ほえほえ踊り 1972年6月10日・土曜日
中嶋憲武
学校から帰ると母の置き手紙がありました。
「くに子のところへ行ってきます。今晩は帰らないかもしれません。冷蔵庫にカレーがあるので、あたためて食べてください。ショウコちゃんの好きな海老カレーです。今日の100円です。大事につかってね。では」
くに子というのは、母の妹です。つまりわたしのおばさんです。母はときどき息抜きに行くのです。母は東京生まれなので、いま住んでいる場所が嫌いというか、好きになれないのです。
どうしてこんなところへ引っ越してきたのかと、父に問いつめ、仕事だから仕方ないじゃないかという父と喧嘩になります。わたしは孤児のように自分の部屋へ入ってしまう。そんなところを見ていると悲しくなってしまうのです。そしてヨークシャーのダリを抱いてじっとしています。ダリはいつも泣いているような瞳でわたしを見つめる。
スヌーピーのメモ帳を破って書かれた母の手紙をテーブルへ置いて、リビングのソファへランドセルを下ろしてラジオをつけた。わたしはテレビはあまり見ません。テレビを見るとばかになると、母が言うので見ない。カレーをガスコンロにかけてあたためながらラジオを聞いていると、久米宏という男のひとが、喋っていました。この男のひとは、永六輔に土曜ワイドというラジオのなかでいろいろなことをさせられています。今日はある団地のなかで3時間でどれだけの雑誌を集められるかというのをやっているみたいでした。わたしは久米宏があまり好きではありません。喋りすぎるし、笑い方がなっていない気がする。徹底的にだめです。
カレーを食べてしまうと、あまりやる事はありません。でも2時になったので、美術教室へ行くことにしました。わたしは上手ではありませんが、小さいころから絵を描くのが好きです。それで母にねだって美術教室へ通うことにしたのです。その教室はわたしの住んでいるところから、自転車で20分ほどかかりました。橋を渡って、街まで行くのです。橋の途中で6年3組のナカジマくんに会いました。わたしは2組なのですが、ナカジマくんはわたしをいじめるのです。今日だって廊下でともだちと話していたら、お尻を触られた。いつだったか、風の強い日でしたがおっぱいを触られたこともある。やめてよと言っても、ナカジマくんはうすばかのようににやにやしているだけで、やめないのです。橋の途中でナカジマくんは虔十のように、にやにやしていましたが、わたしは無視した。
美術教室へ行くと、珍しくイイジマさんが来ていました。イイジマさんは中学生なのでとても大人です。すでに油絵をやっています。リンゴとレモンとコーラ瓶を並べているところでした。これを配置して描くのでしょう。わたしは、イイジマさんの並べ終わったリンゴとレモンの位置を、逆にしてしまいました。イイジマさんは、こら、と言ってすごすごと元の通りに並べます。わたしは黙ってイイジマさんのことを見ていましたが、コーラ瓶を、とおざかってゆくとおざかってゆくと言いながら、じりじりと動かし始めました。イイジマさんは、しょうがないなあ、ショウコちゃんと言って笑っています。イイジマさんのこんなところが、とても大人でいいです。
わたしも描かなきゃと思って、紙をあっちこっち折ってデッサンした。紙は形が単純なだけにかえって難しいのです。
美術教室から帰ると夕方で、父が会社のひとたちを連れて来て、麻雀をしていました。父に冷蔵庫にカレーがあるよと言うと、寿司を取ろうと言ったのでわたしは、父の気が変らないうちにと菊寿司へ電話しました。
麻雀の牌を掻き回す音ががらがらと向こうの部屋から聞こえて、わたしは自分の部屋で宿題をしていました。宿題をしているうちに月曜日は、音楽の授業で立て笛のテストがあることを思い出しました。なにか楽曲を決めて吹けと言うのです。わたしは困った。楽曲を決めていないのでした。練習する日はあと1日しかありません。なにを吹こうかと思案呻吟していると、お寿司屋さんが上寿司五人前を持ってきたので、思案は中断してしまいました。そしてすっかり忘れてしまったのです。
空になった寿司桶を前にして、居間で紅茶を飲みながらテレビを見た。テレビを点けるとお笑い頭の体操の、月の家円鏡が面白かったので見てしまったのです。土曜日は特別にテレビを見ることにしています。見たい番組があったのです。なんだかさっき言ったことと矛盾してしまうようですが、土曜日はいいのです。9時から放映されているキイハンターというドラマはかかさず見ています。島ちゃんの役をやっている谷隼人が、かっこいいのです。ドラマの最初のナレーションの、「彼らこそ現代のモーレツな仲間」というのが、まず意味不明でなにを言ってるんだとぐっと引き込まれます。
番組の終りのテーマソングをわたしも一緒になって歌って、立ち上がって身をくねらせながら、踊ってしまいます。わたしはこれを「ほえほえ踊り」と名付けて楽しんでいます。誰にも内緒です。歌い方もほえほえしている感じで、これを聞いていると土曜日の夜だなあという気がしてきます。急に、立て笛はキイハンターにしようとひらめきました。いつかの放課後に、教室の窓にもたれて立て笛でキイハンターのテーマを吹いていたら、キタムラくんが、見てるのと言うので見てるよと言うと、キタムラくんは、その笛うまいねと誉めてくれました。キタムラくんは、キイハンターのなかでは、記憶の天才ユミちゃんが好きなのだと言っていた。それぞれ好みがあるのだなあと思った。
お風呂から上がって部屋で、江戸川乱歩を読んでいると父たちの麻雀の音が聞こえてきた。今日はたぶん徹夜になるのだろう。明日の朝ごはんはわたしが作るのかしら。やっぱりパンかな。パンなら簡単でいいんだけどと考えていると、ラジオで中村メイコの「わたしのロストラブ」の始まりのスキャットが聞こえてきた。この番組は乙女の処女喪失の告白だ。わたしには実感が湧かないが、興味はあるので、だいぶ遅くなってしまいますが聞いてから寝ることにしています。これがわたしの土曜日です。
2010-06-06
ほえほえ踊り 1972年6月10日・土曜日 中嶋憲武
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