2010-10-10

【週俳9月の俳句を読む】岡野泰輔

【週俳9月の俳句を読む】
岡野泰輔 電光石火の言葉

   
飯島晴子は実に執拗でかつ明晰な文章を書く俳人だったと思う。

(自己の意識の中に入って)その下にあるのであろう何ともえたいのしれないところから、言葉のかたちで何かをさっと掠めとった瞬間、俳句は成立する。
あくまでも直(じか)に、言葉となったものを摑まなければ俳句は成立しない。手に握ったときには既に言葉であらねば(後略)『飯島晴子読本―言葉の現れるとき』(富士見書房)

人間探究派の近辺で俳句を始めた晴子が、いわゆる「言葉による俳句」を経由して、ホトトギス派の俳人と吟行をしたとき、その俳人の「見るのと言葉とが一緒に出てくるんですね」という言葉にコロンブスの卵に近い啓示を受けた体験を語っている。晴子が独力で到達したこの場所はメルロ=ポンティの言葉は思考の翻訳ではなく思考そのものであるという主張に驚くほど近い。

わたしたちは思い違いをして、表現される以前になにか思考そのものといったものが存在すると考えがちである。しかし現実には、この沈黙と思われるものは、言葉のざわめきであり、内面的な生と思われるものは、内的な言語なのである。『メルロ=ポンティ・コレクション』(中山 元編訳 『知覚の現象学』より 筑摩書房)

おいしいところだけをつまんでいますが、飯島晴子すごい!とかって思ったことがあります。


葛の花鋭利な喫茶店に雨  宮本佳世乃

作者は葛の花を見る、あるいは喫茶店を見る、あるいはその両方を。もとより葛の花は季語として所与のものでもある。葛の花と喫茶店というふたつの言葉を前に、意識の底から一気に「鋭利」という言葉を汲み上げてきたのではないかと想像するのは楽しい。それはひとつの思考であり、あるいは思考より素早く捉まえられた「俳句」であると言ってしまってもいい。葛の花も喫茶店も新しい相貌をみせている。


水澄むやふたつの言葉だけ持つて   宮本佳世乃

ここに具体はなく、季語―水澄むの象徴性が句全体にあっという間に行き渡るしかけになっている。水は静かに、しかし驚くほど迅速に世界を浸す。中七以降の静かな決意とも、ある種の放擲ともとれる文は決して思わせぶりに堕すことはない。作者の内語は声としてここにとどくことはないが、読者はその幻の響きを様々に楽しむことができる。


おしろいに滅びし星の光(くわう)とどく  今村恵子

夕暮れに咲くおしろい花、光年の単位で旅する星の光。(あ、同義反復ですか)「滅び」はうっすらとおしろい花にもかかって、不可逆の時間のセンチメントを奏でる。ここでは下五の「とどく」がいいなあ。大いなる時間を使ってその星を出発した光はいまここにとどく、そうかとどくか!おしろいから星の光に作者の思考が移ったとき、内語として「とどく」は発語されていたのではないか。日本語に「とどく」があってよかった、最後に句中の淡い光や時間をきれいにパッケージしたというか、固定したというか、そんな感じ。

早くももこのへんで、俳句―内語コンセプトを捨てて普通にやります。


草の花うつくしければまた歩く   下村志津子

草の花は有名無名を問わず、秋の千草の花を指すが、名もない(本当はそんな花はないが)つつましやかな秋草の花を連想してしまう。つまり野草、もっと言えば雑草。この名もない草、雑草というのが日本人は好きらしく、(草魂なんていう野球選手もいました)集合的無意識といってもいいくらい。手元の歳時記もこの名もない路線で編集されている。〈あつめねば花にもあらぬ小草かな 召波〉あたりがなるほどね、という感じ。志津子のこの静かな佇まいの句にびっくりはしないが、立ち止まってみれば静かな中に感情の小さな起伏がおきている。うつくしければまた歩く、この少し歪んだ措辞が集合的無意識の草の花像からの距離をつくっている。立ち止まることより、歩くことに力点がおかれ、それはこの秋の野でひとりくり返されている。


新婚の女の浮かぶプールかな   杉原祐之

タイトルにもなっている、この冒頭の一句に目がいってしまう。絶対新婚旅行ですね、そう思ったほうが味わい深い。プールには女一人なんですね。海浜リゾートの陽光あふれるプールではなくて、ホテルの室内プールであってほしい。外光は入るが、外は曇っていたりする、都会の星のたくさんついたホテルで、できれば高層でと・・・と、妄想は止まりませんが、その原因はこの少し高いところにいる作中の視点人物の突き放した視線によります。プールの矩形はすっぽり男の視野に入っています。(あ、男って言っちゃった、絶対男ですよね)「浮かぶ」という自動詞はほとんど行動を放棄しています。死体に近い。プールという季語がもつはずの夏の季感は、ここにほとんどなく、水の冷たささえ感じてしまいます。この男は夫だろうか?


ママ今日の松茸が大きすぎるよ   澤田和弥
爽籟や胸の谷間にボンジュール

コチョコチョと俳句をくすぐっている。俳句は笑いこそすれ、怒ったりはしない、懐が深いですから。特に二句めなど「爽籟」はこのように扱われて満更でもないんじゃないかな。中七以降はほとんど昭和30年代の文体。雅語といっていいい爽籟がすこしも古くならない。ツボに嵌っている。

一句目、この松茸は決して隠喩ではない、俳句はそこに書かれたそのとおりに読んでくれ、と、作者は聞かれたら答えるだろう。しかし読者を拘束することもできないとも。冒頭のママの効果で隠喩が常に首をもたげてくるのは仕方がない、とか、ゴチャゴチャいわずにママと大きすぎる松茸を賞玩すればよろしいのですね。


花咲かそとて爺婆を押しつぶす  すずきみのる

『本当は恐ろしいグリム童話』(桐生 操 KKベストセラーズ)という本もありましたが、昔話は語り継がれるうちマイルドに変形されていくようです。本当はこうなのよ、とばかり話の原型を掘り起こす手つきのこの句がおもしろい。
この夫婦が強欲なのは知っていたが、強欲な行動はもっぱら爺のほうだけの印象があったが、婆を押しつぶしたとは知らなかった。狂気を誘う桜の花と、それを愛で、かつ信賞必罰の大名と、たしかによくできた話だ。


にんじん    さいばら天気

フィクショナブルな連作。ああ、こういうことができるんだったら、連作もいいなと思わせる10句。(というほど連作俳句を読んでいないが)夏に始まって翌年の春まで、夫の視線による妻が描かれている。なんとなく映画『ぐるりのこと』(監督 橋口亮輔 リリー・フランキー 木村多江)を思い出してしまった。

なぜ妻は真夜中に泣く冷蔵庫   こういうのとか、
化粧せりつぶさに障子貼るごとく   こういうのは、

妻を見ているんだけど、何もできない夫ですね。

にんじんにフォーク突っ立ち最終戦争   とか
貧乏はいやだと泣かれクリスマス   とかは、

やりすぎだと思うんですけど、10句のドラマツルギーのなかでは、ここは盛り上がるところ、そのへんとてもよくできている。

ぼろぼろの幸せ春の土手に座し   まできてやっと、
死がふたりを分かつまで剥くレタスかな   になって

よかったなーと。このレタスが愛おしい、ここまで長い一年だったなあと。
妙に身につまされるところもあったりして、楽しめました。



今村恵子 水の構造式 10句  ≫読む
宮本佳世乃 色鳥 10句 ≫読む
下村志津子 隠し鏡 10句 読む
杉原祐之 新婚さん ≫10句
澤田和弥 艶ばなし ≫10句
〔投稿作品〕
すずきみのる とんと昔あったげな 10句  ≫読む
〔ウラハイ〕
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