2010-11-07

【週俳10月の俳句を読む】福田若之 俳句という旅先における意識の違い

【週俳10月の俳句を読む】
福田若之
俳句という旅先における意識の違い


第180号には、海外詠の連作が二組寄せられた。これが非常に好対照で面白い。

弾痕あり風はガラスの外を吹く  村田篠

ざらざらの壁に吊られてゐる楽器  同

アラビアの模様の皿に夜が来る  同

クローネ硬貨穴開き霧の旧市街  村越敦

要塞や海に出口の無く昼夜  同

ムーミンは河馬にあらずよ蚯蚓鳴く  同

それぞれから三句づつを引いた。

村田篠「棘」は、必ずしも、これぞメキシカン!とはいえない一句一句の集積により、全体としてメキシコの風土を醸しだすような詠みぶりをしている。

一方で、村越敦「ムーミンは」は「クローネ銅貨」「ムーミン」といった北欧を象徴する意匠を散りばめながら、その風土を思い切り押し出しているような印象を受ける。

この両者の作りの違いは、風土に対する意識の違いから来るものなのだろう。その意識の違いは、「棘」には割注が一切振られていないのに対し、「ムーミンは」では多くの句に割注を付していることなどにもあらわれている。「棘」の十句が表現しているのが、個々の具体物から発せられる雰囲気の混濁としての風土である一方で、「ムーミンは」の十句が表現しているのは、そうした雰囲気の混濁の中からあらかじめある程度まで抽象化された、象徴的なイメージとしての風土なのだ。

そして、どちらの十句もそれぞれの風土に対する視点が揺らぐことなく貫かれている結果として、それぞれの作者の旅のありようが浮かび上がってくる。旅先の人々の生活の中に紛れ込んで、意外な風俗を発見すること。名所や旧跡をめぐりながら、その土地ならではのものを贅沢に満喫すること。そのどちらもが旅の楽しみなのだと、この二作品を読んで改めて感じた。


満月の駅ポスターに浮かぶ島  石井浩美

しかし、旅に行かないで満足する方法もあるというのがこの句。実際の島を形容してもらうより「ポスターに浮かぶ島」と言ってもらったほうが綺麗な島を想像できたりするから不思議なものだ。この駅からその島まで、行こうと思えば行けるのだけど、でもここにいて十分幸せ、という感じが、「満月の駅」に現れている。この「駅」には、たとえば安住敦の「しぐるるや駅に西口東口」の句中に描かれている駅のような、どこか虚無的なもの寂しさは感じられない。毎朝毎夜使い慣れたいつもの駅、そこにはむしろ愛着すらあるように感じられる。現代の都会的な感覚だと思う。



弟よ水道代を貸してくれ  くんじろう

うああ。「日本人は水と安全はタダだと思っている」とは言っても、多少の金は要るわけで……切羽つまるところまでつまってしまった心の叫びを思わせられる。「貸してくれ」とは言ってるけど、このアニキ――ですよね?――返すつもりがどこまであるのやら……。そんな兄に対してでも、やっぱり困ったときにはお金を(貸して)くれる愛すべき弟なのだろう。たしかに親には切り出しづらい頼みである。森見登美彦『四畳半神話体系』に登場するような、乱雑に散らかった下宿先の部屋のありさまが、ふと想像された。

……とか平然と鑑賞しちゃって本当にいいのか、これ? というのが初見の正直な感想だった。この十七音を、一句の独立した「作品」として公表するという行為は、やはり新しいだろうし、作者の意図はむしろそこにあるのではないかという気もしなくはない。

しかし。表現形式が云々とか、文学の私性が云々とかって批評家めいたことを考え込んでしまうと、この句の純粋な面白さからはどんどん遠ざかっていってしまう気がする。ちょうどマルセル・デュシャンの「泉」が、ただの便器であるにもかかわらず、ついそのありさまに魅了されそうになる不思議な感覚に陥れさせてくれるのとおなじように、この十七音から感じられるただそれだけのもので、脳みそのどっかにある不思議なツボを押されたような刺激を受ける。なんかそれが、けっこう大事なことなんじゃないかと思う。アート、というと気取りすぎな感じだし、芸術、というとしんどい感じがするので巧いことばがないが、世間で便宜上そういう名の下に括られているようなもの全ての存在意義――意義がもしあるとするならば――は、究極的にはこの不思議さを伴ったさまざまの「刺激」をもたらすことであって、それ以上でも以下でもないと思うのだ。

その意味で、この十七音を「作品」として受け入れたとき、その存在意義は大きなものになると思う。


林檎摺る一行の詩にささへられ  杉山久子

一方でこういう風に詩の意義を見出している人がいるということも、忘れてしまいたくない。「弟よ」みたいな句には、まあ、そんな力はないだろう。

林檎の芯の強さを感じるのは、切るときよりも齧るときよりも、摺るときであるように思う。「林檎摺る」と「一行の詩」の取り合わせからは、それこそひとつのいのちの奥深いところで支えとなり原動力となる、林檎の芯のような力強い詩が想像される。

一行の詩の作り手が「一行の詩にささへられ」と詠むとき、そこには、一行の詩に支えられながら、一行の詩で人を支えたいという思いが見え隠れする。林檎を摺るように粛々と詩に向かい合おうとする作者の姿勢に、胸を打たれる思いがした。


村田 篠 棘 メキシコ雑詠 10句 ≫読む
村越 敦 ムーミンは 北欧雑詠 10句 ≫読む
清水哲男 引 退 10句 ≫読む
石井浩美 ポスター 10句  ≫読む
くんじろう ちょいとそこまで 10句  ≫読む
杉山久子 露の玉 10句  ≫読む

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