ドッジボールの女王
中嶋憲武
小学4年だった1970年頃、遊びと言えばもっぱらドッジボールだった。
来る日も来る日も、休み時間を告げるチャイムが鳴ると、起立礼着席青葉風が過ぎるのもそこそこに、ボールを持って校庭へ集まった。あのボールは、ドッジボール専用のボールだったのだろうか。バレーボールほどの大きさで、硬いゴム製で小さな突起に覆われ、とてもよく弾んだ。そのボールが、他の競技に使用されているのをついぞ見た例しがない。
靴のつま先で、地面にコートのラインを描き、休み時間は10分くらいしかないので、慌ただしく試合を始める。コートに20人ほどいたから、クラスの半数がドッジボールをしていた事になる。そんな事があっていいものだろうか。
小学生の頃というのは、男子も女子も体力の差があまり無く、男子並みの高い身体能力を持っている女の子もいた。かなえちゃんという女の子は、とても速いボールを投げた。かなえちゃんの両方の上瞼は、ぽってりと腫れぼったかったので、陰で「お岩さん」と呼ばれていた。特殊能力を持っている女子という事で、一目置かれている存在だった。かなえちゃんは、ボールを持った手を、後方へ水平にバックスイングし、そこから一気に回転ドアのようにボールを押し出してくる。サイドスローなのであるが、肘を曲げずに、手首と肩の強さだけで、ブンブン投げるのだ。それも低い姿勢から投げるので、ちばてつやのマンガ「ちかいの魔球」の二宮くんのボールのように、地面すれすれにやって来るボールは、避けようが無く、膝や脛のあたりに当たる。脛に当たってバランスを崩し、倒れてしまう子もいた。「潜水艦投法」と呼ばれ、恐れられていた。取ろうとしても低いので、なかなか取れるものではなかった。
かなえちゃんは平素、男子のような口の利き方をしていた。「てめえ」とか「このヤロー」は当たり前。「お岩さあん」などと、からかおうものなら、追いかけられて、往復ビンタは必至であった。
中学に入って、かなえちゃんはバレー部のキャプテンになった。その時の女子バレー部は強く、関東大会のベスト4まで行った。
それから10何年経て、同窓会でかなえちゃんに会ったが、裏庭の桃の木のように女性らしくなっていて、なんだか拍子抜けがしてしまった。
2010-08-22
ドッジボールの女王 中嶋憲武
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