スズキさん
第23回 ジョニー
中嶋憲武
年の瀬も押し詰まって仕事納めの日となった。
例年暮れの29日に大掃除をするのだが、今年は28日に大掃除を済ますことが出来た。あとで集金に来た菓子箱を作っている職人の話では、どこでも1日前倒しで大掃除をしているという。それだけ仕事が無く不景気だということだ。
俺は印刷も大掃除も終ってしまったので、今日は朝からスズキさんに付いて配達を手伝うように指示されていた。スズキさんに菓子箱をいくつ積むのか聞きに行くと、車庫の前に立っていたスズキさんは配達の前に車洗うからねと言った。納品に使われているミニバンは、そういえば洗っているところを見たことがない。ガソリンスタンドでも滅多に洗わない。今年のような時間のある年末ででもなければ出来ないことなのかもしれない。
倉庫兼用の車庫の出口に近いところにある戸棚を、ここに長いホースがあったはずなんだけどねとスズキさんがごそごそやっている間、俺はバケツに水を汲み雑巾として使われている汚れたタオルをゆすいだ。水が思いのほか冷たく、先日灯油缶の縁で切った親指の傷が沁みた。ないなあとスズキさんがもそもそしているので、一緒に戸棚の段ボールを探すと底の方に青くとぐろを巻くホースがあった。ホースを散水栓の蛇口につなぎ洗車に取りかかろうとすると、向かいの社長の自宅から社長が出てきて、ナカジマ、これでやれよとケルヒャーの高圧洗浄機を示すので、俺はそそくさと青いホースをごめんね働けなくてともとの段ボールに押し込み、そのスマートな洗浄機を手にした。
トリガーを引くとノズルから勢いよく水が噴射された。高圧の水で車体の汚れが忽ち落ちてゆくようだった。水を掛け終わったところから、スズキさんが襤褸で拭いてゆく。車体を洗い終えると、車内の椅子を倒して掃除した。細かいところも拭き終わり、こんなもんかなとスズキさんが言ったのを汐に掃除を切り上げ、スズキさんとふたりでしばしシルバーメタリックのボディを見ていた。
すっかり身ぎれいになった車は、エンジンの調子も良いように思えた。
納品の菓子箱を満載したバンに乗り、スズキさんと伝法院の横町へ差し掛かった。
「あれ、なんだろね」とスズキさんが言うので、前方を見てみると、A4判ほどの大きさのパウチされたチラシを、道路にサークル状に置き、その真ん中に大きな男と小さな男が立っている。魔方陣のなかのメフィストと悪魔くんのごときである。人ごみのなかを粛々と近づき、地面にばら撒かれたチラシを見てみると、ポップな書体の文章が散りばめられ、500円という文字が見えた。
「なんか商売してますね」と言うと、スズキさんは「ここは商売いけないんだけどなあ」と言った。その魔方陣は、歩道をはみ出し、年の瀬の往来の人々もいつにも増して多く、なかなか車を進める事が出来ない。魔方陣の男たちは、早くどけよという視線を投げかけ、不躾にこちらを見ている。「警察につかまるぞ」と言いながらスズキさんは、胸の前で両手でバッテンを作ると、男たちにかざして見せた。そこは駄目だよ、駄目、と言うふうにバッテンを2、3度振って見せたが、男たちの不躾な視線は動じない。「通じないみたいっすね」「あっちの人かな」「いや、日本人でしょう」そんな事を話しつつ、ゆるゆると車を進め魔方陣を通過する。仲見世に並んだ店の裏の細い路地へ、いつものように入って行く。団体旅行客がのんびりと歩いていて、すこぶる剣呑である。
納品が終るといつもは浅草寺に突き当たりそこから右へ折れるのだが、右へ折れたところに笠木シズ子の曲をひっきりなしに流している甘味処がある。その店の前はたくさんの人だかりがしていて、通るのにひと苦労しているので、この暮れの人出からすると今日あたりはとても難儀することが充分予想される。スズキさんは車を後退させて元来た道を引き返すことにした。俺は車のうしろに立ち、スズキさんを誘導した。路地の出口まで来ると、最前の男たちのところに人だかりがしているのが見えた。助手席に着き、ゆるゆると車は進む。
「なに売ってるんすかね」
「ずいぶん集まってるね」
窓から見ると、売られているのは5センチほどのぺらぺらの紙の人形だった。その人形には見覚えがあった。スズキさんがその人形をちらりとフロントグラス越しに見遣ったとき、かすかな悔いのような色が浮かんだ。
もうあれは10年ほども前だろうか。銀座を歩いていたときのことだ。南米系と見える男がくだんの人形を売っていたのだ。その男は人形をジョニーと呼んでいた。ジョニーはあなたの言うことならなんでも聞きます。ジョニー飛べと男が言うと、ジョニーは3センチほどぴょんと飛んだ。座れと言うとジョニーの足は紐ででも出来ているのか、膝を折って座った。男は些か興奮気味に声高になっていた。ジョニー、飛べ。ジョニーは20センチほどジャンプした。紙の人形が飛んだり跳ねたりしている。俺は喫驚した。手品なのか魔術なのか。幾人も周りを取り囲んでその見せ物をみていた。周りの人も及び腰で、どこへ顔を片付けていいのか分からないような風情だ。しばらくその不思議な人形に見取れていたが、なんか種があるのだろうと思い、目を凝らしてみたがなにも見えない。上から吊っているのだろうと思うが、そんな糸も見えない。片言の男はいよいよ興奮したさまで、ジョニーはあなたの言うことならなんでも聞きます、ジョニー飛べと繰り返し、ジョニーはぴょんぴょん飛んでいる。俺は人の輪からすこし離れてみた。すると取り巻いている群衆の端に立っている一人の女が目に止まった。女は下に垂らしたひとさし指をごく僅かにではあるが、くいっくいっという調子で動かしていた。男がジョニーに命令するたびに指を動かす。女のひとさし指に細いピアノ線のようなものが括り点けられていて、ジョニーと連結しているのだ。周りの人たちはその女に気づかず、小さな紙の人形に集中している。ひとりがジョニーを買うと吊られるように幾人かが買った。
「買っちゃったんだよ」
「そうだったんすか」
「やられたね」
「一見、まったく不思議ですよね」
「そうなんだよ。グルだったんだね」
「サクラも何人かいたんじゃないすか」
「畳の上でも出来ますかなんて聞いちゃったよ。充分出来ますだって」スズキさんは苦虫を噛み潰したような表情をした。後ろを見ると小さい方の男の姿が見えない。おおかた見物人に紛れてテグスを操っているのだろう。
伝法院の横町を出て大通りに入り、きれいになった車はすいすいと走り鴬谷を抜けた。日暮里へ向かうのだと言う。スズキさんは細い道をよく知っている。小道をくねくねと行くと夕焼けだんだんの上に出た。ちょっと待っててねと言うとスズキさんは、包装紙を何束か持ってドアを閉め出て行った。この石段の下をちょっと行ったところにうまいうどん屋があったっけなとそのうどんの事やら、その後に食べたコロッケのことなど思い出していると、スズキさんが戻ってきた。スズキさんは席に着くとカーラジオのスイッチを捻った。ウーマン・ニーズ・ラヴだ。懐かしいと思う間もなくスズキさんはチューニングした。中年の男と若い女が笑っていた。またチューニングした。坂本冬美が歌っていた。ダイヤルはそこで落ち着いた。スズキさんは、ちょくちょくダイヤルを変える。坂本冬美が歌い終わると、きっとまた変えるだろう。
「さっきの包装紙、あれなんすか」
「あれね、取引停止なんで返しに行ったの」
「取引停止って」
「いや、うるさいんだよ。何時何分に注文したんですけどまだ届いてないんですとか、電話かかってきて」
「何時何分」
「そうなんだよ。どうするナカジマくん。そんな奥さんだったら。散歩にも行けないよ」
坂本冬美が歌い終わった。やはりダイヤルを変えた。文化放送文化放送ジェイオーキューアールとジングルが聞こえる。そこで止めた。文化放送聞くんだ。
「何時何分に出て行ったから、今頃どこを歩いていてあと何分で帰ってくるなとかさ」
「息、詰まりますね。寄り道も出来ないっすね」
「寄り道するんだったら電話しなきゃ。どこそこに寄って行くから何時頃になるとか」
「たまらないっすね」
「そうだよ。大変だよ」
車は谷中の墓地の前を通り、大きくカーブして鴬谷へ降りて行く。
「細かいのも大変だけど、潔癖性も大変だよ。うちの近所でもちょっと大変な人がいたんだから」
「どう大変だったんすか」
「潔癖性が高じて自殺しちゃった人がいてさ」
「そりゃ悲惨っすね」
「そうだよ。大変なんだから」
人はそれぞれ多かれ少なかれ大変なのだ。俺はむく犬のお尻に蚤が飛び込んだような人間なので、不幸とか悲惨とか、いままでの人生にそのような憂き目が多々あったのだろうと思えるが、平気の平左を装って生きてきた。
前方にスカイツリーが見える。会社も近い。年の終りも近い。スズキさんは最後に積んである段ボールを捨てて行くと言った。紙類の回収業者のところへ持って行くのだ。
大きな倉庫のような建物はがらんとしている。建物の前で男がひとり、鳩にパン屑をやっている。段ボールを所定の場所へ置いたスズキさんは、にこにことその男を見た。男もにこにことパン屑をやっている。鳩は7、8羽もやってきていた。スズキさんは男に、かわいがってるねと言った。
「そのなかにボスがいるんだよね」とスズキさん。男はそれには答えずにこにことしている。
よかったよかったとスズキさんは車に乗り込んでくると、車を発車させた。さっきのひと、知り合いですかと聞くと、スズキさんは前を向いたまま、ううん、知らない人と言った。
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2011-01-09
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