林田紀音夫全句集拾読 142
野口 裕
プールの声の午後の破片となって降る
独房の西日の綺羅に甘んじる
手花火に死相の松を顧る
昭和四十八年、未発表句。二句目にやや独善の匂いがするが、いずれも季語をすっきりと生かした句。この時期に、有季定型を中核とする句が存在したことは注目に値する。同時期の発表句には、こうした発想の句はない。
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蝋涙の和讃へ女から老ける
昭和四十八年、未発表句。この時期の発表句には、香煙・念仏・納経・形代・経木など抹香臭い句が多くなってくる。未発表句に並べられている頻度をはるかに越している。意地悪い見方をすれば、句法がどんどん伝統的な発想に近づく中で、有季定型に頼らずに句を生産するとすればもっとも確実なものは仏教習俗になる。そこで、発表句の中に抹香臭いものが多くなる、というような経路をたどるのではないだろうか。
あるいは、紀音夫は都会的な作家である。農耕文化から切れている。だが、培ってきた句の技法からどんどん農耕文化的な発想が出てくる。しかし、それをつなぎ止める素材が紀音夫の周辺には仏教習俗的なものしかない。というような言い方ができるだろう。
上揚句は、和讃の最初の作句例になるかと思う。
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石牢の翳スプーンよみがえる
石段の上石牢の匂いさす
昭和四十八年、未発表句。石牢は、紀音夫好みの素材に思えるが、その後展開した様子はない。一句目は戦時体験の回想か。
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男から手がのび運河きびしく照る
昭和四十八年、未発表句。「きびしく」という語を使用するのは、紀音夫には珍しい。
書いた即座はそうでもないが、書き終えてからしばらくしてみると、語が象徴性を帯びることはよくある。この句に見る象徴性もそうしたものだろう。「運河」が、紀音夫の戦後生活の一切をどうしようもなく象徴してしまう。男からのびる手は、戦争体験から来る戦後の生活の物足りなさ・空白感・無情感(変換すると無常になるところを手間かけて無情にした)を消し去る何かを求めている表れだろう。
そして、その希求が時代から拒絶されるものであることも作者は知悉している。「きびしく」はその表現である。
だが、それを表すことに倦み、句自体が畢竟失敗であることも、作者の知悉は徹底しているかに見える。「きびしく」がそんな感想をも抱かせる。発表句に、この句を展開させた、と見えるものはない。
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2010-11-21
林田紀音夫全句集拾読142
Posted by wh at 0:04
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