江戸俳句・秋
寺澤一雄
『晩紅』第29号(2008年1月)より転載
また、暦のこと。お恥ずかしい話だが、「盆の月」という季語が有るのは知っていたが、意味がわかっていなかった。平凡社の俳句歳時記には「盂蘭盆会の夜の月で、旧暦七月十五日にあたるから、季節的にも、気持ちの上でも特別のものである。季節的にいえばまだまだ暑さもきびしく、団扇を座右から離せないのだが、気持ちの上では盂蘭盆だから、どこかさびしいような、また一種なつかしいような思いが湧くのである。」とある。旧暦七月十五日の月というのは満月なのである。盆の月といったら満月をはさんだ数日間の月のみで、新暦のお盆に上がるその他諸々の月ではないのだ。その後八月十五日は名月、九月十三日は十三夜と続いていく。名月を呼び出す役をしているのである。少なくとも、「盆の月」を使うときは旧暦に合わせることが必要である。
身の程もいつ究むべき種茄子 宋屋
種茄子のここにこのままぶらさがり 一雄
私はインターネットで種茄子という名前を使っている。俳号は本名だ。宋屋の句は自戒のようである。句としての面白さよりも、種茄子の入った俳句を見つけた喜びがあった。さらに写生句でもなく、思いがたっぷり入っているのも良い。
打上た花火ゆゆしきゆとり哉 三宅嘯山
「ゆゆしきゆとり」とは花火が開いて崩れるまでの間を言っている。一瞬というには長い時間が花火の崩れるまでにはある。そこをゆとりと捉えている。この時間をちょこちょこと写生するよりも、「ゆゆしきゆとり」と主観的に言い放ったほうが真実に近づくのである。
飯もれば這て来るなり秋の蝿 大島蓼太
本当かと疑ってしまうような句ではあるが大好きな句である。今の時代蠅自体少なく、残る蠅なんてものは年に何回も見るものじゃない。これは江戸の句。「這て来るなり」が良い味である。蝿だけでなく人間も飯が盛られれば這ってくる。秋の蝿に託して人間がよく書かれている。
附て来て犬も高きに登りけり 嘯山
「登高」の季語でありそうな句。だが、こう堂々と書かれると唖然としてしまう。秋になって一寸高いところへ登ると「高きに登る」で一句書いてしまう。この句も小高いところへ出かけたおり、野良犬が付いて来た。つい犬も高きに登ったと書いたのだろう。
柳にも竹にもよらずあきのかぜ 三浦樗良
秋の風は吹いているが、柳にも竹にも吹かない。自分にのみ吹いているのだろう。秋の風は、身体で感じるものである。
秋風のしごいて行し柳かな 雁觜
このような秋風もある。ちょっと秋風としては強引であるが、柳をしごいて行ったのである。柳の姿が見えて来るが、しごくから人間も見えて来る。
秋の暮毎日あつて淋しけれ 三宅嘯山
変な言い方だが、秋になれば夕方は毎日秋の暮である。しかも秋の暮は淋しいものである。現代よりも江戸のほうが数段秋の暮は淋しかっただろう。秋の暮の捉え方として、普通のことを感情こめて俳句にしている。この直情は好きだ。
踊見る人のうしろや秋の闇 定雅
この頃の踊りというのは、佃の念仏踊りのようなものだっただろう。今の盆踊りのように明るいところで踊っていた訳ではなく、闇はそこら中にあった。かろうじて踊りの輪の真ん中に明かりが有り、そこだけは明るかった。見ている人の後は闇。
かなしさもやぶれかぶれの野分かな 几董
かなしさに魚喰ふ秋のゆふべ哉 几董
「かなしさ」の俳句を二句。野分でやぶれかぶれは出易いが、かなしさもやぶれかぶれという思いは屈折している。やぶれかぶれに対して、魚喰うかなしさもある。最後は秋のゆうべである。このべたべた感はたまらない魅力である。
去年より又淋しひぞ秋のくれ 蕪村
「淋しひ」、「秋のくれ」と一句に盛っている。ここまでは大昔からよく有る感慨だが、「去年より」と入れた時に俳諧味が溢れた。ひょっとすると、秋の暮は年々淋しくなっていくものかもしれない。
何となく秋も一日過にけり 高桑闌更
何となく一日過ぎてしまうともったいなく思ってしまう。特に休日家にいてごろごろしているとそうである。秋晴れの日は本当に明るいが、あっという間に日が沈んでしまい、一日が終わってしまう。すると後悔やら淋しさが湧いてくる。闌更にとってはそのような感慨はなく、たんたんと秋の一日が終わりまた明日が来るといった感じである。わたしも早くこの境地に到達したい。
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