2010-10-03

真説温泉あんま芸者 第7回 くぼまんと浅草 失われ続ける風景・その2

真説温泉あんま芸者
第7回  
くぼまんと浅草失われ続ける風景・その2

さいばら天気



浅草・雷門13:00に待ち合わせだったので小一時間早く出かけ、雷門横の三定(さんさだ)で昼食をとる。この店の天麩羅が旨いと思っているわけではない。私のなかのお約束のようなものだ。

人が混み合い数分待って座敷席へ。天丼(並)を注文。しばらくして隣に若いカップルが坐り、メニューを眺めて悩んでいる。配膳のおばちゃんに、「きつねうどんのようなものはありませんか?」

言葉で海外からの旅行者とわかった。日本語じょうず。私がソウルを観光したときは、ろくに韓国語を覚えなかった。

配膳のおばちゃんは冷たく、「ここは天麩羅」とだけ言って立ち去る。あの言い方はないなあ。差し出がましいとは思いつつ、メニュー3ページ目のいちばん上にある「天丼(並)」を奨めた。

おふたりとも笑顔がとてもキュート。かわいらしいカップルを見ていると、こちらまで幸せな気分になる。

訊くと韓国からの旅。パック旅行ではなく、ふたりで、ガイドブック片手に廻っているとのこと。オススメの名所を訊かれたので、「仲見世を歩いて浅草寺」という世界一当たり前のコースを言い、箸袋に地図を描く。ふたことみことの会話ののち(そのあいだも、ほんとキュートなおふたり)、こちらが先に食べ終えて、「旅を楽しんでください」と店を出る。

人を待つあいだ、雷門附近にたむろする観光客に、中国の人、韓国の人が多いことに、いまさらのように驚く。そのうち俳句仲間数名が揃い(つまり吟行ということ)、仲見世から浅草寺へ歩く。箸袋に描いた経路とおんなじだ。



浅草は、ながらく娯楽の中心であった。昭和初期まで東京随一の娯楽地であったのだ。

江戸時代初期、江戸城下の賑わいにともなって浅草寺境内および参道の露店が恒常化する。仲見世の誕生である。まもなく、明暦の大火(1657年)を機に人形町にあった遊郭街が浅草に程近い千束に引っ越してくる(吉原遊郭)。1842年(天保13年)には、日本橋方面から芝居町が、浅草の裏、隅田川沿いの一画に移転(猿若三座)。背後に芝居町と遊郭街をもつ浅草はいっそうの賑わいを見せる。

明治に入って、浅草寺境内は政府によって「公園」に指定され、やがて浅草公園は、江戸以来の娯楽興行に加え、多くの映画館(活動写真常設館)で賑わう。大正期には浅草オペラが人気を博し、関東大地震(1923年)以降は「レヴュウ」と呼ばれる軽演劇が隆盛をきわめた。

浅草が「東京随一の娯楽地」の座を確保するのは、この頃まで。1930年代なかばには、丸の内、日比谷、有楽町あたりが娯楽地として勃興。サラリーマン層、学生層はそちらへ足の向きを変える〔註1〕。浅草は、いわば「古く泥臭い娯楽地」として独特の地位におさまる。この時代に新旧対照の「旧」を担うという浅草の位置づけが定着し、現在に至っている。

以上が、娯楽地としての浅草小史をさらにかいつまんだ概説だが、浅草の特徴として、〈変化〉が浅草の主要な成分であったことを挙げていい。「古めかしい娯楽地」としてどんよりとした時間の流れに身を置くまでの数十年間(明治から昭和初期)、浅草は激しく変転した。

変化の背景には、娯楽地の常というか宿命といっていいのだろう、流行を追うことによって目先を変え、客足をつなぎ止めるという浅草自体の動きがあるが、それよりも外的な作用が大きく、それには2つのエポックが挙げられる。

ひとつは映画(活動写真)の移入〔註2〕、ひとつは関東大震災〔註3〕。巨大な娯楽文化の到来によって浅草は一変し、巨大災害によって浅草は一変した〔註4〕

町が一変するとは、それまで人々によって生きられた町が失われることだ。感傷的な言い方になったが、事実、町を語る人々の口吻は、しばしば感傷をともなう。

変化に対して、大まかにはふたとおりの対照的な反応をする。ひとつは「新しさ」へと傾く感情(新しい時代の称揚)、ひとつは「古さ」へと傾く感情(過ぎ去った時代への思慕)。後者が感傷の色合いを濃くするわけだが、喪失に気持ちをフォーカスさせれば、どうしたって「傷」をともなう。



さて、そこで、くぼまん。久保田万太郎(1889 – 1963)である。明治22年、浅草田原町に生まれた万太郎は、慶應義塾大学予科時代から小説・戯曲を「三田文学」に寄稿、卒業後、本格的な執筆活動に入る。

久保田万太郎は、随筆に東京ローカルな題材が多い。例えば、次に引く一文は「中央公論」昭和4年(1929年)2月号に掲載された「吉原今昔」(のち単行本収録時に「吉原附近」と改題)。活動写真の隆盛により、浅草公園のそれまでの様相が一変したことを嘆く。

玉乗だの、剣舞だの、かつぽれだの、都踊だの、浪花踊だの、さうした「見世物」の一部にすぎなかつた「活動写真」がその前後において急に勢力をえて来た。さうしてわづかの間にそれらの「見世物」のすべてを席巻し「公園」の支配権をほとんどその一手に掌握しようとした。と同時に「公園」の中は色めき立つた。新しい「気運」は随所に生生しい彩りをみせ、激しい用捨のない響きをつたえた。(久保田万太郎「吉原附近」〔*5〕
〈新しい「気運」〉は、前述の新旧対照のうち「新しさ称揚派」にとってはまさに価値。けれども、「旧派」にとっては、破壊者に過ぎない。
(…)幸龍寺のまへの溝ぞひの町も、さうなるとまたたく間に、「眠つたやうな」すがたを、「生活力を失つた」その本来の面目をたちまち捨てて、道具屋も、古鐵屋も、襤褸屋も、女髪結も、かざり工場も、溝を流れてゐた水のかげとともにいつかその存在を消した。さうして代りに洋食屋、馬肉屋、牛肉屋、小料理屋、ミルク・ホール、さうした店の怯(め)げるさまなく軒を並べ看板をつらねるにいたつた。……といふことは、勿論そのとき、その横町の、しづかな、おちついた、しめやかなその往来の、格子づくりのしもたやも、建仁寺の植木屋も「三番組」の仕事師も、いつかみんな同じやうな恰好の小さな店。……それは嘗て「公園」の常磐座の裏、でなければ観音堂の裏で念沸堂のうしろ、大きな榎の暗くしづかに枝をさし交してゐた下に限つてのみ出すことの出来た小さな店……銘酒屋あるひは新聞縦覧所……にたち直つてゐたのである。(久保田万太郎・同)
万太郎にとっては「しづかな、おちついた、しめやかな往来」こそが価値であり、〈変化〉はそれらが失われることにほかならない。

万太郎の保守主義は一貫している。次の一文は、関東大震災による〈変化〉を描き、嘆いたもの。興味深いのは、活動写真の席巻による〈変化〉を扱う前掲の一文との類似性である。新しい娯楽の移入による変化だろうが、天災による変化だろうが、万太郎にとっては、大差がない。いずれにせよ、すでにある秩序の〈喪失〉という点で共通なのだ。
田原町、北田原町、東仲町、北東仲町、馬道一丁目--両側のその、水々しい、それぞれの店舗のまへに植わつた柳は銀杏の若木に変つた。人道と車道の境界の細い溝は埋められた(秋になるとその溝に黄ばんだ柳の葉のわびしく散りしいたものである)。どこをみてももう紺の香の褪めた暖簾のかげはささない。書林浅倉屋の窓の下の大きな釜の天水桶もなくなれば鼈甲小間物松屋の軒さきの、櫛の画を描いた箱看板の目じるしもなくなつた。源水横町の提灯屋のまへに焼鳥の露店も見出せなければ、大風呂横町の、宿屋の角の空にそそる火の見梯子も見出せなくなつた。--勿論、そこに、三十年はさておき、十年まへ、五年まへの面影をさへさし示す何ものもわたしは持たなくなつた。(久保田万太郎「雷門以北」〔註6〕
引用が長くなるので、ここで小休止。以下が続く。
「澁屋」は「ペイント塗工」に、「一ぜんめし」は「和洋食堂」に、「御膳しるこ」は「アイスクリーム、曹達水」におのおのその看板を塗りかへたいま--さういつても、カフエエ、バア、喫茶店の油断なく立並んだことよ--たまたまへうきんな洋傘屋があつて赤い大きな目じるしのこうもり傘を屋上高くかかげたことが、うち晴れた空の下に、遠く雷門からこれを望見することが出来たといつても誰ももうそれを信じないであらう。しかくいまの広小路は「色彩」に埋もれてゐる。……といふことは古く存在した料理店「松田」のあとにカフエエ・アメリカ(いま改めてオリエント)の出来たばかりの謂ひではない。さうしてそこの給仕女たちの、赤、青、紫の幾組に分かたれてゐる謂ひでも勿論ない。前記書林浅倉屋の屋根のうへに「日本児童文庫」と「小学生全集」の厖大な広告を見出したとき、これも古い酒店さがみやの飾り窓に映画女優の写真の引伸しのかざられてあるのを見出したとき、さうして本願寺の、震災後まだかたちだけしかない裏門の「聖典講座」「日曜講演」の掲示に立交る「子供洋服講習会」の立札に見出したとき、わたしの感慨に背いていよいよ「時代」の潮さきに乗らうとする古いその町々をはつきりわたしは感じた。(久保田万太郎・同)
保守主義者〔註7〕・万太郎にとって、町とは、風景とは、失われ続けるものでしかない。



その日、私たちは、仲見世から浅草寺へ、世界一お決まりのコースを基本的に辿りつつも、途中、伝法院通りに廻り、六区をぶらぶらした。散策のどのコースにも、雷門あたりと同じく、外国人観光客は多かった。

そののち西浅草へと路地を抜け、句会場所たるナカジマさんの住処へと2時間近い散歩を楽しんだが、ナカジマさんの亡きご母堂の実家のブリキ屋のかつてあった路地には、焼き肉店が並び、プチ・コリアンタウンとも言うべき様相。

私たちの世代が暮らしてきた半世紀ほどのあいだにも、このあたりはずいぶん変わったのだろう(ちょっと足を伸ばした吉原付近も激変のはず。売春防止法は昭和33年・1958年の出来事だ)。

万太郎が、いまも生きていて、浅草が、例えば、東アジアからの観光客で溢れているこの景色を見たら、どのように嘆くのだろうか。

嘆いてもしかたがないという話がしたいわけでも、私自身が嘆きたいわけでもない。私たちが暮らす地理はつねに変化するというあたりまえのことを書きとめたというだけだ。

  柳散り蕎麦屋の代のかはりけり  久保田万太郎



〔註1〕新しい娯楽センターの勃興については以下の拙記事を参照。
東京スペクタクル コモエスタ三鬼・第9回

〔註2〕草創期の映画について:
映画の発明を、1989年、トマス・エジソンによる「キネトスコープ kinetoscope」とすることもできるが、これは覗き眼鏡式だったので1回に1人しか見れず(日本にあった覗きカラクリ、起し絵のようなもの)、興行的な成果は望み得なかった。その後、1895年に、アメリカのフランシス・ジェンキンスが「ヴァイタスコープ vitascope」を、同年、フランスのルイとオーギュスト・リュミエール兄弟が「シネマトグラフ cinematograph」を発表、後者を映画の祖とする説が(シネマの語が定着したことからも)一般的。

驚くべきは、「ヴァイタスコープ」「「シネマトグラフ」発表の翌年、1986年(明治29年)には日本に輸入され、翌年1987年にかけて本邦初公開。当初は芝居小屋や劇場を使っての上映だったが、1903年(明治36年)には、それまで軽演劇の小屋だった浅草の電気館が、日本最初の活動写真常設館として新装オープン。活動写真は、10年とかからずに、人気娯楽として定着した。
※筈見恒夫『映画五十年史』(鱒書房1942年)、御園京平『活辯時代』(岩波書店1990年)ほかによる。

〔註3〕関東大震災を社会史上・文化史上の分水嶺とする指摘は数多い。以下の拙記事を参照
「大好きなアメリカ」との戦争:俳句的日常

〔註4〕太平洋戦争のインパクトは、浅草の激変期(明治から昭和初期)には時代的に含まれないので、とりあえず言及しない。

〔註5〕サイデンステッカー『東京 下町 山の手』TBSブリタニカ/1986年・引用より孫引き。

〔註6〕東京日日新聞社編『大東京繁盛記・下町篇』春秋社/1928年)

〔註7〕保守主義(conservatism)の語を、政治的脈絡よりも本来的(と私が思う)用法で使っている。例えば、列島を改造した田中角栄は保守主義ではなく、革新主義(progressivism)の政治家であるという捉え方。

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