〔超新撰21を読む〕
季語と状況季感
榮 猿丸の一句……中西夕紀
ダウンジャケット継目に羽毛吹かれをり 榮 猿丸(以下同)
ダウンジャケットの継ぎ目からはみだした1枚の羽毛に焦点をあわせ、現代人の寂しさを表しているように思うのだが。ダウンジャケットは女性でも男性でもどちらにでも当てはまるところだが、女性より男性のこととするとその寂しさが際立つように思える。飛び出た羽毛を取りもしないで、吹かれるままにしている彼は、無為の人であろうか。或るいは作者自身ともとれるが、吹かれている1枚の羽毛の発見は、作者自身の無為へと連想を広げさせるものであるから、第3者のものとしたい。
この場合ダウンジャケットが季語なのだが、ジャケットという季語としての季感より、「羽毛吹かれをり」に寒さがより出ているところに着目したい。
もう一句、
M列六番冬着の膝を越えて座る
劇場の座席である。すでに席は埋まって難儀してわが席にたどりついたようである。座っている人に対して後ろ向きに進めば難なく進めるものを、座っている人に向き合って進んで行った模様である。これでは足が絡まる。「越える」には長い脚で跨いだような連想をさせるところがある。六番という番号は、五人の前を通った困難さが窺えるし、五人の中で、彼が跨いだ相手は男性だったであろうから、迷惑そうな顔とぶつかったであろうことも連想させる。要するにカッコ悪くやれやれと座ったわけだ。カッコ悪いと思うのが若い証拠なのである。年齢がいくとこんなもんだとカッコ悪いのも肯定的になるものなのだ。
この冬着であるが、膝の上に畳んだコートだろうか。あるいは厚手のズボンか。先ほどのダウンジャケットのようには、はっきりものが見えてこないところがある。一方で、冬着の相手を越えてのだとすると、こちらも着膨れているのではないかと連想させる。
そこから、お互いの窮屈さは出ているようである。
使っている季語が直接に季語として働いているというより、一つの状況として把握した時、その状況が連想させるものが季節感を出しているようである。
そして、こんな男性確かに見たことあるなあと思わせるところが楽しい二句なのである。そして、そんな時の当事者の気持ちを考えるのも面白い。
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2011-01-30
〔超新撰21を読む〕 榮 猿丸の一句 中西夕紀
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