【週刊俳句時評 第16回】
季語も、季語以外も
神野紗希
1.季語を軽んじる?
最新号の「俳句」2010年11月号(角川学芸出版)は、読みごたえがあった。角川俳句賞の選考会記録はもちろん、特集の「禁じ手の使い方」での鴇田智哉の「造語」の項や、大木孝子〈それがどうした血だるまの曼珠沙華〉、杉山久子〈唐突に尿意立ちたる葛の花〉、西村麒麟〈さて秋の燕のやうに帰らうか〉らの句が読めたのもよかった。
その中で、この春に句集を上梓した、昭和55年生まれの若手、杉田菜穂の第1句集『夏帽子』の特集記事に、気になるくだりがあった。
俳句で言いたいことや訴えたいことがたくさんあるとき、季語はどうしても軽んじられる。若い人たちの作品に違和感があるとしたら、たいていそんなところなのである。定型や季語を軽んじたとき、俳句は俳句である意味を失い、片言になり、訴える力を失うのではないだろうか。私にとって、手段としてだけの俳句を見るのは辛いものだ。
(石田郷子「杉田菜穂小論 たんと飛べ」)
もちろん、ここで石田は、ほかの「俳句で言いたいことや訴えたいことがたくさんあるとき、季語」を「軽んじ」る「若い人たち」(誰のこと?)をひきあいに出して、杉田は「定型や季語を」重んじており「訴える力」を持っている、というふうに褒めたいだけだ。なので、じゃあ高柳重信は?渡邊白泉は?という問いかけをしても、しょうがない。「片言」を悪い意味で使っているのも、べつに坪内稔典が念頭にあるわけじゃないだろう。それに、「たくさん」「軽んじる」といった箇所は、具体的に、どんな俳句や態度を指すのかが曖昧にしてあるので、上記の言の石田の真意をはかるのは難しい。
2.山口優夢「投函」の句
ということを前提とした上で、では、「俳句で言いたいことや訴えたいことがたくさんあるとき、季語はどうしても軽んじられ」てしまうのだろうか。「たくさん」の量が分からない以上、このテーゼを証明することは難しいけれど、現在、季語が軽んじられていると感じる背景にあるのは、「言いたいことや訴えたいことがたくさんある」という初歩的な問題ではなく、もっと根深い問題なんじゃないだろうか。
投函のたびにポストへ光入る 山口優夢
今回、第56回角川俳句賞を受賞した、山口の表題句だ。この句、「言いたいことや訴えたいことがたくさんある」ようには見えない。少なくとも、「たくさん」はない。句のおもてに書かれているのは、投函のたびにポストに光が入るよね、という、些細な発見だ。俳句の好むトリビアリズムである。ただ、季語がないだけだ。
もちろん、これは、トリビアルなだけの句じゃない。たとえば私は、この句を読んで、ポストの中の闇にいる心地になる。手紙の心地、とまでいうとファンシーな想像かもしれないが、私も一緒に、真っ暗闇のポストの闇の中で、しずかに呼吸しているような心地になるのだ。そして、ほんのときどき、誰かが手紙を投函したときにだけ、まるで湖に日矢が立つように、さっと光陰が差す。それは一瞬で、またすぐ闇の世界に戻るのだけど、その一瞬、これまでに投函された手紙やはがきの束が、さっと真白く照らし出されて、このうえなく美しい。そしてまた、もう一度、上方から光が差し込むのを、祈りのように待つのだ。
ポストの中という閉塞感に、現代という時代を見ることもできるだろうし、季語がないというところに反骨を見ることもできなくはない。でも、私は、そういう17文字以外の情報はぬきにして、この句だけを俎板にあげた、上記のような読みをしたい。そして、私にとって、この句はとっても、「訴える力」がある。
3.季語も、季語以外も
私は、季語のゆたかな世界を否定しているわけじゃない。季語はとても大切だ。でも、それは、ほかの言葉が大切なのと、同等に大切なのだ、と思いたい。たとえば、「投函」という言葉には、これまでに手紙というものを投函した経験のあるすべての人間の、祈りのような思いがこもっていて、「投函」という言葉を読むと、そうした感情やたくさんのドラマチックな状況が喚起される。ポストと結びつけば、投函したときの「かこん」という音が聞こえ、「たびに」と結びつけば、手紙をしたためるという行為の頻度と、それが示している人間の宿命のようなものが思われる。
季語だけでなく、すべての言葉を、軽んじたりしてはいけない。私の感覚からすれば、投函の句は、季語を軽んじたりしていない。ただ、どの言葉も大切にしようとしているだけだ。その結果、投函の句では今回、たまたま、季語が入らなかっただけだ。有季に対するアンチテーゼとしての無季じゃないから、有季の句もつくる。彼にとって、これが俳句だと峻別する基準が、季語の有無以外のところにあるというだけのことだ。それが、ある考え方の人間から、もしも、季語を軽んじているということになるとしたら、私は、季語と季語以外のすべての言葉が不幸だ、と思う。
新樹燃ゆ経済学に未来あり 杉田菜穂
私はこの句を読むとき、「新樹」という季語がどう詠まれて刷新されているか、ということよりもずっとずっと、経済学というものの未来に、強い希望を燃やしている、作者の意気込みをこそ抽出したい。その熱意を引き出すために、もちろん「新樹」という季語は、背景として、また象徴として、はたらいている。
こうした季語の問題は、結局、作者が何を詠みたかったかではなく、読者である私がどう読みたいか、という問題なのだ。だからこそ、根深い。(了)
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2010-10-31
【週刊俳句時評 第16回】 神野紗希
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