〔俳誌を読む〕
季語にまつわるとても大事なこと
『新歳時記通信』第4号(2011年1月)を読む
さいばら天気
『新歳時記通信』は前田霧人氏による個人誌。歳時記/季語/季題に関する論評で誌面を埋め、句作の発表はない。いわば研究誌。第3号からちょうど2年。その間に『連衆』誌(谷口慎也代表)等に寄稿した論考6本を転載。計9論考を収める。
全篇を貫くのは真摯でラディカル(根源的)な学究の態度。前田氏は徹底して文献に当たることで事実を掘り起こす。この1冊のなかに季語にまつわるとても大事なことがたくさん書かれている。論考それぞれに興味深い指摘や洞察があるが、ここではほんの数例だけ挙げる。
例えば、『角川俳句大歳時記』にも掲載された「蒸炒(じょうそう)」が「蒸炊(じょうすい)」の誤記であること(孫引きにより長年にわたり拡散?)が、『大漢和辞典』(全13巻)、中国文献『全唐詩』によって明らかになる。
あるいはまた、霞と霧は科学的には同じ現象で季節によって使い分けられるという俗説(私もそう思っていました)を取り上げ、霞と霧が科学的にも別の現象であることを、気象学の資料によって示す。
さらに、季語と季題に関して、季題をむしろ包括的で自由度の高いものとして捉えるなど重要な指摘が数多い。
前田氏がたびたび批判的に検証するのが、昨今の浮薄な季語論・季題論。その多くが論拠を欠き(あるいは誤謬し)、論者の思い込みや願望に支配されたものであることが、この22ページの小冊子を読むだけでもよくわかる。
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冒頭論考「好尚と和服」は無季をテーマとする。そこに引かれた日野草城「無季俳句綱要」(昭和11年)の一節。
好尚と当為とは厳重に区別されねばならない。昨年(2010年)、無季俳句をめぐる「俳句に似たもの」発言等、話題にのぼったが、すでに70年以上前に結論が出ている。好尚と当為。これが区別されないまま延々と不毛の議論が繰り返されているということだろう。
無季俳句は嫌いだ、性に合わない、だから作らない、というのなら話は解っている。無季俳句は俳句でない、価値がない、存在理由がない、というからものが解らなくなってしまうのだ。
季を採用するかしないか、結局それは好尚の問題に帰する。それでいいのだ。
無季俳句の魅力は、結局作品そのものを以て知らしむるの他はない。
(太字:原文では傍点)
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なお、私は「紙」の冊子で拝読しましたが、以下のホームページで第4号の全文が読めます。
≫http://mae.moo.jp/key/
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