2010-06-20

牡丹の息 中嶋憲武

牡丹の息

五月闇妻は牡丹の息を吐く

中嶋憲武


擦り切れた畳の目の毛羽立った先っちょが、ツンと傾いていて何かの形に似ていると思った。なんの形だったろうと考えているうちに、わたしは仰向けに転がされて、ぞりぞりの髪の毛がわたしの顎を無数に突っついた。


何かの形に似ていると思い、そこから記憶の糸を手繰り寄せ始めたのは、おそらく寸毫の時間だったのだろう。ぞりぞりの髪の毛の持ち主が、その舌先を小さくすぼめてわたしの乳首をつんつんと突つくと、わたしはびくっとのけぞり、畳の目の形などどこかにすっ飛んでしまい、つむった目の裏の暗幕に銀色の蜘蛛の形をした模様が、ぱっと広がった。銀色の蜘蛛は容易に暗幕を離れず、八方に伸びた脚がどんどん伸張しているようだった。

行為の間、その大部分の時間をわたしは目をつむっている。虐げられているという感覚が、わたしを淫乱な生き物に変貌させてゆく。いま、わたしを征服しようとしている好いたらしき人によれば、そんな時のわたしが、この世で最高にいとおしい存在なのだそうだ。祐一の六畳間やわたしのベッドで、もう幾度となく、お互いを奪い合ってきた。



お互いを奪い尽くしてしまうと、無性に喉が乾いた。裸のまま流しへ立って、この部屋でたったひとつきりの蛇口を捻り、プラスティックの水色のカップに水を注ぎ込む。

水を飲んでいると、後ろから、そのお尻の翳りが堪らないんだと声がした。汗で湿ったシーツの上に腹這いになって、煙草を吸っているわたしの好いたらしき人の声だ。祐一はとても好色だが、わたしは更に、その倍は好色であるだろう。求め過ぎて、彼を疲労困憊の極に追いやってしまう事もしばしばだった。

「やあだ」と、わたしは言っておいた。祐一は二つ年上で、わたしの大学の大学院の学生だ。祐一に並んで腹這いになると、智子のここの線がいいと言って、人差し指で、ウエストのくびれをつーっと撫でたので、わたしはぞくっと体を震わせる。すこし開いている窓から、生暖かい夜の風が来てわたしたちの裸の背中を通り過ぎてゆく。

「明日、どうすんだ」
「句会」
「飽きないね、智子ちゃん」
「だって面白いんだもの」
「セックスより、好きか」
「そりゃセックスの方がいいに決まってるでしょ」そう答えると、祐一は好色そうににやにやと笑った。わたしは比べる対象が違うと思った。時として、男って間の抜けた質問をするものだ。



翌日の句会場である吉祥寺のファミリーレストランは、駅からちょっと遠かった。歩いている間に、宿題のお題で俳句を考えてみたが、駄目だった。仕方無く歩く事に専念した。

レストランのドアを押し、店内を見渡すとその集団はすぐに分かった。回りの華やいだ雰囲気と混ざり合わないような、やや地味で沈んだような雰囲気の集団のなかへ急いだ。この雰囲気は嫌いではない。その場に身を置くと不思議に落ち着くのだ。「たらごん」という学生だけの俳句会にわたしは籍を置いていた。面々は心持ち顔を上げ、「よう」と言うような顔つきで迎えてくれた。今日は、わたしを入れて七人の参加だ。そのなかに一人見知らぬ男性がいた。お題で俳句を考えているのか、喉が乾いているのか、ドリンクバーの方へ顔を向けて、放牧された牛を一頭も見逃す事無く柵へ追い込む、よく調教された犬のような目をしていた。全身黒ずくめのその男性は、自己紹介の時に五稜圭と名乗った。

五稜圭は、その印象に反してよく喋る男だった。西東三鬼が好きだと言い、その作品の、中年や遠く実れる夜の桃という句について、成り立ちの時代背景や、三鬼のエピソードなどを事細かに喋った。二次会の居酒屋の琥珀色の灯りのなかで、ぬらぬらとしたよく動く薄紅い唇を見ていた。その唇を見ているうちに、わたしはこの男性と寝てみたいと思った。

吉祥寺の駅でみんなと別れ、わたしと圭、それに下田京子という、俳句総合誌にこの頃よく作品が発表されるようになった女の子の三人で井の頭線に乗った。良家の子女といった風情の下田京子とわたしとで、圭を挟む恰好になって休日の夜のがらがらのシートに座った。居酒屋では、あんなに喋ったのに三人とも口数が少なかった。京子が、わたしここでと言って久我山で降りた。ホームを歩く京子を、圭がちらりと振り返った。

二人になって、わたしの降りる永福町までの間、ぽつりぽつりと話して分かった事は、圭が芦花公園に住んでいて、母と二人暮らしである事、俳句を始めてまだ二年足らずという事、マンドリン奏者である事などだった。圭の長い指を見て、マンドリンの弦の上を軽やかにその長い指が動くさまを想像してみた。いつしかその指が、わたしの乳房を這っていて、わたしは尖端を硬くした。

  五月闇妻は牡丹の息を吐く

橋本夢道のこの句が好きだ。祐一に抱かれながら、何度もこの句を思い出した。牡丹の息という表現にしびれてしまい、この句を一目見るなり作者に惚れ込んでしまった。橋本夢道という人は、自由律俳句の作者として知られ、定型の五七五の音数から乖離した音数の作には、「夜はもう我の抱いた肉体も乳房も胸にまどやかな柔肌だった」とか、「精虫四万の妻の子宮へ浮游する夜をみつめている」とかあって、もう何て言うか、アナーキーというかパンクというか、とにかくわたしは、逆説的にこれこそ俳句だと思ったのだ。

今夜わたしのベッドで、後ろ向きに攻められているわたしの息が、ぼたん。思わず口走ってしまったらしい。祐一が、ぼたん何だって、もう一遍ぼたんって言ってみろと言った。わたしが口に出して、ぼたんと言った刹那、祐一の動きが大きく激しくなり、わたしの意志に反して「ぼたん」の「ん」の音が高く長く引いた。



若葉の季節から、そろそろ梅雨になろうかという頃だ。街を歩くと、この時期特有の新緑の生々しい香りが鼻をついた。男性の精の匂いにも似たその香りを通り抜けていると、全身が緑色に染まったような気がした。

全身緑色のまま、「たらごん」の例会の席に着く。本日の参加者は五人。会を重ねるごとに、参加者が減っていくように思われる。わたしたちの会には、中心となる指導者がいない。それが原因なのだろうか。考えてみても分からず、俳句を作る事に集中した。

わたしの隣りに座っていた京子が、カップを持ってドリンクバーへと立ち上がった。圭の座っている傍を通ろうとした時、圭のカップが空なのに気づき、お代わりを持って来ようかと聞いた。圭がなにか冷たいのがいいと言ったので、京子はわかったと言い、圭のカップを持たず、そのままドリンクバーへ行った。

京子は自分のお代わりの分と、メロンソーダを持って帰って来た。メロンソーダを圭の肘の傍へ置くと、圭は礼を言って、京子へ笑顔を見せた。

わたしはさり気なくその一部始終を見ていた。圭が笑顔を浮かべた時、わたしは穏やかではなかった。些細な事ではないかと咄嗟に思ったが、一度立ったさざ波は、遠い岸辺までひたひたと波紋を広げていた。

隣りに座った京子が、お代わりを一口飲みテーブルへカップを置いた時、圭と視線を交わしたのを感じた。それだけの事だ、気にするほどの事ではないと強く自分に言い聞かせた。

しかし京子が披講する時、俳句について意見を述べる時、そのおっとりとした喋り方がいちいち癇にさわった。京子と圭で、お互いの句を取り合っているのも癇にさわった。わたしの特選は圭の句だとあとで分かったけれど、圭の特選は、わたしの向かいに座っている平田進一の句だった。京子の選になぜかわたしの句が一句も取られていない事も癪で、その夜はすべてが癪だった。さっき近所のコンビニでコピーを取られてきた清記用紙の全員の句を眺めているうちに、手書きの丸っこい、京子の筆跡と思える、下手くそな字にさえ、いらいらとした。

極め付きは、句会の帰りだ。駅までのあいだじゅうずっと、圭と京子は二人並んで歩き、西東三鬼の「神戸」とかいう小説の話をしていた。圭は作中のエジプト人について熱弁を振るっていた。わたしは、早川久美と平田進一とで波多野爽波の実践主義について喋っていたが、だんだんわたしたちとの距離が開き、五メートルほど離れて後ろを歩く圭と京子の方が気になって、たびたび後ろを振り向いた。闇に紛れて何処かへ消えてしまうのではないかと思われたからだ。



進一と久美と駅で別れ、わたしと圭と京子は井の頭線に乗ったが、車中でもずっと二人で三鬼の話をしていた。京子が久我山で降りたあと、わたしとでは三鬼の話は続かず、圭と並んで無言だった。

買い物があるからと言って、下車駅の永福町で降りず、わたしは明大前まで行き、京王線に乗り換える圭と別れ、下北沢まで乗った。

下北沢で小田急線に乗り、喜多見の祐一のアパートへ行こうと思った。泣きたいような気分だった。祐一の部屋のドアを開けて、祐一の顔を見たら、わっと泣き出してしまいそうに思えたので、すこし遠回りして行く事にした。

その遠回りがいけなかったのかもしれない。雨がぽつぽつ降ってきたかと思うと、あっと言う間にどしゃ降りになった。祐一のアパートまでは、まだだいぶある。滝に打たれでもしているかのように、厳しい顔をしてわたしは歩き続けた。

ずぶ濡れになって、祐一のドアへたどり着いた。ドアを開けると、小さな沓脱ぎがあり、僅かな板の間があって、その向こうはもう六畳間だった。板の間で着ているものを全部脱ぎ、貸してくれたバスタオルで髪を拭き、全身を拭いた。

襖を開けて部屋へ入ると、祐一は胡座をかいてわたしに背を向け、何か書き物をしていたが、振り返って丸い蛍光灯の光のなかに立つ、わたしの裸身を見上げた。

雨はますます激しくなった。祐一も着ているものを全部脱ぎ、蛍光灯の白い光に晒されながら、畳の上でわたしたちは一つになっていた。わたしは祐一にしがみつき、両足を祐一の腰に絡ませた。祐一の息づかいと、わたしの発する感極まった高い声と、雨の音以外何も聞こえなかった。その夜のわたしは、いつもより感じやすかった。いまのこの形での結びつき方が、わたしにはぴったりなのだと思った。「揚羽本手」と祐一は呟いた。「アゲハホンテ?」わたしは聞き返した。「いま、僕たちがしている体位だよ」と祐一は答えた。その美しい言葉の響きとともに、わたしの好いたらしき人とこうしていることが、安らぎなのだと知った。

いつもにも増して、大きな声で叫びながら激しい驟雨の暗闇を、一匹の蝶になってどこまでも高く飛翔して行った。

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