的なこととは言えないのではないか。むしろそれらが絶対的に未踏なのである、という思いの方にこそ、この句の真価はあると僕には思える。

冬の星を見上げて彼が感じているのは、本当に、それらを踏破してやろうという意気込みなのだろうか。素直に考えれば、この句から感じられるのは、あまりにも広すぎる宇宙に対する畏怖、それに比べてちっぽけな、自分を含めた人間存在の儚さといったものなどではないか。踏破できてしまったら意味がない。いや、踏破できる場所なんて、そもそもないのだ。このような主張は、あるいは作者の意図そのものに真っ向からぶつかるのかもしれない。しかし、そういった人間を含むさまざまな存在の儚さや小ささのようなものは、彼の句を貫いている一つのテーマなのではないか。

潦あらたまりけり萩の雨
秋蝶やアリスはふつとゐなくなる
刈田ゆく列車の中の赤子かな


それはあるいは、儚さという語で片付けるよりも、寄る辺なさとでも言いなおすべき性質のものかもしれない。

以前の雨でできた水溜りが蒸発しないうちにまた雨が降り、新しく水溜りができる。それだけのことを「あらたまりけり」と表現したことによって、水溜りというものが持っている逃げ難い本質のようなものを掴みだしてくる。別に水溜りが失われやすいということについて感傷的な読みを施す必要はない。水溜りなんて、「美しいものほど儚い」とか言われて賛辞されるような種類のものではない。しかし、現実にそれはとても容易く失われ、変更されるのだ。失われやすいという本質の中に、とどまることなく揺曳してゆく時間というものが感じられるのがこの句の手柄とでも言うべき事項だろう。そこに萩の花びらを散らすのは彼一流の気障ったらしさと言えるかもしれない。

ふっといなくなるアリス、という描き方から、まるで作者自身がアリスを失ったとでも言うような錯覚を受ける。秋の蝶がひらひらと飛び惑う姿はもちろんアリスと二重映しになってくるわけだが、「あ」の頭韻が生む明るさも、ここでは無視しがたい。つまり、

亡びゆくあかるさを蟹走りけり

に通うような明るさをこの句にも見出すことができるのだ。そう、儚いものはまた明るいものでもあるのだ。

その明るさは、今度は刈田の明るさにつながる。刈田→列車→赤子と焦点を絞ってゆくのは俳句としては常套的な手段だが、その「絞り」の過程で赤子のそばに当然ついているべき母親など赤子の周囲の状況を一切省いたため、まるで赤子だけが列車の中に置き去りにされたような寄る辺なさを感じる。実際に母に抱かれているとしても、赤子はなんだかひどく一人ぽっちで「刈田」や「列車」と対峙しているかのようだ。しかも列車という常にどこかに向かって動いているものに乗せられているということからも、赤子の置かれている状況の寄る辺なさが際立ってくる。刈田なんていうあかるくてさびしい場所を通って、この列車はどこへ行こうと言うのか。

世界という巨大なものと対峙する一つ一つの存在たちの寄る辺なさ。それはたとえば以下の句群にも共通するのではないか。

一番星いちばん先に凍の中
六月の造花の雄しべ雌しべかな
秋深し手品了りて紐は紐
人形の頭のうしろ螺子寒し
まつしろに花のごとくに蛆湧ける
牽かれつつ打たれつつ馬肥ゆるなり

一句目は主観を投影し過ぎているところがやや嫌味を感じさせるが、一番星を指してニヒリスティックな物言いをしているところに、彼が儚い存在たちへ心を向けようとしていることが見てとれる。湿度が高そうな六月にも、あのプラスチックの手触りを保っている造花の雄しべ雌しべの味気なさ。また、「手品了りて紐は紐」という軽い言い回しのフレーズにつけられる情緒的な「秋の暮」という季語が紡ぎ出す一抹の不気味さ。次の句は、自分の頭の後ろに思わず手を持って行って、自分には大きな螺子が着いていないかどうか確かめたくなる衝動に駆られる。蛆という醜いものが「花のごとくに」湧いてくる、その美しさこそ、切ないものだと言えないだろうか。蛆にしてみれば単に生きているだけだ。それが宿命的に美しく見えてしまっている、この逃れ難さは一体何なのだろう。それは、次の句で牽かれたり打たれたりしながらも肥えてゆく無様な馬の切なさに通じないだろうか。

以上を踏まえて次の句を読むと、少し感じられる景色も違ってくるかもしれない。

蕪煮てあした逢ふひといまはるか

明日は逢えるとは言っても、いまこの瞬間に彼らを隔てている距離は絶対的であり、その分だけ彼らはなんとも頼りない存在となる。彼らはうろうろとうろたえる二つの点に過ぎない。その寄る辺なさを超克するために、上五の「蕪煮て」が五感に訴えることで現実感を確保しているようにも思える。

このように、彼の句ではさまざまな存在の寄る辺なさが語られていると言えるが、そういう様々な存在の中でも、唯一、彼自身の儚さ、寄る辺なさについてはほとんど言及がないもは興味深いところだ。最初に挙げた「ことごとく未踏なりけり」という句に関しては、例外的に彼自身の儚さを読みとることができたが、どちらかと言うと、これも彼自身というよりは宇宙の大きさに対峙する人類の小ささ、という雰囲気がある。つまり、彼自身のこととは少し言い難い。彼の俳句で語られる寄る辺なさはいつも彼の周りにある何かに仮託されているのであり、彼自身は彼の俳句の中にほとんど姿を表すことがない。

しかし、そもそも彼自身が俳句の中においては何の行動も起こさない、ということ自体が、彼自身の儚さを逆説的に物語っているとも言えないだろうか。彼は俳句を通じて何をやろうとしているのか。彼は観察者に徹しているのだ。それ以上に何もなすことはできないから。彼は世界をじっと見据えることによって、この世界を支配している者は何か、それを静かに見極めようとしているのではないか。

くろあげは時計は時の意のまゝに

あるいは、この句のように「世界を支配する者」をこのようなあらわな形で引きずり出してしまうのは、拙速と言える所業なのかもしれない。この句の評価は分かれるところだろうが、彼自身にとってこの句は意味のある句ではないかと思う。

この世界は時空間の中にある。時というものからは絶対に逃れることができないのだ。そういう意味で、「時計は時の意のまゝに」とは彼の句を支える根本的な見方の一端を端的に示していると言えよう。黒揚羽が何かの象徴ではなく、黒揚羽の持つ存在感を生々しく伝えているところが僕にとっては面白く思える。

夏蝶やたちまち荒るる日の中庭 (「中庭」に「パティオ」とルビ)
孵卵器のつよき光や五月雨

『未踏』以後も、彼が目指しているものは基本的には変化していないようだ。儚い生命の見せる輝き…。言葉に出せば陳腐だが、それは詩人の永遠のテーマでもあるだろう。

洋梨とタイプライター日が昇る

こんな世界の片隅にも日は昇るのだということ。「ことごとく未踏なりけり」の句より、僕はむしろこの句にこそ希望や未来への燃えるような意志を感じる。こんなに儚く、かつ寄る辺ないものの寄り集まりみたいな世界の中では、こういういくつかの存在が奇跡的に邂逅する静かな場所からしか、希望なんていうものは生れないのではないか。

作者は髙柳克弘(1980-)



雛罌粟やでんぐり返りても真昼

彼女の描く事物には、どれも生々しいまでの存在感が備わっている。

ひも三度引けば灯消ゆる梅雨入かな
ひもの屋の干物のための扇風機
ビニル傘はがし開くや冬の暮

モノがそのものとしてそこに存在しているということ。それを一句を通して実感させる句が多いことが特徴的である。一句目は、言うまでもなく「三度」の実感が一句のポイントになる。もしも「ひも引けば灯火消ゆる」と改作してみた場合とは、句の中に流れる時間からして明らかに違ってくる。夜寝る前だろうか。三度紐を引っ張ったというその、人生においてほとんど意味のない行動がなされる、なんとも間の抜けた5秒程度の時間に注目しているのが面白い。紐を三度引っ張るということを誰もがほとんど無自覚に行なっているからこそ、自覚的にそれを追体験することに新鮮味を感じるのだ。

干物のための扇風機、というのは、ありそうでなかった、という狙いどころがうまく決まった感じのする俳句。それにしてもこの句から吹いてくる生ぬるい風はいやになるくらい五感を刺激する。ビニル傘がいざ開こうとしたときにびたっとくっつくというのも、普段誰もが見ていながら気がつかなかったという種類の事柄だろう。冬の暮ともなればうそ寒い街角を一人歩こうとしている彼女の背中が見えてくる。

これらの自分を取り巻いているモノが、無自覚なときに自分にどのように扱われているかを意識化することによって、彼女はさまざまな事象に取り囲まれながら生きているのだということを感じさせる。それはとりもなおさず彼女が精神的に豊かな生活を送っているということであり、そういう豊かさは、その句を読む我々に、自分たちがどういう世界に生きているのかを思い出させてくれる。

冷やかや携帯電話耳照らす
陽炎やゆつくり閉づる欠伸の口
熱もどる両足泉より上げて

だから、これらの身体感覚も無理なく我々の体のうちに入ってくる。そして、世界と個人というのは、これほどまでに矛盾なく親和することができるものだったのかと言う点に驚くのである。それは、これらの句の世界が彼女自身の肉体を含めて完全な調和を形作っているという感覚から来ているもののように思える。

秋の夜の寒さをより一層感じさせる携帯電話の灯り、閉じられてゆく欠伸の口までがかげろってきそうな物憂い春の昼、じんわりと血の流れに伴ってあたたかみの増してくる両足…。どの句も、簡単に言えば季語がぴったりはまっている。そのために、句の中における季語と彼女の身体とが、一つの肉体感覚に向かって最大限に効果を発揮するのだ。

花火しだれぬ次の花火にまぎれつつ

この句には直接的な身体感覚は描かれていないが、しだれ花火が次に打ちあがった花火と交錯してゆく様子は、なぜか花火同士の触れあった触覚のようなものを思わせる。実際にそこにあるのは火の粉と火の粉がすれ違っている味気ない空間だけなのだろうが、全体にやわらかい語感がそう思わせるのか、二つのものが触れあうときの妙に生々しい皮膚感覚を伴っているように感じられるのだ。その感覚を生み出しているのは彼女の中から世界に向けて解き放たれた皮膚感覚なのであり、彼女と世界との親和は、このようなところにも見られるのである。

あくまでも自分と世界の関わりと言うスタンスから句を作っていること、そして世界を肯定的に見る次の句のような視点が彼女の句の基底をなしていることが、このような調和を生んでいるのだろう。

まゐつたと言ひて楽しき夕立かな
白雨や愉快愉快と池鳴らす

いかにも楽しそうに、愉快に、この世界と渡り合っているのが分かる。

夏シャツの我も戦士や残業す

「我も戦士や」という意気込みが上滑りせずに一句に定着しているのは、そのようなポジティブさが根底に存在しているからだろう。

また、そのような世界との親和は、以下のような句にも見て取れる。

ゴールポスト遠く向きあふ桜かな

ポイントは「向きあふ」という措辞である。遠く、ではあっても、ゴールポストは向き合っているのだという発見。そこに何らかの寓意を読みとることも可能だし、ただ単なる風景としてそれを捉えても構わないのであるが、いずれにしても、ゴールポストがちゃんと向き合っている、というような現実認識が、世界がきちんとそこに存在しているということ、世界が調和して我々のそばに存在しているのだということを改めて我々読者に、ひいては彼女自身に納得させるということには変わりがないであろう。

また、このような文脈で例句に挙げるのにうってつけなのは、世評に高いと言われている次の一句なのであろう。

一滴の我一瀑を落ちにけり

確かに自他が渾然として、自分自身が世界と高い親和を示している句のようにも思える。しかし、僕自身はこの句の良さがそこまでぴんと来るわけではない。逆に、そういう主題が見え透いているようにも思えるし、皮膚感覚に訴えてくるものがない。この句よりも、先ほどあげた花火の句の方が、よほど自他の渾然とした恍惚感があり、僕には肯えるものがある。

そこで、たとえば次の句はどうであろう。

雛罌粟やでんぐり返りても真昼

僕が興味を持ったのは「でんぐり返りても」の「ても」である。言うまでもなくこれは逆接である。つまり、本来ならばでんぐり返りをした場合真昼から何か別の時間へ変わるのが当然であるはず(と彼女は思っている)なのに、実際にはでんぐり返しをしても真昼のままだった、ということになる。

でんぐり返しをしている間は世界を見ることができない。回っている間、彼女自身は世界から目を離すことになる。目をつむる、というのは、どこか恐ろしい。目を離したすきに世界は変貌してしまうのではないかと、誰もが心の奥底に妄想的な恐怖をぼんやり抱いているのではないか。

かくれんぼ三つ数えて冬になる 寺山修司

この句に明らかなように、目をつむり、世界から目を離したら、世界というのは一気に変わってしまう恐れがあるのだ。おまけにでんぐり返しをして世界が一回転してしまったらその勢いで全く別の世界に転がりこんでしまうかもしれない。そういった感覚を前提にしなければ、中七に見られる逆接を読み解くことはできない。

彼女の句では、しかし、でんぐり返りても、と言うように、寺山の句などとは違って、いきなり世界は変わったりはしない。光あふれる真昼のままなのだ。これは何と言う信頼感であろう。世界は彼女を裏切っていきなり変化することはなかった。彼女と世界とはかなり強い信頼関係によって結ばれているのである。ひょろひょろと、しかし、すっくと立っている雛罌粟の花の可憐さに、その信頼感は仮託されていると読むことができよう。

紙魚きらきらと書を喰ふ夜なり乾杯せむ

それは何に対する乾杯なのだろうか。はっきりとは分からない。だいたい、紙魚なんて乾杯の対象にはなるはずがない。それでも、「きらきら」という語が「乾杯」と響き合ってしまって、乾杯せむ、と言われればうっかりグラスを合わせてしまいそうになる。

その幸福感が地に足のついた確かなものなのだと確信を持って言える気がするから。

作者は相子智恵(1976-)

3

今回とりあげた二人の作者は、二人ともすでにそれぞれ高い評価を受けている。

髙柳克弘は第19回俳句研究賞を受賞している。さらに去年上梓した第一句集『未踏』は、先日第1回田中裕明賞を受賞した(おめでとうございます)。相子智恵は去年、第55回角川俳句賞を受賞しており、新撰21の100句をまとめるのと同時期の〆切だったにも関わらずその50句もまた高く評価されているのは、彼女の実力を示しているだろう。

しかし、彼らの世界に対する視座はほとんど正反対と言ってもいいのではないか。髙柳の句について、僕は「儚さ」「寄る辺なさ」をキーワードに挙げた。彼自身はその俳句の中にほとんど姿を表さないことも指摘した。それに対して相子の句は「世界との親和」をキーワードに読み解いた。彼女自身が世界と遊んでいる楽しげな姿も活写することができた。

こう書いたからと言って、髙柳の句が一括して悲観的な様相を帯びていて、相子の句が楽観的に過ぎると見るのは早計と言うものだろう。入口が違うだけで、両者とも世界の深奥に迫ってゆこうという意思は共通しているようにも思える。




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