2009-12-13

「俳人とインターネット」 レポート 幸せになれるって保証も約束もないんですよね さいばら天気

現代俳句協会青年部勉強会「俳人とインターネット」 レポート
幸せになれるって保証も約束もないんですよね 〔前篇〕
さいばら天気


2009年12月12日(土)14:00~
於:現代俳句協会分室(東京都文京区湯島)

※以下、敬称略。発言部分は報告者(さいばら)による要約。適宜換言かつ省略。
※必要に応じて付記(補足説明・私見)した部分には〔筆者註〕と記した。あくまで筆者(さいばら)の整理・把握・感想。
※参照記事リンクはすべて筆者(さいばら)による。


中村安伸による趣旨説明

インターネットの未来を薔薇色と捉える楽観論(正確な知識のない人ほどその傾向が見られる)の一方、悲観論、例えば、インターネットによって便利にはなったが、俳句そのものは変わらないとする諦念が表明されることも多い。

併せて、楽観論には、今後のコスト低下によってさらなる普及・日常化が進むという前提があり、一方、悲観論は、インフラ整備が進むとはいえ、コンテンツ(俳句と俳句的言説)は従来通りのまま不変であろうとする。

いずれの態度も根拠は薄く、事実は、その両極の中間にある。まずは現状を把握するところからスタートしたい。

そこで、小野裕三に全体展望を示してもらい、そののち実践面で、上田信治に「週刊俳句」を、、大畑等(現代俳句協会IT部長)に現代俳句協会ホームページの現状を紹介していただき、さらに私(中村安伸)が、最近の話題として、ツイッターその他を紹介する。


小野裕三による展望(概説)

俳句とインターネットに関する論考をこれまで3本、ものした。

インターネットという座は俳句を変えるのか?(2002年)
http://weekly-haiku.blogspot.com/2008/08/blog-post_8344.html
あえて〈俳句2.0〉と言ってみよう(2007年)
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/20.html
ネット/デジタル時代における俳句のストラテジー(2008年)
≫前編 http://weekly-haiku.blogspot.com/2008/08/blog-post_1772.html
≫後編 http://weekly-haiku.blogspot.com/2008/08/blog-post_24.html

〔筆者註〕小野裕三の3つの論考の意義は大きい。とりわけ最初の論考(2002年)は、当時、俳句とインターネットに関して、唯一の、まとまって意義のある論考とも言うべきもの。2008年は、直近の事情がよく網羅されている。

デジタル/ネットに関して個人使用。

BBS(電子掲示板)等を利用しての句会に10年ほど前から参加している(オープン、クローズドを問わず)。みずからのブログで句集評を書いたりもする。「週刊俳句」にも寄稿。

デジタルツール使用面では、実験的に、PDA(携帯情報端末、電子手帳)に俳句を書き込んでいたことがある。入力方法の変化が俳句に変化を及ぼすのか、といった関心から。コピー&ペースト、検索機能等、利便性があったが、あるときデータが飛ぶ(破損する)との事故により、その試みは中止。

デジタルの創作への影響については、それ以前、ワープロ登場の頃、さかんに議論が交わされた。すなわちキーボード入力で小説は変わるのか…等。小説家は「変わる」、評論家は「変わらない」が大まかな反応だった。



インターネット一般についての議論の現状として、①期待 ②脅威 ③疑問 ④悲観 の4側面を挙げる。

①期待

普及当初は過度の期待があった。インターネットがすべての問題を解決するといったたぐいの企業社会、産業界の楽観論。ニューエコノミー論(IT活用により調達・生産・在庫・販売等が最適化され、在庫循環=景気循環が消滅する、不景気は起きないとする説)はその一例。しかし、2000年頃にネットバブル崩壊。過度な期待はしぼむ。

ただし、新しい知、新しいライフスタイルを、インターネットがつくっていくとの期待は依然として存在する。

②脅威

例としてアメリカでは新聞社がつぎつぎと潰れ(ニューヨークタイムズは本社ビルを売却)、国営化論まで飛び出している。旧来メディアを破壊する悪者=インターネット。

③疑問 

期待と脅威が対立するなか、一方に、インターネットはほんとうに良質なものを生み出すのだろうかといった疑問も出てきた。一例として、Wikipediaがブリタニカ並みの正確性をもつ一方で、政治的テーマにおいては、極論に支配される等の問題を孕む。

④悲観

日本の場合、パブリック性の欠如が指摘される。例:2チャンネルの匿名性の問題(犯罪情報等も野放し)、SNS(mixi等ソーシャル・ネットワーク・サービス)の匿名(海外では実名での参加がもっぱら。日本は、さにあらず)等。

〔筆者註〕パブリック性の欠如を悲観の一側面とするこの部分には、補助線が要るかもしれない。インターネットにおける「集合知」(小野裕三の前掲論考でも再三、メリットとして指摘される)が、匿名によって、いわば「集合愚」に転化してしまう危険性もある。ただし、匿名のメリット・デメリットについては検討の余地が大きく、しばしばさかんに議論の俎上にのぼる。



俳句とインターネットに関して。

影響の範囲を考えるうえで、例えば、ネット世界から登場した新人俳人がいるか?と考えた場合、「いない」のではないか。言い換えれば、ネットに新人発掘機能があるか?という問題。既存の角川『俳句』が仮になくなったとき、角川俳句賞の代替がネット現れるかという問題。それについても、「ない」のではないか。

一方。

雑誌には「巻頭の俳句」という存在がある。ではインターネット俳句の「巻頭」とは何か? google検索(俳句等の複数語による検索)によって上位にヒットするコンテンツが「巻頭」的な作品となるとは限らない(ならない)。これは、インターネットと俳句の幸せな関係とは言えない。

〔筆者註〕インターネットには現実世界の秩序形成機能がないことは事実。googleを例示に使うのも適切だが(ネット世間では「グーグル先生」と呼ばれる。グーグルがネットの秩序つくりあげるという事実はある)、別の秩序形成の方法がないわけではない。⇒後述・上田信治による「週刊俳句」トップページについての説明。

インターネットによって新しい潮流が生まれているのか、という問いについては、大いに疑問。新聞社は潰れ、「巻頭にはふさわしくない」ような句ばかり残っていく、といった事態が招来されるかもしれない。



では、俳句以外の隣接ジャンルでは、どうなのか。試みに、「ネット 俳人」「ネット 歌人」「ネット 詩人」でそれぞれ検索してみると、「ネット 俳人」のヒット数が最も少なかった(ネット歌人」「ネット詩人」は「はてな」キーワードに登録済み、解説がある=存在として認知されている)。「ネット俳人」は存在しない。ネット短歌、ネット詩は市民権を得ているが、ネット俳句はさにあらず。



ネットにおいては2つの欲望が顕在化する。リッチ化とインタラクティブ化。詩を例に挙げれば、前者は、例えば文字が動いたり飾りがついたりといったビジュアル処理が付加される、後者は、例えば読者の反応(介入)によって文言が変化していく。ネット普及の当初においては、こうしたこと(TK:いわば「情報演出」?)にユーザーは夢中になったが、隆盛はせず、結局は定着しなかった。

このように、ネットの試みが不成功に終わるケースは少なくない。

そこで、書籍への注目へと回帰しする傾向がこのところ顕著(「本ってやっぱりいいよね」)。ネットでは情報が断片化してしまうため、世界観を押さえることができない(本との大きな違い)。



各ジャンルのネット上の試み
〔小説〕
■筒井康隆『朝のガスパール』(1991-92):パソコン通信を用い、読者がプロット構築に参加(⇒Wikipedia
■パスカル短編文学新人賞(1994-96):パソコン通信(ASAHI-NET)で募集
■ケータイ小説:大きなセールスを挙げた(2007年文芸書売上トップ3をケータイ小説が占める)、文学的価値について賛否両論
〔詩〕
■ネット詩爆撃プロジェクト(2002-):「ネット詩」の掲示板に、従来からの「リアル」詩人が計画的に詩を(大量に)書き込むイベント(⇒参照記事
※音楽(i-Pod、音楽配信ビジネス)、映画、漫画、政治分野(東浩紀「民主主義2.0)についての例示も。



まとめ:俳句がネットを利用するときの…

メリット1 流派や結社を超えて、俳人が交流
メリット2 新参者が俳句に触れやすい⇒裾野のひろがり

デメリット1 議論が深まらない(例:ネット句会では、リアル句会のような意見の応酬がない)
デメリット2 すぐれた作品が残りにくい <前掲「インターネット俳句の巻頭」

座として、インターネットは新しく、俳句は、古い(「座」としての先輩)。したがって、俳句がインターネットにさまざまなことを教示する立場にある。


上田信治による事例「週刊俳句」紹介

インターネットは、コスト低下というアドバンテージをもって、旧来のメディアを代替していく

例えば、情報ニュースサイトが新聞を代替、アマゾンや楽天は従来の店舗や通信販売を代替。このとき、大システムによるものとボランティアによるものとに大別される。

googleがこのたび発表した日本語変換システムは、20パーセント・ルール(労働時間の20パーセントは自分の好きなことに使っていい)によって生まれた。したがって無料提供。

鍵となるのは無料とボランティア。改良進歩はしばしばボランティア的な動きによって進展する。古くはリナックス(⇒Wikipedia)の根本精神は「人間は生存が保証され、正当に評価されると知れば、相当なことを成し遂げるものである」。

また、インターネットブラウザ「firefox」(インターネット・エクスプローラより「マシ」と言われている)は、非営利企業 Mozilla Foundation(モジラ基金)が支援するプロジェクトが開発したオープンソース(無償公開)。

俳句に関するメディアにおいて重要になってくるのは、ボランティア的なものによる代替。

そこで、俳句のメディアといえば、俳句総合誌、結社誌、同人誌、句集、句会。このうちあるものは、コストの引き下げとという要請からインターネットに代替されていくかもしれない。



「週刊俳句」。blogger(google提供)というブログサービスを用いている。

外観は、トップページが「雑誌の目次」形式。毎週のコンテンツ(のラインナップ)に、序列(読む順序)を付けている。
⇒前述・小野裕三・インターネットが「巻頭」を指示し得ない弱みを、トップページを設けることで解消。検索によっては生まれ得ない秩序をトップページに提示。

スタイル的には俳句総合誌を踏襲(諸記事の構造化)。「俳句総合誌ごっこ」をやらせてもらっている、とも言えるが、それをやりたいわけではない。毎週、マシな俳句とマシな文章を読みたいという気持ちでやっている。

俳句総合誌に取って代わろうという意思をもたないのは、運営メンバーの個性に起因するかもしれない。勇ましいことが好きではない人がたまたま集まった。オルタナティブ(もうひとつの選択肢)として存在すればいいという考え方。

音楽にしても出版にしても、大きな対象・多大な消費者と、多大なコスト(費用)・ベネフィット(収益)がバランスしている。俳句においては、これから先、愛好者の減少とボランテイアへの置き換えが起こると、俳句業界に入ってくるオカネ(収益)が先細りしていくことは確実。このまま行くと、俳句が、ジャーナリズム・出版の世界から脱落していくことを、私たちは目撃することになりそうだ。これは危機感として共有されるべきだが、かといって、誰がどうすべきといった性質のものではない。

「週刊俳句」に話を戻すと、作業は、最後のアップロードに30~60分。それまでに皆さんから原稿をいただいていて、あらかじめページ作成が進んでいる部分もあるが、おおかたの人が予想するよりも短い時間で作業は終わる。運営は現在4名がローテーションしているので、各個人の作業負担は、ボランティアで続けていける範囲に収まっている。

(各ページの簡単な紹介)

(10句作品の縦組み画像を紹介しつつ)これを作る作業がいちばん楽しい。テキストで10句をいただいたときより、ぐんと器量が上がる瞬間。文字に対するフェティシズムは、言葉に関わる人間に存在しないはずがない。ましてや、こんなに短い俳句において。「こうでなければいけない」というのは、行きすぎたフェティシズムではあるが。また、テキストデータによる情報流通に抵抗感のない人は増えているだろうが、「週刊俳句」の10句作品では、テキストによる流通と画像による提示を併用しているのが現状。



俳句総合誌(イコール俳壇であるところの)が、もし、なくなってしまった場合、俳句に人生を賭けるという選択が困難になってくる。俳句プロパーの編集者は存在しなくなる。

穂村弘が、短詩系文芸を碁・将棋のアナロジーで語っている。新聞が保護区のような存在。碁・将棋のパトロンは新聞社。それによってプロ棋士・プロ碁打ちが成り立っている。レジャー白書によると、将棋人口は700万人、俳句人口はさいばら天気による概算で100万から多くて300万人。この状況で、角川書店がどれくらい長くパトロネージュしていくか。そうそう長くはアテにできない。俳句総合誌のある部分は、「会社四季報」ならぬ「俳句四季報」のような存在となって生き延びるのかもしれない。


大畑等による「現代俳句協会ホームページ」の紹介

現代俳句協会ホームページは、従来のテキスト中心の見せ方から、現在、リニューアル中。

特徴として、足は遅い。「週刊俳句」のような速さ、例えば俳句総合誌ほか各種媒体をを横に貫いていく矢のような速さは、協会ホームページという性格上、むずかしい。

現代俳句協会の平均年齢が72歳。昨年は71歳だったので、若い層の入会がそれほどないということ。役員はそれ以上にクレイなので、インターネットはやらない。私へのクレームはほとんどないので、その意味ではありがたい(笑。ところが、地区の会長などから、「私の句が載っていない」などのクレームがやっと届くようになって、嬉しく思っている。事態が変わるのはゆっくりなので、現代俳句協会とインターネットの関わりも、5年、10年という長いスパンで見ていく必要がある。

現状では、非会員のほうがむしろホームページをよく見ておられるようだ。

インターネット一般では、BBS(電子掲示板)からブログにシフトしているようだが、現代俳句協会ホームページでは、BBSを運営。ネット句会も続けている。ネット句会参加者の年齢層も高い。65歳から71歳が中心。BBSでは、乱暴な書き込み、誹謗中傷をするいわゆる「荒らし」もいて、アクセス禁止の措置も一度講じた。そのほかもろもろ管理者側の苦労や困難は多い。

足の遅いホームページの一方に、日々の現実として、まるで大衆運動のようなBBS、ネット句会がある、そのあいだをどのよに埋めていくかが私の課題。


中村安伸による事例紹介:ツイッター、短歌・俳句の自動生成

twitter (≫Wikipedia)を実際の画面を示して紹介。140文字以内のツイートは、ミニブログとも捉えられる。俳句の投稿にツイッターを利用している人はまだそれほど多くない。ツイッター小説はさかん。

さかんになった要因のひとつが「ふぁぼったー」。評価を総合するシステムで、ツイッター小説の評判の目安が生まれた。



デジタル処理による「自動生成スクリプト」の例として、「板の間句会」と「星野しずるの犬猿短歌」を挙げる。

上記とは別に、文化庁メィア芸術祭応募作品(2006年)Project H.I.K.を挙げる。



以上で、パネラーのよる報告が終わり、オーディエンスも含めての討論に入った。各報告についての雑感、また討論のトピックについては次回に。

ひとこと、現時点で言っておけば、インターネットは素性の知れぬ「あばずれ」のようなところがある(フェミニズム的には大問題な言い方であること、お許しくださいね)。新しい体験をもたらしてくれるが、いやな思いもしそうだ。それが価値のある体験かどうかも落ち着いて考えてみると不明だ。品行方正な許嫁(いいなずけ)=旧来メディアとの折り合いも、まだよろしくない。

どの程度つきあうかによって、味わう思いも違う。どのくらい知っているのかによっても、相貌が変わってくる(俳人のネット利用は、童貞があばずれに立ち向かうかのようなウブな面がある)。

俳句がインタネットと幸せな関係(小野裕三発言)を結べるのか、どうか。次回、少しでも前向きな整理ができたらいいな、と思いつつ、今回はこれまで、と、させていただく。

(つづく)

0 comments: