2011-01-23

【週刊俳句時評 第23回】神野紗希

【週刊俳句時評 第23回】
木曜日と冷蔵庫
俳句にまつわる女性性の問題

神野紗希


1

小学校の終わりごろから、J-POPを聞くようになった。日曜日の夜に、その週のオリコンTOPチャート10位に入った曲を、ノーカットでMCも重ねずに放送する、一時間のラジオ番組があった。そこで流れた曲を、録音しては毎晩聞いた。当時、ラジオを録音するといったら、カセットテープしかなかった。

MCが「さあ、それではB‘zのLOVE PHANTOMです、どうぞ」と告げると、すぐにRECボタンを押した。曲が終わると、STOPボタンを押した。曲だけを録音したかったのだ。だから、一時間中、私はカセットレコーダーにかぶりついていなければいけなかった。夏は窓から吹く夜風がまだぬるく、冬は床が冷たかったが、そんなことはおかまいなしだった。

もうひとつ、木曜日の夜にも、J-POPを紹介する番組があった。日曜日のものは、TOPチャートの紹介だったが、こちらは、少しマイナーな曲を紹介する番組だった。そこで人気だったアーティストは、椎名林檎やCocco、鬼塚ちひろといった女性たちだった。

女に成ったあたしが売るのは自分だけで
同情を欲した時に全てを失うだろう
JR新宿駅の東口を出たら
其処はあたしの庭 大遊戯場歌舞伎町
今夜からは処の町で娘のあたしが女王
(椎名林檎「歌舞伎町の女王」)

髪がなくて今度は
腕を切ってみた
切れるだけ切った
温かさを感じた
血にまみれた腕で
踊っていたんだ
cocco「Raining」)

I am God's child.
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?
 (こんなところでどうやって生きていけばいいの?)
こんなもののために生まれたんじゃない
(鬼束ちひろ「月光」)
彼女たちは、性や死を積極的に歌った。シンガーソングライターだったから、その歌詞はそのまま、彼女たちの発した言葉だと受け止められた。私も、ティーンエイジャーのころ、過激な彼女たちの曲に慰められたものだ。

しかし、東京に出てきて、俳句関係で出会った人の中に、なぜか「椎名林檎が好きだ」という男性が多い。結局、性をあけすけに歌っても、今度は、そういう女性が好きな男性に愛されるのだ。それは、アイドルが「会いたい」と歌うのに対して熱狂するファンと、本質的に変わりはない。そこには、どんな女性が好きか、という、タイプの違いがあるだけだ。アイドルは、女性性を直接扱っていて、椎名林檎はそれを逆手にとっているが、女性性がないと成立しないという点では、どちらも同じなのだ。


2

『超新撰21』(邑書林)を読んでいて、ふと、そんなことを思い出した。
その作品世界には、ことり、御中虫、高遠朱音ら(第一句集以後の佐藤文香も?)、ここ数年で俳句シーンに登場した若い女性作者と共通する深層の基盤が感じられる。はなはだ僭越ながら、これらの作者の句を二十一世紀女子自由律とでも名付けてしまいたい誘惑に駆られる。(高山れおな「種田スガル小論 発狂と発情」)
いくら過激であろうとも、結局、「女子」と呼ばれるのだ。女性は消費される。これは、もう、しょうがない。しょうがないと言ってしまうと身も蓋もないが、女性という性別と肉体を与えられた以上、私たちの眼の前には、それを利用するかしないか、という選択肢しかない。

標本になる草食男子の数や どこまでいけば美味  種田スガル
夜の梅鋏のごとくひらく足  柴田千晶
まはされて銀漢となる軀かな  〃
羽ひらく孔雀のごとき湯ざめかな  青山茂根
香水をまとひ一日戦ひし  小沢麻結
星の夜のつづきのやうに身ごもりぬ  明隅礼子

いずれも、『超新撰21』から引いた、女性俳人の句だ。これまでに、評などで言及のあった句を集めた。直接か逆手かの違いはあるものの、女性であることをバネにつくられた作品だ。これらの句が、何らかの形で女性性を保持しているという点で、魅力を持っているのは確かだが、そもそも描かれているのが、「肉食系女子」「OL」「良い母」といった、ある類型的な女性像であるところに、物足りなさを感じる。

私は、むしろ次のような句にこそ、可能性を感じた。

母の慈愛降り積もりて 発狂す多摩川べり  種田スガル
千両に雪積む夜の机かな  明隅礼子
コレラコレラと回廊を声はしる  青山茂根
春氷たれかとほくにうたひゐる  杉山久子
フラッシュのたび踊子の手のかたち  小沢麻結
高熱の父の息吹や夜の梅  柴田千晶

1句目、母の慈愛があまりに激しすぎれば発狂することもあるだろうが、ここで「多摩川べり」を加えたことがスガルのオリジナリティだ。漫画『クレヨンしんちゃん』における「かすかべ防衛隊」や、宮藤官九郎のドラマ「木更津キャッツアイ」のように、郊外の地名を盛り込んだことで、妙なリアルがにじみ出ている。文語を使うことで文体ががたがたしているところも、発狂という言葉とシンクロしている。

2句目、机に向かうと、庭の千両が見えるのだろう。千両の丈を考慮すると、この机は一階に据えられている。これらの条件から、古い和風の家を思い浮かべる。夜の闇に、千両の赤と、雪のほの白さ。「机」によって句に挿入された「私」は、雪が降り積もる時間を、ゆっくり物思いにふけるだろう。静謐な冬の夜の時間だ。

3句目、「声はしる」という表現は平均的なレトリックだが、聴覚に絞っているところから、どこか、この句の主体はコレラにかかって、病床に横たわっているのでは、という印象をもつ。「コレラ」「回廊」「声」のK音が、コロコロと心地よい。

4句目、「たれかとほくにうたひゐる」という仮名表記自体が、遠くからきれぎれに聞こえてくる歌声のようだ。仮名は漢字と違って表音文字だから、意味が剝落している。だから、なんと歌っているのか分からないけれど、歌っているということは分かる、その声の雰囲気をよく代弁している。添えられた季語「春氷」は、明るさと冷たさを伴うので、その声を心地よく受け入れている主体の気分と、どこか森に誘われてしまう不思議な心地とが、引き出されている。

5句目、写真のフラッシュがたかれるたび、踊子の手のかたちが、目に焼きつく。少しずつ形を変えて、さまざまな手のかたちが、あぶりだされることだろう。踊りの祝祭空間の興奮が、フラッシュによって切り取られた瞬間を重ねることで、表現されている。「かたち」と留めていることで、手のかたちに印象が固定される。結果、手のかたちが永遠に増えてゆくような、そんな幻想も抱く。

6句目、病の床の父のそばで、夜、看病しているのだろう。その呼吸を「息吹」という、いのちの萌芽を感じさせる言葉でいいなしたことで、父が確かに未来へ向かって生きているということが伝わり、また、その呼吸が夜の梅へと関わっていくようにも感じられる。

どの句も、分かりやすい女性性は影を潜めているが、それぞれに言葉としての魅力をもっている。過激で暴力的なものが1番面白い、わけではない。たとえば前衛芸術の隆盛したころはそうした価値基準が有効だったのかもしれないが、そういう時代は、とうに過ぎ去った。


3

本当は、女性性を持ちながら、俳句としてもタフな作品を挙げたかった。私の想定していたのは、たとえば次のような作品だ。

オートバイ内股で締め春満月   正木ゆう子
やがてわが真中を通る雪解川     〃
ぎりぎりの裸でゐる時も貴族  櫂未知子
啓蟄やかがやきまさるわが三角州(デルタ)  〃
まだもののかたちに雪の積もりをり  片山由美子
帰る鳥翼ふれあふことあるか   石田郷子

昭和30年世代として小川軽舟著『現代俳句の海図』(角川学芸出版)に取り上げられている女性俳人たちは、女性性も推進力として、しなやかに一句をなしている。正木は、女性にしか分からないだろう身体感覚を書き、櫂は、野蛮だが高貴という、矛盾しているがゆえに美しく魅力的な女性像を築き上げ、片山や石田は、平仮名の使用によって、女性らしいやわらかな印象を演出している。

女性性を使うなら、このくらいタフであってほしい。でも、先行者とまったく同じだと、表現史に何も加えることができない。後続者の課題は大きい。


4

昨年11月に行われた、第2回石田波郷賞で、次席だった市川きつねの作品にも触れておきたい。

ふらここを降りてまつさらなわたし  市川きつね
好きな物みんなありけり冷蔵庫    〃

1句目、ぶらんこにのっていたときには、いろいろごちゃごちゃと考え事をしていたのだけれど、降りれば、「まつさらなわたし」になった。思考が片付いて、さあ、考えていてもしょうがない、と吹っ切れて前向きな気持ちになったのだろう。この句は、「まつさらなわたし」という表現が、すでにどこかで見たことがあるクリシェであることに加えて、立ちあがってくる女性像がちょっと物足らない、という印象をもつ。「ぶらんこ」から少女性が、「まつさら」から処女性が読みとれることで、演出された女性像が、ちょっとかわいらしすぎてあやしい、というところはある。そもそも、比較対象として、どうしても「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし  三橋鷹女」を連想してしまう。「ふらここ」という古語と「まつさらなわたし」という現代語が並んでいるのもミスマッチだ。

それよりも、私は2句目の冷蔵庫の句のほうが好きだ。冷蔵庫の中が、好きなものだけで満たされているのは、一人暮らしの特権だろう。開ければいつでも、好きなアイスやドリンクが入っている。また、好きなものばかりで、苦手な類は入れていないあたり、気ままさも感じられる。偏向という点、どこか、一人暮らしというものの本質を言い当てているようだ。

この冷蔵庫には、そのまま主体の欲望が詰まっている。そういう自我のあらわれかたも、またいい。

こんな風に、俳句にまつわる女性性の問題を考えるとき、男性たちは、俳句をつくるとき、男性性を意識することはあるのだろうかと、ふと考える。

(了)

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