2008-08-10

ネット/デジタル時代における俳句のストラテジー〔前篇〕 小野裕三

ネット/デジタル時代における俳句のストラテジー 〔前篇〕

小野裕三


『豆の木』第12号(2008年4月)より転載



0. 始めに ~ 本稿が意図するもの

新しいものが登場すると、いつの時代にもそれに対する無節操な礼賛と、同時に無節操な攻撃がついてまわる。おそらく、今の時代で言うなら〝インターネット〟というものがまさしくそのようなものに相当するだろう。文芸、もしくは俳句といった領域も決して例外ではない。多くの評論家や作家たちがインターネットに対する関心を広く口にしているし(評論家で言えば東浩紀氏、作家で言えば平野啓一郎氏などがまず思い浮かぶ)、雑誌『文學界』において「ケータイ小説」についての座談会を企画したのもつい先日のことだ。

俳句というジャンルにおいてもインターネットに対する関心は高まっている。それは、最近の総合誌などをいくつか見てみてもそうだ。インターネットと俳句。それはまさに、現代という時代を生きる我々が考えなくてはならないテーマになりつつあるのだ。

しかし、気をつけなくてはならないのは、繰り返すが無節操な礼賛と、それと同じくらいに無節操な攻撃だ。インターネットが俳句を大きく革新するのだという無根拠な楽観主義も、逆にインターネットが俳句を駄目にするのだという無根拠な守旧主義にも、同時に我々は距離を保つべきだろう。

大切なのは今起きていることの本質を理解し、そしてそれがもたらしうるプラスの要因とマイナスの要因を謙虚に見つめ、その上でプラスの要因がやはりあるとするなら、その方向に全体の流れをどのように誘導していくことできるのか、そのことを冷静かつ良心的に判断することだ。

過去、僕はインターネットと俳句というテーマでふたつの文章を書いている。それぞれ、「インターネットという<座>は俳句を変えるか」〔本号転載〕(『一粒』2002年6月号)、「あえて<俳句2.0>と言ってみよう」→参照(『碧』2007年5月号)という標題で発表されているが、前者はインターネットというよりもデジタル化による肉体性の変質(つまり、「手書き」を経ない文字入力≒創作)と俳句の関連について、という問題の側面が大きく、また後者については本質に迫る深い考察というよりもティム・オライリー氏等が唱える「Web2.0」を「集合知」や「ロングテール」をキーワードとして図式的に俳句に当てはめてみるとどのような可能性がありうるか、というやや導入論的な内容に過ぎなかった。

そこで今回、インターネットと俳句というテーマについて現状に考えられうる限りの総覧的な見取り図を作成しようと試みた。

視点はふたつある。ひとつには、「あえて<俳句2.0>と言ってみよう」で取り上げたような、インターネットが俳句について与える影響についてさらに考察を深めること(もっと言うなら、インターネットがもたらしうる〝新しい俳句〟の形があるとしたらそれはどのようなものなのか、きちんとした定義を与えること)。さらにもうひとつはその逆方向とでも言うか、俳句がインターネットという世界に与える影響はありえないのか、その可能性について吟味をすることである。

結論的所感から先に言ってしまえば、俳句が長い時間を作り上げてきたその諸作法が、意外にインターネットもしくはデジタル技術が産み出し始めた新しい時代の情報・コンテンツ産業の世界において示唆的な役割を果たしうる部分があるのではないか、と考えている。その理由の多くは、俳句という文芸がとにかく「短い」というこの一点から帰結するさまざまな作法を孕んでいるということに尽きる。



1. インターネットが俳句に与える影響


1-1. ネットが変える俳句の生態系(エコシステム)


 「あえて<俳句2.0>と言ってみよう」の中で僕が取り上げた俳句に起こりうるかも知れない革新とは、主に「集合知」と「ロングテール」というふたつのキーワードによって説明されていた。この文章のポイントを簡単に説明をしておくと、「集合知」とはインターネットが人々の知識を集合させ連携させることで新たな知を産み出しているという現象のことだが、もともと「座」の文芸とも呼ばれる俳句においてこのような「集合知」現象は面白い作用を及ぼしうるという視点であり、また「ロングテール」とはインターネットなどによってこれまでであれば注目されにくかったマニアックな商品なども売れるようになったという現象のことで、これもこれまでならば注目されにくかった作品や俳人を掘り出すことに役立ちうるのではないかという視点であった。

たぶんここで説いているようなことに大きな間違いはないと思う。それが大きな流れになるのかそうでないのかはともかくとしても、これまでのような結社の枠に捉われない俳句的知性・感性のあり方や、あるいは俳人たちの活動といったことは起きていくだろうし、現に起きつつある。だが、そのようなことはいわば表層的な現象に過ぎず、そのこと自体が俳句の質的変化を産み出すのかどうか、が本当は問われなくてはならない。

ここからはあくまで私見になるのだが、インターネットがもたらす最大の俳句の革新は、前衛派と伝統派といった対立の無化もしくは融合だと思う。

「大きな物語」などと呼ばれたものが十全に機能していた時代、そのような体制と反体制を巡る物語の代理戦争として季語や定型も素材にされた。と言い切ってしまうのにはもちろん語弊があるのだが、しかしそういった部分が少なからずあったことも事実なのだと思う。従って、季語や定型に主義や思想として反対である、という主張が登場した。これが、「新傾向」「新興俳句」「前衛俳句」といった系譜に連なるものだ、と雑駁を承知でここで定義してみる。

そのような代理戦争は、結果として俳句界全体の活性化には大いに役に立ったと思うのだが、しかし季語や定型という素晴らしい智恵を体制・反体制の代理戦争の具にしてしまうのはあまりにももったいない。

実際、「大きな物語」の終焉が言われるようになって久しく、伝統派・前衛派といった区分けも、主義や思想の対立というよりは、単に流派の違いに過ぎない、といった感が強くなってきているように、少なくとも僕には感じられる(そもそも、「前衛」などという言葉遣い自体が世の中一般として見ると既に死語であり、であるとすれば「前衛」という言葉は便宜的な分類という以上の思想性は既に持っていないと言ってもよいはずだ)。それもそのはず、代理戦争のそもそもの本体の戦争だった「大きな物語」が消滅したのだから、それは当然の帰結である。

伝統派・前衛派といった対立が主義・思想の対立から流儀・手法の対立に転化したのが現代の俳句状況であるとしよう。それは大きな時代状況の変化を反映したきわめて当然の転化である。ならば、我々にとっての新しい俳句とはまさにこの延長上にあるはずだ。そして実は、僕自身がインターネットが俳句に対して現在大きく影響を与えつつある側面のひとつと思っているものに、このような伝統派・前衛派といった相互の流れの間における浸透圧の高まりであり、結果として起こるそのような対立の無化や融合という現象がある。

伝統派・前衛派といった存在自体にそもそも意味がないと言っているのではない。むしろ逆で、そのような伝統派・前衛派のそれぞれの遺伝子を総合的に組み込んだ俳句の進化をそろそろ夢想してもよいのではないか、ということが言いたいのだ。その対立が思想や主義の対立でなく、流儀・手法の対立であるとするなら、そのことの純化に拘泥することにはあまり意味がない。むしろ、単純な手法や素材の問題と割り切って大胆に捌いたほうがいいのではないか。

そして、インターネットという場が、そもそも情報の偏りをなくし、その遍在化を促進する作用を持っていることは周知のとおりだ。あらゆる情報が、どんな人でも簡単にアクセスできるようになったことは多くの人の実感としてあるだろう。

実際、インターネットの世界における代表的な企業であるグーグル(検索エンジンが主なサービス)の企業理念は「世界の情報を組織化してユーザーが簡便に利用できるようにすること」にあるとされるが、それはインターネットが潜在的に持つ力を象徴している。つまり、インターネットはそもそもが〝情報の再整理〟を強力に進めていく力を内在している。

今までの情報分類をまっさらに戻し、それをユーザーの視点から整理しなおす力を持っている。そして、その作用は俳句にも働いている。その現れが、各結社もしくは流派といったものを超えていく浸透圧の加速化であり、より大きくは伝統派・前衛派といった対立を超えていく浸透圧の加速化である。念のために言い添えておくと、別に伝統・前衛の垣根を超えるということだけがその現象の核ではなく、要は俳句という言語世界における標準化圧力のようなものにドライブが掛かっているということでしかなく、その帰結としての伝統派・前衛派の無化や融合ということがあるに過ぎない。

余談ながら、このようなインターネットによる情報の遍在化は他の文芸においては、「リードオンリーのカルチャー」から「リード/ライトのカルチャー」への移行という形でまずは大きく顕在化している(なおこの図式は、インターネットにおける新しい著作権概念を提唱するローレンス・レッシグ氏がインターネットのもたらす変化を説明するためにしばしば用いるものである)。

つまり、これまで多くの文芸は読み手と書き手が分離していた。その意味では、近代マスメディアが産み出した「リードオンリーのカルチャー」の流れの中に、多くの文芸も巻き込まれていた。だが、今多くの文芸で起きていることは多くの読み手が書き手と化しつつある、つまり読み手と書き手の一致である(いや、場合によっては読み手でもない書き手もいるかも知れないが)。

そのような現象の延長に、最近注目されている「ケータイ小説」なども語られることがある。そのことの当否はともかくとしても、現在多くの文芸が直面しつつあるのはそのような〝読み手の書き手化〟に伴うさまざまな現象であると言えるだろう。

だが、俳句の場合はそもそもインターネット登場の遥か以前から読み手と書き手が基本的に一致していた。例えば小説などのように、〝自らは書かずに読むだけ〟などという人は、俳句の場合には極めて少ないはずだ。俳句はもともとが「リード/ライトのカルチャー」であることをその本質としていたのである。その理由の大部分は、単に俳句が「短い」ということである。短いがゆえに、書くのも発表するのも容易だからである。

ともあれ、であるがゆえに俳句の領域では他の文芸のような「リードオンリーのカルチャー」から「リード/ライトのカルチャー」への移行という問題を既にある意味で通り越し、言語世界における浸透圧の高まりと標準化(その帰結としての流儀の相互浸透)、という現象がホットな現象として起きているのである。

ここで誤解なきようにひとつ補足しておきたいが、このようなインターネットの機能による結社や流派を超えた浸透圧の高まりは、決して結社や師系といったものの価値を否定するものではまったくない。新しい技術や文化に対する紋切り型の批判のひとつに、そのようなものは〝心〟を伝えないといった類のものを必ず目にするが、インターネットに対する批判もやはり同様だ。

挙句には、インターネット発の俳句愛好者はそもそもマナーやルールが分かっていないといった批判まで出てくるが、文芸の発展をそのような瑣末な挙げ足取りに擦りかえるのは本質的ではない。僕が言いたいのは、結社や句会の効用は充分に認め、それを最大限に尊重しつつ、しかもそれにインターネットという技術を重ねることによって俳句にどのような可能性が産まれてくるのか(あるいは産まれてきうるのか)、そのことをきちんと見つめてみたいということだ。

ちなみに蛇足ながらもうひとつ付け加えておくと、インターネットをベースとした俳句に対する批判として〝縦書きでない〟ことを挙げる意見も聞くが、縦書きで配信されるウェブ・マガジンなどが別に存在しないわけではなく、俳句は縦書きが美しいという主張は理解できるにしても、インターネットに対する批判としてはやはり本質的ではない。


1-2. ありうべき〝ネット後の俳句〟

さて、それではそのようなインターネットによる浸透圧とその結果としての標準化の進んだ新しい俳句(それを、わかりやすく「俳句2.0」と呼んでみてもいいのだが)とは、一体どのようなものが想定されるのだろうか。ここから先は、私見というか、個人的に目指している方向性とも重なる部分でもあるので、あくまでひとつの参考意見ということで書いておく。

伝統派と前衛派の相互の浸透圧の高まりと、その帰結としての新しい俳句。それはまず、一番端的な事象としては季語や定型への接し方に現れるだろう。

季語や定型を、主義や思想として墨守することも、逆にそういうものとして否定することも、そこでは相応しくない態度である。そうではなく、季語や定型というものを最大限に尊重しつつ、しかし表現したい内容や素材によっては臨機応変に無季や自由律も採用するという態度こそが俳句の未来にとっては相応しいと僕は考える。

要は、季語や定型を全面的に採用するかそれとも全面的に否定するかという二者択一的な、その表現者の思想性もしくは作家性の〝踏み絵〟となるような問題ではなく、手法の問題としてニュートラルに捉えるべきだろう、ということだ(そして、そのような季語や定型への接し方は決して季語もしくは俳句の本質にも大きくは外れていないと思う)。

季語や定型を「大きな物語」の代理戦争の具とすることは止めて、もっとその本質を見るべきだし、インターネットによる俳句世界での浸透圧の高まりは、そのような状況を自然なものとする素地を準備しつつあるように(希望的観測かも知れないが)感じる。

そして、そのように季語や定型についてだけでなく、もっと内容的な変質もインターネットはもたらしうるのではないかとも考えている。これもかなり私見になるのだが、伝統派と前衛派といったときの本質的な差異は季語や定型といったルール的な問題を抜きにすると、具象性と抽象性に対するアプローチの違いにあると言えるだろう。

雑駁な定義であることを承知の上であえて説明すると、伝統派は具象性を突き詰める中でその最後の一皮みたいな地点において抽象性にアプローチしようとする手法であるのに対して、前衛派は最初から抽象性を見据えてそこに至るショートカットを手法上で模索する(その結果として具象性が手法として出てくる)手法である、と位置づけてみる。

要するに、抽象性と具象性のバランスの問題で、伝統派はきわめて意識的に具象性を目指して進んでいく(その結果として良質な作品においては抽象性が最終段階で浮上する)のに対して、前衛派は最初から抽象性に接近することにきわめて意識的であるということだ。

ただ、この説明でもお分かりと思うが、要するにやっていることはそんなに変わらないのである。具象性を経てある抽象性に至る、そこに詩性を求めるという方法論は結果的に伝統派も前衛派も大差はなく(いや、そもそもあらゆる芸術は本質的にはすべてそのようなものであるはずなのだが)、要は最初の意識の置き方が具象性のほうに寄っているか、あるいは抽象性のほうに寄っているかという違いがあるに過ぎない。

そして今、そのような伝統派と前衛派の浸透圧がインターネットという技術によって加速されている。とすれば起きることはただひとつ、具象性を経て抽象性という詩性に至る方法論の標準化、である。

ただし、あるいは見る人によってはそれは標準化と言うよりは方法論の刷新にも見えるかも知れない。伝統派の人から見れば、具象性の上に抽象性がそのままどさりと乗っかっているような畸形的な句に見えるかも知れないし、前衛派の人から見れば詩的純化を欠いたアンバランスな具象性の句とも見えるかも知れない。要するに、どちらからも少しずつ中途半端というか余所者に見えてしまう可能性はある。

だが、伝統派が培ってきた具象性にアプローチする知恵と、前衛派が培ってきた抽象性にアプローチする知恵、それはどちらも俳句界の大きな財産だ。その二つの泉から宝を汲むことが、今、インターネットという技術を手にした我々に許されているのだとしよう。であるとするならば、それを俳句の革新に繋げていくことは我々の世代の責務でもあるのかも知れない。


(次号に続く)



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