2010-12-26

【週刊俳句時評 第22回】ローストチキンも踊るピーター・ガブリエル「スレッジハンマー」 関悦史

【週刊俳句時評 第22回】
ローストチキンも踊るピーター・ガブリエル「スレッジハンマー」

関悦史


毎度遅参でご迷惑をおかけしています。
本年最後の週俳時評です。

   

原稿到着までの仮題として『ローストチキンも踊るピーター・ガブリエル「スレッジハンマー」』なるわけのわからないタイトルが掲げてあったが、これは送稿が遅れる旨をさいばら天気さんに連絡したところ、仮題は天気さんの方で適当につけておいてくれるというのでお任せしたら、私のツイートから短いのを拾ってそのままタイトルにしてしまったというもの。よって本文の内容とは全然関係がない。関係がないがこのままにしておく。

   

角川『俳句』1月号が特別座談会「2011年の白地図――これからの俳句が進む道」を掲載している。出席者は宇多喜代子、筑紫磐井、片山由美子、小澤實。

小見出しを順に並べると、「私の俳句人生」「古今の若手特集」「俳人は大いに自然を詠もう」「文語俳句は残るのか」「旧仮名遣いは必要か」「季語はあとからついてくる」「「俳句甲子園」の役割」「結社を支えている人たち」「カルチャーセンターは「新しい座」」「もはやインターネットは排除できない」「句会がなくなるはずがない」「結社は学ぶ場」「主宰の魅力」「注目する俳人たち」となって、取り上げられた話題が概ねわかるが、意気阻喪したのが「もはやインターネットは排除できない」の部分。

片山 インターネット句会はどうですか。誰がやっているのかも分からない、覆面の人たちが集まって句を出し合う場合ですが。
まずインターネットと俳句が最もアクチュアルに関わる局面として「インターネット句会」が出てくるところに違和感がある。私も通信制の句会は経験しているがネット利用開始後も投句・清記・選句を連絡する手段が封書からEメールに替わって発送の手間と通信費が省けただけのことであり、相手は知人または知人の知人であって「誰がやっているのかも分からない、覆面の人たち」などが関わることはなかった。

去年、現代俳句協会青年部で「俳人とインターネット」というテーマで勉強会〔編註〕が持たれたが、そこでわかったのはネット利用者同士といってもその利用法、接し方は一人一人全く違うということだった。ツイッターは利用できてもそこでの発言をテーマ別に集積できるトゥギャッターの存在は知らなかったり、ホームページを作成できる技術のある人が「週刊俳句」内にブログ内検索用の小窓がついていることを知らなかったり、ブログはやっているがミクシィは未知、またはその逆等々無数のヴァリエーションがあり、使っているツールによって見ている光景が多少ずれていることがあるようだ。未知の人同士が匿名のままやっている句会というのも、私が知らないだけで2ちゃんねるあたりで行なわれてはいるのかもしれないが、今取り上げるべきはそこではないだろう。

以下は片山由美子の提起を受けての発言。
筑紫 そういうインターネット句会はやったことがないんです。実際、そういう場の作品は何も残らないんじゃないでしょうか。インターネット情報そのものはどんどん消滅していくから、そこに蓄積していくものはない。「句会でインターネットって、あまりメリットがないのではないか」と誰か若い人も言ってました。ただ、評論や句評を書く場としてインターネットはものすごく有効ですね。
宇多 誰かに宛てて?
筑紫 みんなに宛てる。
片山 不特定多数ですか。
筑紫 ええ。
宇多 それが分からないねえ。それで楽しいかなあ。
ありていに言ってしまえば「結社の時代」[1]以降の総合誌が俳句上達法ばかりを載せるようになり、上達法ではなく俳句に興味がある者にとってはあまり読むところがなくなってしまった後(私が俳句を読み始めた20年前頃からちょうど「結社の時代」に入ってしまったらしく、それ以前の俳句総合誌というのをリアルタイムでは見たことがないのだが)、その肩代わりをしているのが「週刊俳句」以後のインターネットなのだ。

論評やイベント記事が有志の手で枚数制限なく定期的に書かれるというだけではなく、ツイッターなどのツールが人との連絡、ことにお互い俳句に関心はあるもののまださほど親しくはないといった者同士を結びつかせるのに大きな力を発揮し、句会、ユニット、新雑誌を興す土台にもなっていることは周知のとおり。

筑紫磐井は自身が「―俳句空間―豈weekly」「俳句樹」等、ウェブマガジン形式のブログを使っての発信経験が豊富なことから、インターネットが俳句にとって重要なのはまず論評の場としてなのだと理解していて、宇多喜代子、片山由美子に説明するのだが、「誰かに褒められれば嬉しい。誰でもいいから褒めてくれればいいとか、そういう感じ(片山)」とか「手をだんだん使わなくなって、字が書けなくなる。電源がなければ何もできなくなる。砂漠の真ん中でどうやって俳句を書き留めるか」と実情無視の決め込みや、あらぬ想像に走られてしまい、なかなか理解されない(筑紫発言の中にも「インターネット情報そのものはどんどん消滅していくから、そこに蓄積していくものはない」とのやや疑問を感じる箇所がある。検索単語の選び方次第でかなり昔の記事を拾う経験もしばしばしているからだが、この辺はITに詳しい人にご教示いただきたい)。

私個人も機械音痴で90年代後半頃までは自分がパソコンを触ることなど終生あるまいと思っていたので、宇多喜代子、片山由美子の誤解や嫌悪・恐怖は理解できるが、俳人個々の認識不足はともかくとして、雑誌『俳句』の髙柳克弘による時評が先月12月号で終わってしまったことが惜しまれる。今年の『俳句年鑑』における筑紫磐井、高山れおなのような単発記事での言及もないわけではないものの、管見の限り、髙柳克弘の時評というのはインターネット上での意義ある動きを紙媒体にフィードバックし、読者に伝えることを自覚的に続けていたほとんど唯一の連載記事だったからで、その終了からは、井の中の総合誌に唯一外光を取り入れていた天窓が閉じてしまった印象を受けた。

付け足しで一言しておけば、インターネットが俳句そのものに与える変化は縦書き/横書きといった次元のことではなく、読まれ方/書かれ方において既に徐々に現れてきているのではないか。

私自身句集を読んでいて未知の単語があればグーグル検索をかけるし、逆に先日の角川俳句賞落選展におけるように拙作を他者が検索しながら読んでくれるケースも出てきている。一度見ただけでは到底消化しきれない情報量を詰め込んだアニメ作品『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年~1996年)が放映できてしまったのは、家庭用録画機器の普及というインフラ上の変化によるところが大きいだろう。俳句においても同種の影響関係は起こり得る。

座談会の話題中、定番中の定番ともいうべき「文語」「旧仮名」「結社」は全てフィギュール化に関わる問題なのだが、これについては別の機会に書きたい。

   

送稿を一日延ばしていたら、たまたまその間に『現代詩手帖』12月号「現代詩年鑑2011」が届いた。『現代詩手帖』の場合は『俳句』のように別冊ではなく、12月号が年鑑となるらしい。

「俳句逍遥」を連載している田中亜美がその12回目として今年の回顧記事「深度と速度」を書いている。「若手俳人の意欲的な活動」、相次いで発表された3種類の「ゼロ年代の俳句100選」から、高橋睦郎、眞鍋呉夫がそれぞれ俳文、連句という周縁的な領域から上げた成果、さらには虚子の「花鳥諷詠」を受け継ぐ星野高士、稲畑汀子の句集等を経て『超新撰21』刊行までを一気にまとめて、その全体をハイカイから影響を受けたリルケの引用で挟んだという、視野の広さとまさにその渦中にあるものの静かな興奮とがひたひたと押し寄せてくるような文章である。印象的なところを引く。
《ゼロ年代から10年代へ。〈静〉から〈動〉へ、俳句の時間はテンポをあげて動き出している。(中略)今後この詩型が、一世紀前の詩人の経験したのと同じような速度で、他者を揺さぶることができるのか。「たったこれだけなのです! 美しい!」と言わしめる深度を持てるのか、どうか。》
また、角川『俳句』6月号座談会における私の発言「やり尽くされた感じはしない」「まだまだできることはあると感じましたね」というのを不意に突きつけられて、曰く。
《それは楽観的ととられかねない〈明るさ〉である。だが、こうした突き抜けた楽観性こそが、有季や無季となどいった作句信条を超えて、現在、若手の俳人同士を結びつける力となっているのではないか。》
さらに髙柳克弘、高山れおな、上田信治のゼロ年代100句選について、「こうしたアンソロジーは、日頃からよほど関心を持っていないと短期間のうちに編纂できるものではない」とその〈速度〉に感応し、「無数に破砕された石の山から、小さな色石を探し出し、丹念にモザイク絵画を作り上げてゆく、あるいは星雲の中から、ひとつの星座を輪郭付けてゆく営為に似ている」選句と配置の作業の遠大さに思いを馳せて、今回の3種の100句選には徒労の気配が感じられないことを指摘しつつ曰く。
《この健やかさと明るさに俳句の〈未来〉が感じられる。それどころか、こうした編纂作業が一定の〈速度〉をともなって、自然発生的に盛り上がること自体、俳句という形式が未だ飽和しておらず、よい意味で発展途上の形式であることを示しているようだ。そもそもアンソロジーを編むことへの欲望は、そのジャンルへの大いなる信頼なしに生起するものではない。》
超新撰21竟宴の折に仄聞したところでは、この田中亜美の時評は大変な強行日程で書かれたものらしいが、それをも追い風に変えたような風圧のおかげで、こちらもともかくも本稿を休載にせず、遅れてでも何とか出す気力を与えられた。熱でいちいち寝ている場合ではない。

   

普段私は洋楽の歌詞は一切気に留めないで音だけ聴いているのだが、妙な経緯で仮題になったのを機にピーター・ガブリエル「スレッジハンマー」の歌詞を読んでみた。

基本的には求愛の歌のようで、「君の望むものになってあげる」という呼びかけが次第に「君の大ハンマーになりたい」との力動的なイメージに収斂していき、ともにリズムを楽しもうということになる。

今回は田中亜美が大ハンマーになってくれた格好となった。田中さんと連絡を取る際に利用する主な手段がメール(電子メール)なのだが、これもインターネットに包摂されるシステムであるらしい。

「ローストチキンも踊る」というのは、粘土アニメ方式で撮影された「スレッジハンマー」の凝ったプロモーションビデオの中盤に出てくるイメージである。映像作品としても面白いものなので、興味のある向きは動画サイトを参照されたい。
http://www.youtube.com/watch?v=N1tTN-b5KHg


[1]俳句樹: 長編・「結社の時代」とは何であったのか ・・・筑紫磐井 2010年10月10日

〔編註〕 小誌関連記事
幸せになれるって保証も約束もないんですよね 〔前篇〕
幸せになれるって保証も約束もないんですよね 〔後篇〕


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