2009-12-20

現代俳句協会青年部勉強会「俳人とインターネット」 レポート〔後篇〕 さいばら天気

現代俳句協会青年部勉強会「俳人とインターネット」 レポート
幸せになれるって保証も約束もないんですよね 〔後篇〕

さいばら天気



2009年12月12日(土)14:00~
於:現代俳句協会分室(東京都文京区湯島)

※以下、敬称略。発言部分は報告者(さいばら)による要約。適宜換言かつ省略。
※参照記事リンクはすべて筆者(さいばら)による。



まず前回の補足をすこし。

中村安伸から「俳人のインターネット利用の実際」について概説があった。「少数者間のコミュニケーション、クローズドな情報発信」として、eメール(非リアルタイム)、チャット、skype(リアルタイム)、mixiなどSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)を挙げ、「オープンな情報発信」として、個人ブログ、個人サイト、団体(協会、結社等)によるサイトや掲示板、ウェブ・マガジン、ミニブログ(ツイッター)を挙げた。さらに、最近のトピックとしてセカイカメラ(⇒wikipedia)を紹介した。

私(さいばら)なりに整理すれば、俳人のネット利用は、井戸端系(BBS等)と情報発信系(個人・団体サイト、ブログ、ウェブマガジン等)に大別できる。

情報発信系で代表的なサイトは「増殖する俳句歳時記」。1996年の先駆的スタートから現在に至るまで、大きな存在感を維持している。併せてデータベース(例:大型俳句検索)も古くから俳人の利便に供してきた。

協会・結社のインフォーメーションをもっぱらの目的としたサイトは古くからあるが、存在感は薄い。

一方、草の根では、井戸端系が先行した。BBS(電子掲示板)に句を書き込んでいくサイトが活況となり、情報発信系(とりわけ個人)が活発となるのは、ブログ登場(2004年頃)以降である。



さて、今回の本題、討論部分。

およそ1時間の質疑・討論では、さまざまな話題がのぼったが、ここではそれらを逐一報告することはせず、重要なトピックを抜いて、紹介したい。

※以降、地の文は筆者(さいばら)の言。
※念のため付記しておけば、レポートにまとめると、いかにも鹿爪らしいが、実際には「爆笑シーン」も多かった。そのいちいちに「(笑)マーク」を付していない。随所に笑いが起こり、終始なごやか・ほがらかな討論であった。


新しいもの・新しい読者の誕生

小野裕三による「俳句とインターネット」、さらにはインターネット一般の現況俯瞰には、可能性と不可能性が並置された。そこをさらに詰めていく方向へと、議論が向かった。
上田信治 小野さんにお訊きしたい。インターネットから新しいものが生まれる可能性について、どのくらい値踏みされているか。

小野裕三 どうなんでしょうか。さきほど中村安伸さんのお話に「自動生成」がありましたが、語彙をインターネットから大量に集めてくるシステムならおもしろいかもしれない(google日本語入力のように)。可能性がないことはないが、なんともわからないところ。他のジャンルでも、彗星のごとく新人が現れたということはない。

上田 ケータイ小説の例を小野さんから聞き、ハッと思ったのですが、あれも、プロのボランティアによる代替だ。村の語り部みたいなところがあって、身の回りの人に自分の経験を伝えるという…。ただ、既存の読者とは違う新しい読者が生まれた。俳句の場合も、まったく別の新しい読者が現れる可能性はあるのでは?

小野 はい。「いつか俳句と呼ばれるもの」とでもいうべき俳句が生まれる可能性はある。今は誰も俳句とは思っていない20音足らずの言葉を、インターネットのどこかで誰かが発している。それが10年後、20年後には「俳句」と呼ばれるかもしれない。

上田 新しい読者を得て生まれるものは、たぶん「下」のほうから来る。短歌の場合、桝野浩一さんや穂村弘さんのような才能のある人がいた。俳句に、そういう人たちがいれば、「下流俳句」のようなものが生まれるかもしれない。

小野 それこそツイッターとかでウニャウニャやっているうちに。

上田 あれは開けても開けてもつまらないですけどね。

大畑等 どこかで編集者のような存在が必要だ。俳壇に替わるもの、出版社に替わるものがまとめていかないといけないでしょう。

上田 問題は審査がないところですね。

小野 掬い上げるものがなければ、生まれたものが「いつか俳句と呼ばれるもの」にならないままになる。情報量はあまりにも厖大。インターネット上の「巻頭」に何かを持ってくる人が必要。

上田 大衆とジャーナリズムのあいだを架橋するタイプの才能ということですね。
インターネットという新しい場があり、利用者が新しいツールを手にするわけだから、新しい何かが生まれる可能性がないわけではない。問題は、どこかで生まれたもの、巻き起こった動きのなかから、どのように価値を発見し、すくい上げるか。
山口優夢 評価機能という面で、人なのかシステムなのかという問題がある。虚子のような一人の選者か、評価機能をもったシステムなのか。2つの方法がある。
小野 俳句に限らず、良い情報をどう残していくかは、インターネットの大問題。おっしゃるように1つの方法は、googleをもっと精緻にしたようなシステム。ただ、その解法はまだ得られていない。したがって、誰か人が介在する方法。それが誰なのか、稲畑汀子なのか金子兜太なのか、わからないが、人がやるほうが現実的なのではないかという気がしている。人の「知恵」のようなものがないとダメなのではないか。

さいばら天気 インターネットの場合、人が介在するのは、むしろ非現実的だと思う。情報量の厖大さ、また、どこに現れるかわからないことを考えれば…。現実の世界では、人が選別機能を占有しているようでいて、そうではなく、例えば句会などの「場」が選別機能を果たしていたりする。インターネットに、それにあたるものができないものか。

小野 例えば、現実にある句会をそのままインターネットに持ってきても、選別という意味ではきっとうまく機能しない。「民主主義2.0」の話をしたが、「句会2.0」のようなものが必要。

さいばら 評判情報ということだと思う。中村さんのお話の「ふぁぼったー」にもつながる。

中村 「ふぁぼったー」にも公平性という点で問題は多い。

さいばら はっきり優劣をつけるのではないので、公平性の問題には目をつぶることもできる。ふわっと曖昧に評判の状態がわかればいい。

小野 評判情報で良い句を選ぶという手法は、句会の高点句が良い句とは限らないのと同じ道理で、うまく行かない。

さいばら 評判のいかんを優劣に結びつける必要はない。

上田 インターネット独自の評価ができるとか、「インターネットは外の世界(現実世界)の価値観に侵されないユートピアなんだ」という考えはルサンチマンに過ぎない。これからは結社誌や同人誌がインターネットに出てきて、ふつうに、俳壇の評判がインターネットの世界に載っかるということだと思う。そこにいる重要な人が例えば1000人だとしたら、「もうみんな顔見知り」ということになる。

人かシステムか、について、結論的には、議論は拡散に向かった。

さいばらの発言は「人」の介在に不可能性というより「限界」を感じたもので、やや議論の紛糾を招いた感がある。「人とシステムの双方による」との一般論にも落ち着きそうだが、リアル世界に既存の価値観から切り離されて、「新しい」「インターネット俳句」が誕生するという「サイバー的幻想」に否定的な点は、上田をはじめ、ほぼ全員が了解したところではないか。

議論の拡散は、しかし、新しい何かという「いまだ何かわらかむもの」についての議論である以上、致し方のないところがある。何かをすくい上げることの困難が確認されただけで、稔りはあると解すべきだろう。


「週刊俳句」はインターネット的ではない

評価機能という課題と、直接ではなく緩くつながりつつ、「週刊俳句」も話題にのぼった。
田島健一 「週刊俳句」は「誰でも書いてください」というスタンスだが、なかには「週刊俳句に載せてもらっちゃいました」と喜ぶ人がいるのでは?
簡単に言えば、「週刊俳句」に掲載されることをステータスと感じる向きがあること、その結果、「週刊俳句」がなんらかの権威となりつつある、あるいは将来、なり得るのではないかという田島の指摘に、運営者として、上田とさいばらは、「ならないように気をつける。工夫をする。運営者の課題のひとつ」と答えるしかなかった。

権威、っていっても、そんなもの、あるのかね? 将来もそうはならないでしょ、というのが私(さいばら)の気分だが、江渡華子が「週刊俳句賞」を挙げ、運営者の意図との齟齬を指摘するに対しては、「痛いところを突く」(さいばら)、「それはその、見せ方を工夫するとか、ふだんの賞で見ない顔ぶれの本気の作品を見られるじゃないですか」(上田)等、やや説得力を欠いた説明。ただ、現実には、まだ二度きり、突発的にイベントとして持ち上がった週刊俳句賞」は、週俳のアキレス腱とは、まだ言えない、というのが、私の見方。

さらに、「権威」という二文字をどう捉えるかも微妙なところ。
関悦史 評価の混乱状態という側面がある。アマゾンのレビューに近い混乱。権威をなくそうというのはいいが、権威がなくなると同時に、価値判断がなくなることにはならないか。
アマゾンのレビュー(書評)は、良心的で公平で良質なレビュー、単なる宣伝(サクラ)、対立の不毛(信者の★5つvs敵愾の★1つ)などが渾然となっている。

リアルの俳句世間では、主宰、有力作家が「目利き」としての機能を持つ。ネット上で、そうした「権威」を排除するとなると、評価の混沌を招くとする把握は、現実的で、的確に違いない。

先の田島の「週刊俳句」への言及は、週刊俳句に限らずネット上の個別メディアが、意図のいかんにかわらず選別機能を持ち、権威化する流れを言ったものだろう。だが、それにしても、ネットはリアルから遠く隔たるわけではない。リアルとネットは(俳句の場合、特に)地続きなのだ。
関 俳句総合誌と「週刊俳句」は相互補完的な関係にあると思うが、「週刊俳句」が権威を持たずに、ある程度価値のある批評的言説を載せようとすれば、旧来の活字の側で有名な書き手を持ってこざるを得ない。ネットの中だけで新しい価値観が創出されることについて、私はあまり期待していない。
評価・選別機能にとどまらず、リアルと切り離されて、ネット・オリジナルの批評、言説、さらには俳句作品が生まれるという事態は、どこかですでに起きているかもしれないが、それは「週刊俳句」には当てはまらない。

小川軽舟が「インターネットと俳句の『場』」(『俳句年鑑2008年版』巻頭提言)において、「週刊俳句」を「俳句において出来上がった秩序とその外に生まれた新しい動きとの交差点のような「場」を指向しているのだろう」と捉えたとおり、週俳は、リアルとネットの結節点のような場所にある。

言い換えれば、週俳は、インターネット的ではない。リアルの価値を(良く言えば)尊重し、(悪く言えば)利用している(例:有力作家・有名作家への依頼等)。匿名性を排除する方針(ハンドルネームによる寄稿は原則として認めず)から言っても、週俳は「非・インターネット」的だ。


運動体としてのメディア:明治と現在

橋本直は、メデアィ論としてラディカルな視点を提示した。
橋本直 正岡子規が旧派の宗匠を潰したとき、子規たちは、最初から権威だったわけではなく、新聞メディアの広がりに乗っかったかたち。状況としては、インターネットが広がっていくのと似ている。当時、ホトトギスがあった一方に、帝国文学(→コトバンク)もあり、旧来の権威もあった。
新聞に子規が何かを書く。すると全国各地で同人誌が多数出てくる。一気に広がっていく状況。活字とネットは時間に差があるが、それを除けば、それほど変わらない。広がったのちに子規に集約された感があるようでいて、数で言うと、旧派宗匠系の作品のほうが圧倒的に多かった。

紙媒体とインターネットで、スピードは違うが、事情は変わらないのでは? 明治のあの頃を思い、翻って、いま、何があるだろうと考えたとき、今日のこの話し合いの中では思ったほどは出てこなかった。
この点については、小川軽舟・前掲「インターネットと俳句の『場』」に次の記述がある。
(…)そもそも、俳句の近代化をもたらした正岡子規の俳句革新はなぜ成功したのか。当時の旧派の勢力に比べれば、子規派など物の数ではない。それなのに旧派を圧倒することになったのは、新聞という新しいメディアを押さえたからではなかったか。また、高浜虚子がその後の俳句の世界をリードできたのは、雑誌という近代的媒体において、「一流性」と「一般性」を包含する結社という新しいモデルを開発したからではなかったか。
「一流性」と「一般性」。ここがキモだろう。現状を眺めるに、結社/結社誌は、「一流性」はともかく「一般性」には疑問がつく。インターネットは、「一般性」に大きな可能性を秘めているが、「一流性」を担保する仕掛けも動きも不十分である(冒頭の話題、審査機能)。

だが、だからといって、「一流性」と「一般性」の実現のために、リアルの「一流」をネット上の「一般」へと押し広げるやり方(川上から川下へ)は、つまらない。少なくとも「新しいもの」ではない。上田が言ったように、新しいものは、下流(川下)から生まれるだろう。

ちなみに、筑紫磐井「俳句ジャーナリズム」(『俳句の広がり』俳句教養講座第三巻・角川学芸出版2009年11月)は、新聞「日本」と正岡子規から、俳句総合誌「俳句研究」「俳句」の戦後まで、俳句ジャーナリズムの変遷を追うが、そこには当然のように、インターネット・メディアについての記述はない。未来に書かれる俳句ジャーナリズム史、俳句メディア史に、インターネットがどのように位置づけられるかが興味深い。付言すれば、『俳句の広がり』と題するこの巻全体にもインターネットについての記述はない。インターネットはいまだ「広がり」の外部にある存在なのだ。



以上、印象に残った議論を、説明を補いながら紹介したが、ほかにも興味深い発言が多数あった。断章として挙げておく。


「情報発信」はすでに過剰
四ッ谷龍 今日の話は、どうやってコミュニケーションを活発化させるかということを問題としていると思うのだが、私の場合、この数年作った俳句をどこにも発表しないという状況が続いている。暴論とわかっていて言うのだが、「自分の俳句をそう簡単には他人に読ませてやらないぞ」という気持ちがある。これだけ俳句についての情報があふれかえっている時代に、「情報を発信しない」という考え方があっていいのではないか。こう言うと、たいてい「俳句は人に読まれてはじめて価値があるんでしょう」という正論を返されるのだが(笑)。勧めもあって近々句集を出す予定だが、そうたくさん印刷しなくてもいいかなあという思いがある。

評価も「自動生成」的なものへ?
田島健一 さきほど「自動生成」の話があったが、評価そのものが自動生成できるようになるのではないか。ねずみの脳に電極をつないで、どこにどう刺激を与えたら右に曲がるか左に曲がるかがわかる。俳句の評価も、どんどん科学的になれば、自動化される。その可能性は? その先に何が残るかという議論がある。そこまで行かない?(笑

優夢 作るのは機械でできても、評価の主体は人間ではないと、評価の意味がなくなる。

上田 所詮はエンターテインメントの世界なので、受け取る側に何を起こすかが問題。そうした人間不要論は、隠されたラッダイズム(⇒wikipedia)なのではないか。

田島 人間不要ではなく、突き詰めると、脳の電流ということになったりはしないか。

さいばら 鼠も機械も句集は買わない(笑。評価が最終目標ではなくて、読む喜びのようなもの、それを得るためのツールが「評価」と捉えたい。

ネット短歌=先進、ネット俳句=後進
上田 短歌はインターネット先進。

中村 ツイッターを見ると、短歌はおもしろく、俳句はつまらない。その違いは?

関 ネット上の人口が、俳句より短歌のほうが多い。

上田 作家がいたから、という部分は大きい。スタイルが練られてきている。

さいばら 短歌には語りとの連続性があるのでは? 俳句は語りと不連続をつくって一句となる。かつてBBSでのおしゃべりが、歌人は饒舌、俳人は寡黙という傾向があった。

オープンとクローズド
上田 ネット上の俳人は、広がったとはいえ、いまだ閉じた世界の感がある。どこまで行っても顔の見えるSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)。

四ッ谷 サイト開設の当初、せっかくのインターネットなのだから日本だけでは面白くないと、日本語、英語、フランス語の3言語で作った、すると海外からたくさんのメールが来て、それがきっかけで実現したプロジェクトもある。


現代俳句協会青年部による今回の勉強会「俳人とインターネット」が、現状の概観(ネットではこんなことになってますよ)や小手先の方法論(こうすれば、みんな見てくれる等)に堕することなく、(紛糾・混乱・拡散はあっても)ラディカルな課題に手を伸ばせたのは、進行の中村安伸をはじめてパネラー諸氏の功績である。

ここを議論の出発点として、多様な場で、多彩に論じられていくことに、大きな期待を抱いている。

( 了 )


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