2011-02-13

鴇田智哉論 五感を手がかりに 田中槐

鴇田智哉論 五感を手がかりに

田中槐


ごめんなさい、歌人の田中槐です。

なぜ最初に謝っているかというと、わたしは「俳句」の「は」の字もわかっていないというのに、いきなり鴇田智哉さんについて論じるという大それたことをやろうとしているからです。

最近まで、俳句と短歌は「きょうだい」とは言わなくとも「いとこ」くらいの関係だと高を括っていました。しかし案外、「はとこ」の孫くらい遠いのではないかと愕然としているきょうこのごろ。おまけに、まだまだ歳時記で季語を確認しながら鴇田ワールドを渉猟しているありさまで、行き当たりばったりな感想めいたことしか書けないと思いますが、しばしおつきあいください。

句集『こゑふたつ』、『新撰21』、「雲」(2009年10月~10年11月)、「2010俳句研究春号」掲載「降るむかし」。以上がわたしに与えられた全テキストです。

『こゑふたつ』と『新撰21』は、初読のときから多くの附箋が付きました。当時はまだ短歌脳しか持ち合わせていなかったわたしですが、直感的に好きな句が多かったということです。今回新たに加わったテキストと併せて読み直してみて、全体の印象はそれほど大きく変わりませんでした。「好きな句」が多い。これは対象に分け入る場合、用心しなくてはならない要素です。恋は盲目。

最初に思い当たった印象は、このひとは幻覚を見ているのではないか、ということです。俳句の基本は写生でしょうから、視覚をもとに読まれている句が多いのは当たり前のことですが、どうも鴇田さんには見えないものまで見えているのではないかという気がしてならないのです。

  ゆく方へ蚯蚓のかほの伸びにけり 『こゑふたつ』
  春の夜を青い袋がとんでゆく
  寒さうに空にけむりを吐くをんな
  ぶらんこに一人が消えて木の部分
  いちめんの桜のなかを杖が来る  「雲」2010/06
  
これらの句は、いずれも普通の写生句です。蚯蚓の顔が行き先に向けて伸びていくのを見ていたり、乗っていた子がいなくなったあとのブランコの木の部分に注目していたり、さすがに着目点はひと味違います。飛んでいった袋が青かったり、桜の満開の下を来るのが杖だったりと、鴇田さんならではの発見や切り取り方の妙もあるわけですが、いずれも、わたしにも「見える」ものたちです。

  ゆつくりと立ちあがりたる冬の瀧  『こゑふたつ』
  水入れてコップの水の冬めける
  消えさうに日傘が外を通りけり
  春昼のだれもが曲がる角のあり    「雲」2010/07
  人消えてすきまの残る夏の昼     「雲」2010/10

これらになると、少し不思議な景色が見えてきます。冬の瀧が凍っている様を、まるで凍りはじめから見ていたかのように「ゆつくりと立ちあがりたる」とするわけです。三句目の日傘は、「消えさうに」と書かれているだけなのに、わたしの目にはマジックか何かで消されてしまいます。「だれもが曲がる」という断定によって定義づけられる角はたしかにそこにあるのでしょうが、異界につながる角にも見えます。空間に突如と現れた「すきま」など、見えないはずのものまで見させてしまう力(あるいは見えているものを消してしまう力)が、鴇田句にはあるようです。

さらにこれらの句には、最初の瀧の句ほどではないまでも、ある程度の時間の経過が詠み込まれているのも特徴と言えます。ただその話は『新撰21』の鴇田智哉小論で、如月真菜さんが「俳句に詠みこむことが難しい時間の流れが、(中略)彼の句にはある」「まるで王朝の絵巻物の中で過去と未来とが同一の図の中に描かれているのを思わせる」などと的確に指摘くださっているので、ここでは割愛します。 

でもまだまだ、これまでは序の口です。

  枕辺にうごいてきたる木の葉かな  『こゑふたつ』
  木々の間をぬけて二月の魚が来る
  いきものの尾の流れゆく夏の暮
  左手をかざせば空の枯るるなり
  夏空の中へと紐がのびてゆく
  眉のやうな目をして秋が笑ふなり  『新撰21』
  囀の奥へと腕を引つぱらる     「雲」2010/04

みんな幻覚の句ではないでしょうか。森の中ででも寝ていなければ枕辺に木の葉はありえませんが、しかも「うごいてきたる」なんです。木の葉が動いちゃうんです。その森には魚も来ます。三句目の「いきものの尾」は金魚かなにかかもしれませんが、もっと大きなものの尾が夕暮れをゆったりと流れていくさまを思わせます。鴇田さんの左手には空を枯れさせる(枯れさせる?)力もあるようです。五句目の「紐」も怖いです。次の「秋」も怖いです。こんな秋には遭いたくありません。最後は視覚ではなく体感ですが、見えないものの力によって異次元に引っ張り込まれるような感覚がリアルです。

見えないはずのものが見えているだけではなく、夢とか幻といったレベルでもなく、何かしら鴇田さんにとっては必然であるものが超然として見えてくる、とでもいうのでしょうか。よく、妖精が見えるひとがいるという話を聞きますが、鴇田さんにもきっと見えているはずです。いや、鴇田さん自身が妖精なのかもしれません。あなたには鴇田さんが本当に見えていますか?

さきほど引いた「囀の」の句のように、体感を詠んだ句も多いですね。触覚というピンポイントな感覚よりは体感なんです。

  うしろにも木のある森の夜の短か  『こゑふたつ』
  優曇華やかほのなかから眠くなり  
  鰭ほどのつめたい風が吹きにけり
  鶏頭に喉のかわいてゆくばかり   
  セロリよりしづかに息をしてをりぬ
  どちらからともなく揺れて夏の暮  『新撰21』
  ごはごはの服と歩いてゐる二月   「雲」2010/05  
  炎天をゆくもう一人ゐるやうに   「雲」2010/10

いずれも、痛いとか苦しいとかいう強い体感ではなく、ぼんやりとからだ全体で静かに感じているような句です。背後にも木があるということ、眠気が訪れる時や喉がかわいていく感覚、呼吸や、二人でいるときの相手の存在感。すべて体感によって、覚醒されているというよりは、感じることを認識しようとしている。非常に冷静な視点です。余計な話ですが、五句目は、鴇田さんには珍しい恋の句ではないかとも思いました。すごくすごく、控えめな。

句集に『こゑふたつ』というタイトルをつけるくらいですから、聴覚を詠んだ句もたくさんあります。これも、聞こえているような聞こえていないような、微かな音を聞いているようです。

  ゐた人の残してゆきし咳のこゑ   『こゑふたつ』
  すこしづつ風のはやまる鉦叩き
  障子から風の離るる音のあり
  こゑふたつ同じこゑなる竹の秋   
  歯を磨く音の聞ゆる彼岸かな
  時報とははなびらの舞ふ空を来る  
  すいつちよと聞えて次の文字が出る 「雲」2009/12

一句目は、さっきまでいたひとの「咳のこゑ」を聞いています。耳の記憶ですね。鉦叩きの鳴き声ではなく風の速度を言っているのにたしかに聞こえる鉦叩きの声。「障子から風の離るる音」なんて心憎い表現ですが、微細な音を聞き分けているんです。タイトルでもある「こゑふたつ」の声も、決して大声じゃないです。そもそもこの声は何の声なんでしょう。時報も、「はなびらの舞ふ空」を越えて届くとかそけきものになります。最後の句は、聴覚から視覚に変化する様が面白いです。こうやって並べてみると、聴覚の句も不思議な感覚を伴っています。そして、このあたりも時間経過を詠み込んだ句が多いですね。

せっかく五感を手がかりに鴇田さんの句を読んできたので、嗅覚や味覚の歌も探してみたのですが、鴇田さんには食べ物を食べている句が圧倒的に少ないんですね。さすが妖精。

  にはとりの煮ゆる匂ひや雪もよひ  『こゑふたつ』
  はづしたるマスクに鳥の匂ひあり
  くだものの匂ひの果てや蚊喰鳥   

嗅覚といっても、食べ物の匂いはこの「にはとり」くらいで、しかも鶏肉じゃなくて「にはとり」ですから。最後の句はすごく好きな句なんですが、あんまり食欲をそそる匂いではないようです。くだものに、こんなマイナスイメージを加えたひとは珍しいのではないでしょうか。

  煮凝にゆるい呼吸をしてをりぬ   『こゑふたつ』
  椎茸をくひをる口のやはらかき
  食べられて菌は消えてしまひけり

味覚はほぼゼロ。この煮凝りはどうもあんまり好きそうではないし、椎茸や菌を食べているのは鴇田さん以外のひとでしょう。少なくとも「味」は伝わってきません。あくまでも観察者の立場を貫きます。

さて。嗅覚や味覚が少なく、視覚や聴覚・体感が多いということはどういうことなのでしょう。身体にダイレクトに取り込むのではなく、神経とか脳とか形而上のほうへ行っているということでしょうか。このへんでなんとなく、季語の話につながりそうなので、無季句について触れたいと思います。わたしは最初にも書いたように俳句初心者なので、季語や季節を探しながら俳句を読んでしまうわけですが、鴇田さんの無季句には無季とはいえほんのり季節が感じられるものが多かったように思います。

  風下にうすい瞼はありにけり    「降るむかし」
  日の影に杉なんとかといふ名の子
  畳まれて椅子がひんやりしてをりぬ
  壜の蓋とぢれば星のふゆるなり

季節感といっても、具体的に秋とか春とかいうのではなく、涼しさだったり冷たさだったりを感じる、という程度です。それはやはり、鴇田さんの句を構成しているものたちが、視覚や体感と直結しているからではないでしょうか。鴇田さんが見たり聞いたり感じたりしたものが、鴇田智哉というブラックボックスを通すことによって句となるわけです。これはもちろん、他の俳人もみなそうなのでしょうね。ただ、鴇田さんの場合は有季句においても、季語よりはそれ以外の部分で状況がほぼ成立していて、季語はそれを補強する役割を果たしているようにも見えるのです。

「俳句」(2010/6月号)の「若手俳人の季語意識」という座談会において、「僕の句は、季語そのものを展開した、一物の句が多い」と鴇田さんが語っていることに対して、関悦史さんが「曖昧性をあらかじめ持っているものに対する偏愛があって、それを確認して句を作っていくという作り方」と分析されています。季語の季節感よりは季語そのものに対する興味、ということですね。鴇田さんの季語へのスタンスは、とてもフェティッシュなものなのだということがよくわかります。だから無季になっても句の作り方は大きくは変わっていない、ということなのでしょう。

ですから有季の歌においても、鴇田さんの興味は、見たり聞いたりしている対象物そのもののあり方にあるのではないでしょうか。ブラックボックスの部分に、非常に哲学的な関数が仕掛けられているわけです。凡庸な人間には幻覚や幻聴にしか見えない句は、そんなふうにつくられているのかもしれません。

最後に、どうしても取り上げたかった一句を。

  人参を並べておけば分かるなり   『新撰21』

なぜ人参なのか、何が分かるのか、全くもって不可解なわけですが、鴇田さんにこうやって静かに諭されてしまうと、おとなしく頷くしかないわけです。並べられた人参をじっと見つめて、人参が人参に見えなくなり、いつしか人参そのものが消えてしまうまで見続ける。そしてそこに何が見えてくるのか、それを見よと鴇田さんは言うのです。そう、もはやわたしは、鴇田マジックから覚めそうにないのです。

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