2011-01-23

〔超新撰21を読む〕大谷弘至の一句 西原天気

〔超新撰21を読む〕
バロックな法悦
大谷弘至の一句……西原天気


囀りは大きな金の輪となりぬ  大谷弘至(以下同)

聴覚から視覚への展開。それはそれとして、着目したいのは、「大」「金」という表現です。大谷弘至の「極楽」100句は、巨大で豪奢、バロック(過剰)なまでに巨大で豪奢なイメージに覆われています。

  春の水大塊となりうごきけり
  風鈴や山もうごけと鳴りしきる
  路地の奥朝顔の瀧かかりけり

大塊の水、風鈴の大音響、瀧なす朝顔。通常の寸法や肌理をはるかに超えた有り様で事物が示されています。これらの大仰さは、措辞としての誇張というより、事物に感応する作者の性能のようなものを示しているように思われます。

つまり、針(インジケーター)が、ぶんとレッドゾーンにまで振りきってしまう。そこに作者の「恍惚」がある。

  凍鶴の恍惚と水含みけり

詩歌の国(波寄せて詩歌の国や大旦・同)に住まうことは、この世ではない国に住まうことでもあって…

  極楽の一輪白き椿かな
  海底の楽土の貝を壺焼に
  桃源の道はいづこぞ大根引

…極楽、楽土、桃源が、作者の眼前にありありと現れることであります。

これらの快楽は、宗教的法悦の様相を帯びますが、それはけっして歴史的・伝統的なたぐいのものではありません。

  菜の花や生まれかはりてこの星に
  もの黴びる星に生まれし涼しさよ
  くるくるとまはる地球に冬ごもり

「この星」の頻出、そして過剰なまでのスケール感は、造物主との一体感をともないます。

  神の留守預かつてゐる我らかな

とりとめのないはずの世界、神の気まぐれの横溢するかもしれぬ世界を、この作者は、「いやそうではない」と極楽的に過剰に感応し、この世の極楽を現前せしめんとする。それは神より桂冠を授けられた詩人の態度です。この作者の100句を伝統的と言うなら、それはけっして俳句的伝統ではなく、古代ギリシャ・ローマにまで遡る伝統と言うべきです(中世の桂冠詩人のように王家に仕えるのではなく、造物主に仕える桂冠詩人)。

造物主の霊験へと溶け込んでいくような作者主体。俳句的脈絡でもこのところ頻繁に話題にのぼる「個」の問題に関して、きわめてユニークな一極を占めるのが、大谷弘至という作家だと思います。


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