2010-05-30

『現代詩手帖』2010年6月号「短詩型新時代」を読む 上田信治

〔詩誌を読む〕
『現代詩手帖6月号 短詩型新時代』を読む
 
上田信治

詩誌のしにせ『現代詩手帖』の今月号は、短詩型の特集。かなりのページ数で、字も小さく、非常に読みでがあります。これは、今年後半のトピックになる特集号かも。

正確に引用しないで、ざっくりメモ+感想で書くので、ぜひ現物に当たって下さい。


●座談会「滅びからはじめること」 p.22-
松浦寿輝 小澤實 穂村弘 岡井隆

小澤さんがうまく話に絡めてないのは、なぜ?

歌人・岡井隆の詩集『注解するもの』の話題から。

松浦、岡井さんは歌人だから、五七五七七がキムチの壺になっていて、何を入れても美味しいキムチになってしまう。その発酵のキモは、定型と、文学空間の記憶のネットワーク。(発言は大意、以下同)

岡井に俳句なんてみんなそうですよね、と問いかけられ、小澤、自分で発明した季語では相手に伝わらないから、と笑う。

感想:ここ、小澤さんがうまく話に絡めてない印象。

たぶん話題になっていることが、俳人にとっては当たり前すぎるというか、個々の作家がわざわざ意識の前景化させないところで──

それは、俳句作家にとって、他の出席者の言う「記憶のネットワーク」とか「キムチ壺」が、個人に属するというより、共有のみんなで使っている「キムチの素」だということなのかも。

美味しくはなるけど、みんな似てしまうことのほうが問題。

それでも個性が出る人は、戦略的に「壺」になんか変なものを入れてたり、もともとかなりへんな人だったりするのでしょう。ふつうに優秀なくらいの人が作ると、みんな同じになってしまう。

現代ッ子の問題

松浦、穂村に、いわゆる「棒立ち」の歌は、教養も記憶も無い場所で立ちつくしているのか、と問いかけ。

穂村、ツルッとした、ただ本当に記憶のない感じ。「いま」「いま」「いま」という輪切りのパラパラ漫画。キムチ的発酵は望めない。塚本邦雄にも、そのパラパラ漫画の感じはあった。塚本さんは、言語の性質が戦後的、現代っ子。

穂村、松浦さんがベトナムから帰ると平和すぎて気が狂いそうになると書いた吉祥寺のかんじ、そういう場の影響は逃れられない。逆に特殊な緊張感を持った作家(冨田拓也、笹井宏之)には、個人の宿命のようなものがあるのかと、つい思ってしまう。

感想:急逝した笹井さんに並べられて、冨田さんが縁起でもありません。

イヤ、それはともかく、現代っ子といえば、俳句の昭和30年世代が、そんな人ばっかりだと思うのですが、あからさまな現代性は作品表面に出てこない。

それは、たぶん、みんないったん自分を「キムチの素」につけてしまうからで、俳句一般としての発酵を経ているせいで、個別の素質としては持っているだろう現代性が見えにくくなってしまうのでしょう。そのことが、ちょっと癪(猿丸さんは、大いにくやしがっていい)。

この他、「私」性、「偶然」の導入、ジャンルが滅びること、などのトピックが語られます。「私」の問題は、もう一つの座談会でも語られます。


●現代詩手帖「いま短詩形であること」 p.88-
城戸朱理 黒瀬珂瀾 髙柳克弘

100句選は、俳句ボロ負け? 

髙柳、これからは、ジャンルの特質を留保しながら、同時代の芸術と交感するハイブリッドなありかたを模索したい。そういう意味で今回の100句(同号掲載の「ゼロ年代の俳句100選」)も選んだ。(あくまで大意)

黒瀬、短歌は、戦後、テーゼの共有を持って、作られ語られてきた。その共有は、過渡期に入っている。新旧の価値観の並立をテーマに100首(同「短歌100選」)を選んだ。

感想:この100句、短歌の隣におくと、ゆるくないですか? 

短歌100首にだって、そりゃ、これってどうなの、というのはたくさんありますが、〈それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした 笹井宏之〉〈つきの光に花梨が青く垂れてゐる。ずるいなあ先に時が満ちてて 岡井隆〉に対抗するものが、俳句に・・・

あ、まあ〈空へゆく階段のなし稲の花 田中裕明〉〈おおかみに蛍がひとつ付いていた 金子兜太〉があるか、ははは。でも、なんかトータルの印象で言うと、J-POPの間に蓋棺録がはさまってる感じで、うーん、俳句って、もうちょっと、出来る子だと思うんですが・・・。

選者が「外部」を意識した結果のセレクトが、これだとしたら、「外」のお客はそんなに甘くないよ、と言いたい。


俳句にいま「私」は見えない

髙柳、80年代のカルチャーブームから、俳句が加速度的に大衆化、人間探求派的な〈私〉は、身のまわりのありのままを詠むかたちに、解消されていった。2000年以降、それに対する反動がある(?)。

黒瀬、大衆化で私性が拡散したのは短歌も同じだが、現在の短歌は、表面張力のように(希薄な私性を希薄さゆえにということ?)極度に強くしている。斉藤齋藤の〈のり弁〉の歌は、のり弁と私が世界に同時に存在したことの驚きが、歌われている。

感想:黒瀬氏の言う、それは、俳句がかって驚いてきたことのはず。

俳句に今、それが詠めていないとしたら(100句選にはあまりなかったような)、それはある意味、私性の衰弱? つまりその、ジャンルの固有性を割り引いても、あまりにもワガママが足りないというか、人として常識的すぎるというか。

髙柳さんの言う、〈私〉の反動は、主人公=作者ではなかったり、歴史性の導入などによって、ちょっと違う主体が、現れてきている、という話。『荒東雑詩』のれおなさんは、確かにそんなかんじかもしれませんが、傾向として語るのは、どうでしょう。

他にも、結社の問題、季語の問題、文語口語の問題などのトピックあり。自分には黒瀬氏の言う「口語に見える新しい文語」は興味深かった。口語俳句も、(黒瀬氏の基準で言う)文語として成立してるかどうかで、成否が分かれるのかもしれません。

座談会以外の記事にも、印象深いフレーズ多々。勝手にかみ砕いて、引用しますと(再引用禁止)

現代詩は参照先が現代、俳句は歳時記を通して過去も(相子智恵
俳句は「世界と私」の勝ち負けではないところが明るい(関悦史
『新撰21』で目立ったのは、写生ならざる「イメージ」の練り上げ。それが返って作者の自画像になっている。(広瀬大志

「俳句」6月号の座談会にもふれようと思ったのですが、時間切れ。大谷弘至さんが、ばっさりと、関さんに作家性を否定される場面があったのですが、大谷さん、ちゃんとお家に帰れたでしょうか。



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