2010-12-05

〔週俳11月の俳句を読む〕山田耕司 オリオンや鶏頭や告白や

〔週俳11月の俳句を読む〕
山田耕司
オリオンや鶏頭や告白や


「いろんなことが書ける」と気がついたところから近代俳句が立ちあらわれたと仮定するならば、「いろんなことは書かない」と気がついたところから現代俳句は始まったのである。

ああ、近代と現代と、どこで線をひくのか。

実はひけない。

近代と現代は、この場合「時代区分」ではなくて、俳句に対する姿勢、のようなものの指標として使用している語なのであり、同一時代の中に混在するし、一人の作家の中にも混在する。


一句一句の作品には、作品のツボのようなものがあり、それこそ一回性の「仕上げ」をするのであって、その一回性のツボをまさぐりやまぬのが作者である。かたや、それはそれとして作品たちに一貫性を求め、作家としての方針のようなものがあるとして横串をさすのが批評家、ということになるだろうか。

ひとりの俳句書きに作家と批評家との両方が内在していて、あまり仲が良くない。

どこで休戦協定を結んでいるか、そこらへんにこそ、作家の「個性」というものが表出するのかもしれず。

(こんな用語を設定して話を進めることで、何が得られるのかは不明ではある。
ではあるが批評というものは、ちょっと肩の張った設定をした方がモリアガるのであって。)


さて、いきおい「近代」というものは、「自己」の内面をいかに伝えるか、というところに工夫を凝らす。書きたいいろんなことを探ると、自分の内面に向かっちゃうし、それをなんとかして書こうと頑張るのである。

一方、「現代」とは、作品と受け手との関係をこそ、作品成立のツボとしてとりこむ、と勝手に仮定。

したがって、作家の内面の「伝達」ではなく、読者が作品を読む時に生じる「摩擦」のようなものが表現の方針をまかなう。つまり、「こんなこと考えてます」という叙情よりは、言葉同士のねじれや混乱をあえてとりこむ手配が、作家のチャレンジとなり、かつ内なる批評性を超克する方法となりうる。少なくともそう意識するのが「現代」。


山口優夢は、けっして「わかりやすい」回路で表現をしているわけではないが、内なる作家を、うちなる批評家が、ほどよく制御していて、その制御ぶりに一貫性が見いだされる点において「わかりやすい作家」である。

オリオンや眼鏡のそばに人眠る   山口優夢 「冬の一日」より

「冬の一日」10句は「現実の俗なるモノを読み込もうとする方針」に作家が素直にしたがう姿勢。

「女子高生かたまりにほふコートのまま」にあらわれるような「若い男のいじましさ」のようなものも、「そういうのも書けますよ」という近代的な知の為せる業であり、感情が先立っているようにも見えない。

掲出句は、眠る人のそばに眼鏡がある、のではなく「眼鏡のそばに人眠る」としたところで、作者の方針を簡潔に伝えている。特筆すべきは「オリオン」の扱い方。

「オリオン」これは、季を示す役割を与えられているようだが、それ以上に、「図形としてモノを見る視点」を提示している。その図形としての認識において、寝姿も眼鏡もひとしくモノとして描かれていますよ、という言わば「読者へのヒント」のように語が機能している。

作者の中でいったん知によって構築した世界を、読者に解読コードをも提示しながらまとめていく。

「意図したことは書くことが出来る」と構え、実際に語を配置していく点において、山口は、批評性がふくれあがったかたちに休戦ラインが設けられた、かつ、やや近代的な作家ということができるだろうか。

ぶっちゃけたいいかたで言えば、散文でかなりのところまで説明できるタイプの句のありようであり、こういう句は一般的にその手堅さとコンパクトさで評価が安定する。



手堅くもなく、コンパクトにもならなかったのは、彌榮浩樹である。

鶏頭や目玉飛び出すほど笑ふ   彌榮浩樹 「昼の鞄」より

「目玉飛び出すほど笑ふ」には、「眼鏡のそばに人眠る」のような構造的配慮は感じられない。いや、そうした配慮が作者に無い、というわけではない。作者のねらいは、そうした「意図」にあるのではなく、自分の意図をも揺り動かすような、俳句形式の持つ「語と語の衝突」にあるようだ。

「鶏頭」は、「オリオン」のように「読者へのヒント」としてではなく、むしろ読者の想像力を拡散させ受け手に応じた不安定な読みが可能であるような方向を指し示している。

二物一唱、というスロットマシーン的なことではなく、たとえば生理的な触覚、視覚的質感、鶏頭の先行句の余韻、そんなものをのみこんだ上で、意図しがたき関係性のあわいへと読者を誘う。こういう作業、かなりの批評性を身のうちに蓄えておかないと、思ったより語が飛ばない。内なるしたたかな批評家を後退させて休戦ラインをひき、作者は一句一句において語を飛ばして遊び。

かつ、読者をも遊ばせ、そして、じつはそうした読者の遊ぶ能動性をひきだすことをこそ、一句のツボとしている気配さえあって、その点が「現代」。

さるにても、こういうやりかたにおいては句ごとのバラツキが大きい。バントでも出塁、などという姿勢ではなく、三振上等、凡打も不要、という作風にも見えてしまう(実のところは、どの句にも緻密な計算があるようなのだが)。攝津幸彦を旗艦とする航跡が視界をよぎる。



告白や月は地球を離れつつ  寺澤一雄 「秋 九十九句」

「告白」は、「離れ」にたいして俳諧で言うところの付合的なあしらいか。

こうなると、もはや千本ノックのイキオイ。

手元で上げる球を、確実に打つ。

一見、個人の内面を伝えようなどという意図はうかがえず、また、語と語の関係をぶっ飛ばすリスクをとり込むこともなさそうである。

俳句形式に内在する運動性を十全に機能させるのが作家の役割であると覚悟しているかのような姿勢。

読者も、私的ヨミ方などと気取ってはいられず、作者読者双方が忘我の境地で俳句そのものに余念無く向かいあうことになりそうで。

作品と受け手の関係を再構築することが現代性であるということを広くとらえるならば、寺澤一雄は、この量の安打を一気に出すことで、かなり「現代」的な作家でありうるのかもしれないという気がしてきた。まして、それが、「週刊俳句」上であるわけで。




露虫に拭き込まれたる長廊下  武藤紀子 「ゲバラの忌」より

柘榴割れ飴呑み込んでしまひけり  柘植史子 「鎌鼬」より

膝立ちの乙女の脛や障子貼  清水良郎 「父の頭」より

橋の下で開く瞳孔秋気満つ  近 恵 「赤丸」より

オルガンで
狼送る
大晦日             久留島 元 「五十音図(抄)」より

黒のベレー探しに戻る枯木山   山口都茂女 「泊まつてけ」より

鰤の粗大根茹だる平和事     富沢巧巳 「魚の粗をしゃぶる会が詠む」より

蛇を食ふ女のショーや酉の市   高橋透水 「ぶらり・酉の市」より

隻腕の
   老袁笑ふ
 雪煙             矢野風狂子 「兎は逃げた」より

鍋焼きの北半球の禿げ頭     俳句飯 「つくりばな」より


彌榮浩樹 昼の鞄 10句  ≫読む
武藤紀子 ゲバラの忌 10句  ≫読む
柘植史子 鎌 鼬 10句  ≫読む
清水良郎 父の頭 10句  ≫読む
近 恵 赤丸 10句  ≫読む
久留島元 五十音図(抄) 10句  ≫読む
山口優夢 冬の一日 10句  ≫読む
寺澤一雄 秋 九十九句  ≫読む
山口都茂女 泊まつてけ 10句  ≫読む
〔投句作品〕
久乃代糸 肌ざわり ≫読む
富沢巧巳 魚の粗をしゃぶる会が詠む ≫読む
高橋透水 ぶらり・酉の市 ≫読む
矢野風狂子 兎は逃げた ≫読む
俳句飯  つくりばな ≫読む

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