2010-06-27

『現代詩手帖』2010年6月号「短詩型新時代」を読む2 五島諭

〔詩誌を読む〕
短詩型新時代覚書2
『現代詩手帖』2010年6月号を読む

五島 諭


「―俳句空間―豈weekly」第94号に高山れおな氏が「『ゼロ年代の俳句100選』をチューンナップする」という記事を書いている。高柳克弘編の「ゼロ年代の俳句100選」を検討し高山自身の選を加えて再編集しようというもの。内容的にも充実していて、とても面白い。俳句の世界は活発だ。私の知る限り、短歌の世界にこのような動きは現れていない。高山のような詳細な検討は難しいが、黒瀬珂瀾編「ゼロ年代の短歌100選」に私なりに付け加えたい短歌ならある。たとえば次の歌。

寒いなあ何か飲みたいそんなときカフェオレだったらホッとするかも

某コーヒー会社CMのキャッチコピーである。一見言葉の組成が荒く、韻律もよいとはいえないこの歌をゼロ年代短歌の代表に掲げるのはどうか。そう考える向きもあろう。しかしこの歌には、今までほとんど作品にされて来なかった言葉の様態があるように思う。それだけにこのキャッチコピーの歌としての立場は非常に危うい。こんなものは短歌とはいえない、そう感じる歌人もおそらくいる。関悦史は前回も取り上げた「現代詩読者から俳句作者への漸進的横滑り」で次のように述べる。

短歌も試作はしたが放棄した。基本的に私語りである短歌において世界を異化し続けるには、作者の側に断固たる世界観とそれをリアライズする修辞を組織し続ける執念が必要だったからである。

短歌の機能は、「私」を語ることを通して世界を異化することである。この命題は歌人の側でも、ほとんど暗黙の了解と言えるものなのではないかと思う。そしてこの命題からすれば、こういうキャッチコピーは短歌ではないことになる。「寒いなあ何か飲みたいそんなとき」の「そんなとき」は、「私」にとっての「そんなとき」ではなく、メッセージの受け手(消費者)にとっての「そんなとき」である。また、「カフェオレだったらホッとするかも」の「かも」は、当然ながら「私」の詠嘆ではない。「~かも知れない」の「かも」であり、寒い日にはカフェオレがいいかもね、といういわば無人称の提案である。つまりこの歌には普通の意味での「私」の語りが存在しない。世界の異化、という物差しで見ても怪しげだ。

それでも私はこのキャッチコピーは短歌だと思う。むしろ、単調な〈私語り〉から短歌を開放する可能性の一端を開く作品として注目しておきたい。荒く見える作りも、不特定多数の消費者の購買意欲をかきたてるという目的から見れば成功している。「ホッと」「hot」のダジャレ(?)も楽しい。詩の言葉が商業主義に負けた? そうではないだろう。商売もまた人間がすること。商業主義を通して見えてくる人間の姿もある。「短詩型について知るいくつかのこと」で松木秀氏は言う。

一番びっくりしたのは、これは実作してみてわかったのだが「短歌は、詩であっても、詩でなくてもかまわない」という点があることであった。〉「詩のありか歌人篇」より

ここで松木の言う「詩」がどういうものなのかは詳しく語られないが、このような柔軟な短歌観を持つ歌人もいるのである。短歌の世界をせまい観念に当てはめていては、新しいものは生まれてこない。

とはいえ、〈私語り〉の単調さを避けるために、歌人はこれまでもさまざまな努力を重ねてきた。関の言葉を今一度借りて言うなら、世界を異化し続けるための修辞を組織し続ける、ということ。大きく見れば、歌人の関心はこの一点に尽きるのではないかと思うほどだ。短歌の言葉が、総体として、俳句の言葉よりも重く暗く見えるのは、一端では〈私語り〉に責任があるとしても、問題の重心はそこにはない。だいじなのは、修辞の組織の成否だ。それは、凝った修辞をつくりあげることを意味しない。意図にかなった適切な修辞をつくりあげる、ということを意味する。

マタイ受難曲そのゆたけさに豊穣に深夜はありぬ純粋のとき  近藤芳美

「ゼロ年代の短歌100選」から引いた。この歌には凝った修辞という意味での修辞はとくに使われていない。内容も平凡。〈私語り〉であるということも間違いない。どうしてこんな歌をゼロ年代短歌の代表としたのか、と思った。大きな声では言えないけれど、短歌の沽券にかかわる、とも。けれども、マタイ受難曲をよりどころとして生きる一人の人間が夜の闇の向こうにたしかにいる。これもまた、大上段から時代を考えるような身構えからは見えてこない、現代の一つの様相だ。「純粋のとき」とダメを押すのは、かっこいい修辞とは言えがたいが、至福感を的確に伝えてくる。こういう歌が、ふとした瞬間によみがえってきて、ぽつんと灯るような印象を残すから不思議だ。適切な修辞によって書かれるとき、〈私語り〉には、読者が自然に身を任せることができる、そんな力が宿る。

「詩のありか俳人篇」の、鴇田智哉「不安を巡って」は、正直な言葉で作句の風景をつづる。「不安」という、「私」の個人的な感覚を鍵にしながら、無季俳句、自由律俳句、自由詩にまで話が及ぶ。「私」の姿が見えているから話が飛んでもブレない。読者は無用な不安を感じずにすむ。この文章からは、「私」から出発した言葉がさまざまなことがらに向けて開かれるときの息使いが伝わってくる。〈私語り〉という用語は、その功と罪の両面から詳細に検討される時期に来ているのかも知れない。

さて、さきに挙げたCMのコピーはテレビ放映時には少女と成年女性とのかけあいになっていたが、これには続きがあった。たしか、かけあいの直後に男性の声でこういう文句が入るのである。

カフェオレは得意なんですブレンディー

俳句のことはよくは分らないが、なんとなくこれを俳句と言ってはいけない気がする。商品名が入っているからとか、そういう問題ではない気もする。俳句と短歌の自己規定にかかわる問題だけにちょっと興味深い。俳人の意見を伺ってみたいところだ。



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