夢のあらわれ
梅﨑実奈
むかしの自分の日記を読んでみると、ある日このひとはとても怒っている。ある日はとても悲しんでいる。またある日はとても喜んでいる。喜怒哀楽ががむしゃらに、ときに冷静に、書き綴られている。兄と喧嘩をした日には、筆圧が強すぎてペン先が紙に引っかかり、ところどころ小さく破れ、穴があいてしまっている。相当腹が立ったのだろう。でも、書いているその瞬間のことは思い出せない。勢いはあるが、勢いのまま、感情のことばだけが置き去りにされたように残っている。自分で書いた文章なのに、他人が書いたもののように思えて、ああ、わたしも、そのときそのときでまったく違うのだなあ、いまの自分とむかしの自分はもちろん地続きだが、日々の瞬間はもうはっきりとは思い出せず、同じようにいま現在に再生することはできない、もう戻ってはこないのだと、しずかに知る。
過ぎ去った「瞬間」を思い出そうとするとき、まず浮かんでくるのは、そのときに抱いていた感情ではない。その瞬間、周りを被っていた風景であり、季節であり、五感であり、視界に収められていた細部であり、感情そのものはそのあとからついてくる。兄と喧嘩したときのことは、日記に書かれた「いい加減にしろ」ということばだけではよみがえってこないが、部屋の机の手元のランプ、それがオレンジ色の灯りで、ラジオが横に置いてあり、つねにかけっぱなしにしていたことや、蹴られて散らかりまくった本、ぜえぜえとあがる息、ドアを思い切り閉められたときの大きな音という細部とともに、少しずつくやしい気持ちがふたたび胸に拡がってくる。
榮猿丸の俳句は、とても細かい。どうでもよいのではないかと思うようなことやものに対しても、細部まで執拗にせまっていく。
ダウンジャケット継目に羽毛吹かれをり
ガーベラ挿すコロナビールの空壜に
剥ぎ取りて皮手袋や裏返る
交差点で信号待ちをしていたら、前にいるひとのダウンジャケットから中の羽毛が一本飛び出て、風にかるくそよいでいた。気になるが、注意することでもないし、そのままじっと見つめてみる。そよいでいる。信号が青に変わって、そのひとはさっさと歩き出し、あっという間に離れて見えなくなってしまう。
ガーベラは、自分で買ったものではない。ひとから貰ったものだ。普段から花を買う人間ならば家に花瓶のひとつやふたつあるはずだが、プレゼントでガーベラを貰い、花瓶がないので代わりにビールの空壜を使ってみた。うむ、これは、わりと決まった。でも水をこまめに換えるのが面倒くさい。数日すると花びらの色は変わり、ぐにゃと茎が柔らかくなって、決まらなくなった。もういいか、と思ってゴミ袋に捨てる。
財布から小銭を出すために、皮手袋の手首の部分をつまんで、一気に引っ張り取る。皮手袋は裏返った。当然だが、裏返っても皮は皮のままである。裏返ったままコートのポケットに入れておくと、次に嵌めるときにわざわざうらおもてを直さなくてはならないので、いま戻しておく。裏返った手袋に指を突っ込んで反対の手で指の先を一本一本つまみ、戻す。当然だが、もとに戻っても、皮は皮のままである。
漠然と「飛び出す」のではなく「継目」に「吹かれ」る。「飾る」のではなく、素っ気なく「挿す」。「脱ぐ」でも「はずす」でもなく、獣臭く「剥ぎ取」る。猿丸俳句は、詠まれる素材や事柄の細かさだけではなく、その描写に具体性と的確さがある。
彼の俳句を読んでいくと、素材の細かさ、描写の具体性と的確さのほかにも、つよく感じるものがある。それは、ひじょうにロマンティックな側面と、「ずっとこのままでいたい」というモラトリアムな気分にも似た、願望のようなものである。恋の句をたびたび詠んでいるのも、それがもたらすものだろう。
裸なり朝の鏡に入れる君
たとえば誰かのことを好きだった瞬間のことを思い出そうとしても、好きだという感情そのものは、もうすでにからだのなかから抜けてしまっている。あのときはたしかにとてもたのしかったし、何はなくとも相手のことが愛おしくてたまらなかったとしても、いま心には好きだったという残骸があるだけで、もう一度同じように感情をよみがえらせることはできそうもない。感情のことばだけが綴られた日記を読んでもその瞬間の気持ちを思い出すことができないように、感情には持続性がない。「永遠の愛」というけれど、そんなものはない。冷めた目でみているからではなく、そういうかたちで残っていくものだとは思えないからである。
「きみとぼく」「わたしとあなた」というふたりだけの空間の濃度を描くことは、好きだという感情そのものをことばで書くよりも恋愛の本質を掴むことができる。だから猿丸は「好きだ」とは書かない。「愛している」とも書かない。ふたりは裸で眠り、裸で起きる。朝、といっても、昼過ぎかもしれない。ふたりの「朝」は、ふたりが起きたそのときである。裸のままで洗面所へ行き、備え付けられた大きな鏡越しに相手のからだが見える。慣れ親しんだ関係性と、恋のはじまりのうきうきとした気分にはない倦怠感とが、切り取られたシーンによって伝わってくる。
愛かなしつめたき目玉舐めたれば
この句では「愛かなし」という感情が書かれている。目玉を舐める、という行為は、性愛のワンシーンである。ふつうの行為では満足できないこのふたりは、最高潮にあるようにも、煮詰まっているようにも思える。それは「愛かなし」の「かなし」ということばが、「哀しい」と「愛おしい」の両方の意味を含んでいるからである。ごろごろとした目玉のつめたさと、舌先が異物に触れたときの不思議な感じ。「愛かなし」と書かれていてもこれはふつうの感情ではない。死が傍らにあるような、無常感がある。濃密で、他の介入を一切拒むような関係を描いた情愛の句だ。
鍵ハアリマスアネモネノ鉢ノ下
春泥を来て汝が部屋に倦みにけり
君すでに寝巻ぞ秋の夕べなる
列車の扉に凭るる汝や雪に照る
別れきて鍵投捨てぬ躑躅のなか
合歓の花汝がゆまれるを見張りをる
このような猿丸の恋の句を読むと、わたしは空気が満ちてくるのを感じる。その「空気」とは、たとえば大きな景色が詠まれた句を読んだときに感じるような、空の広さや山の高さ、自分の外側に向かって拡がっていくようなものではない。自分の内側にわき上がってくる、気分のようなものである。それは、わたし自身の記憶に触れ、「俳句」という万人のことばであったはずのものが個人的な体験のようにゆっくりと再生される、一体感をともなった現象だ。恋の句だけではない、彼の作品がもつ「ずっとこのまま」という独特の空気は、読む者を包み込み、同じ時間のなかを歩ませる。
看板の未来図褪せぬ草いきれ
ダンススクール西日の窓に一字づつ
雨月なり後部座席に人眠らせ
炎天のビールケースにバット挿す
未来へとつながる風景なのに懐かしかったり、過去であるのに茫漠とした未来を感じたり、しかしつねに今まさにこのときである、という不思議な流れをもつこの時間は、未来と過去と現在が混じり合いながらねじれを起こしている。描写の力で具体性を獲得した細部は、このねじれる時間を際立たせるのに不可欠なものだ。そして、彼の切り取る景色や情感の選美眼はひじょうに鋭い。カラオケでテレビ画面の歌詞の背後に流れるイメージ映像は、その一曲に限らず他の曲でも同じ映像がたびたび使われているが、そのようなマルチさに陥ることなく、しかし確と記憶に触れてくる。
猿丸は俳句の「季語」というものに対して、〈季語は偉大なる引用であると同時に、つねに具体性を失わない※〉と語っている。〈偉大なる引用〉とは、積み重ねられてきた意味の連続性であり、万人のなかにある記憶である。〈具体性〉とは、その万人の記憶に触れることを指しているのではないかと思う。文学の歴史としての文脈だけではなく、切実なひとりひとりの生のなかから生まれてくる記憶である。人々は記憶が途切れ、失われてしまうことを畏れる。記憶が受け継がれ、ずっとつづいてゆくことは、夢や願いのようなものなのだ。
アルゼンチンの作家であるホルヘ・ルイス・ボルヘスは、『砂の本』のなかで〈言葉とは、共通の記憶を負おうとする象徴である〉と書き残している。そのボルヘスの文章のなかにひとつ、ずっと気になっていたものがある。『アトラス—迷宮のボルヘス』のなかの「作品による救済について」という文章だ。ボルヘスが出雲を訪れたときのこと、神と対話し、人間の持続と歴史の終焉について綴られているのだが、末尾は《こうして、〈俳句〉のおかげで人類は救われた。》と結ばれている。この〈救済〉とは一体何であるのか、猿丸の俳句を読むことで少しわかったような気がする。
指の肉照る箱庭に灯を入れて
このような句を読むと、ひとりの人間の夢の灯火が、万人の手に持たれた蝋燭にゆっくりとうつってゆくさまを見ているような気持ちになる。具体性をつねに失わず、記憶に触れるようなシーンを描くことで、読むたびにいつかの気分や空気が再生されることばの装置のようなこれら猿丸の俳句は、「永遠の愛」のようにはかない夢や願いを実現させるために彼が選び取ったひとつの表現方法である。それは感情を吐露しぶつけ合うという直接的なコミュニケーションを重視した表現のあり方よりももっと難しく、地味で根気のいるものだ。しかしこれは、人と人とはどんなに離れていても時間も場所も超え、空気をともにすることができるという彼の信念であり、夢のあらわれなのである。
※角川学芸出版「俳句」2010年6月号「特集 座談会 若手俳人の季語意識—季語の恩寵と呪縛」
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2011-02-13
夢のあらわれ 梅﨑実奈
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