奇人怪人俳人(一)
ロケット戦闘機・佐藤秋水
今井 聖
「街 no.79 」(2009.10)より転載
秋水さんが詩吟「白虎隊」を朗々と吟じながら、背広の腰に差した傘を抜いて振りかざし突き上げる。
南鶴城を望めば砲煙あがる
痛哭涙を飲んで且つ彷徨す
宋社亡びぬ我が事暈る
十有九士屠腹して斃る
「秋水!」と声がかかる。
秋水さんは痩身で蓬髪、彫りの深い面立ち。今でいうとキツネ顔。役者にしてもいいほどのハンサムである。
「寒雷」の仲間がその年に出した句集を祝う合同出版記念会が大井町の品川行政会館での句会のあと同じ建物にあるレストランで開かれる。その席上でのこと。秋水さんが出席する宴会はみんなこれが楽しみ。昭和40年代から平成初めまで僕が眼にしたおなじみの風景である。
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佐藤秋水(さとう・しゅうすい)。本名庄助。大正15年会津生まれの会津育ち。僕よりちょうど二回り上の寅年。旧制会津中学から海軍兵学校に進む。
海兵75期。昭和18年入校、20年に戦中非常時といいうことで繰り上げ卒業。
海軍兵学校は。最終が78期。ただし76期以降は在校のまま終戦にて廃校。卒業したのは秋水さんの75期が最終となる。明治2年に創立、総卒業生11182名のうち33%が戦死。そのうちの97%が太平洋戦争での死者であった。
俳号秋水の由来を聞いたことがある。
僕は秋水さんの古武士然とした風貌から、秋の水の透徹した清らかさを願ってのことと思ったがまったく違った。
秋水さんはどこか照れくさそうに言った。「今井さん、秋水は日本初のロケット戦闘機なんだ。試作機しかできなかったけどね」
早速調べてみた。
秋水(しゅうすい)は太平洋戦争末期にドイツ空軍のメッサーシュミット最新鋭機を基に日本陸海軍が共同で開発したロケット推進戦闘機。プロペラのない本邦初の戦闘機である。正式名称は十九試局地戦闘機秋水。総生産機数はわずか5機。
20年7月7日、海軍横須賀飛行隊追浜飛行場で行われた試飛行に失敗。それ以降も開発は続行されたが、まもなく終戦。秋水は二度と空を飛ぶことはなかった。
その試飛行でのテストパイロットで殉職したのは海兵70期の犬塚豊彦大尉。同年に繰り上げ卒業を控える秋水さんが五期先輩の大尉の悲劇をどんな思いで見送ったかは想像に難くない。
そして、この未完の戦闘機の名を号としたとき、秋水さんの俳人としての生き様も決まったのである。
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昭和27年に「寒雷」に投句を始めた秋水さんは61年に同人になるまでに34年を要した。句が下手だったわけではない。毎号寒雷集の上位に来るのに巻頭にはならない。
楸邨の専権事項なので同人推挙の条件があるわけではないが、一応巻頭をとることが最低限の不文律のようになっていたので、秋水さんはいつまでたっても同人にはなれない。
僕が二〇歳で寒雷に初めて投句した昭和46年、手元にある11月号をひらくと寒雷集巻頭五句が小檜山繁子さん、四句欄に秋水さん、隣に現在の月刊「俳句界」発行元、(株)文学の森社長の姜基東さんの名も見える。
この号で秋水さんは楸邨の選後評にも載っている。
かぶと虫兜重たき貌死にぬ 秋水
かぶと虫の死貌がいつまでも目に残る句だ。それはどこが焦点になってゐるのであらう。いふまでもなく「兜重たき貌」だ。いかめしい武将のそれのような兜である。他の虫のやうに、死んで軽くなるやうな感じが寸毫もないところに、かぶと虫の宿命のやうな生きる重くるしさがある。句もいいが、楸邨の評もいい。兜虫が秋水さん自身と重なって思えてくる。
そしてこの句のあと同人推挙まで秋水さんはさらに15年を要したのである。
秋水さんはついに一度も巻頭を取らずに61年に同人になる。一度も巻頭なしの同人推挙は寒雷の歴史始まって以来の快挙?であった。
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寒雷では同人に推挙されたとき、誰かにその人物の紹介文を書いてもらい、同時に新作20句を発表する。このとき秋水さんは僕に紹介文を依頼してきた。
快諾した僕は、秋水さんの過去の句をいくつか例にあげて解説した。その中の句、
ひと一人燃ゆる時間の桐の花
どこか軍人としての死生観に通じるものがある。
衆人のなか虫籠と祈りをり
胡沙降るや真上ほとけの鼻の穴
思念と、表現のオリジナリティの調和。
茄子の馬ほんたうの馬冷えきつて
暗中の発芽や昼も夜も眠り
身の内に濤のうねりや更衣
茄子の馬と実際の馬を同じ空間で並べる。発芽の闇を昼夜をわかたぬ眠りに喩える。更衣のときの内面に濤のうねりを感じる。誰も作ったことのない自分だけのものへの希求。
こんな句もある。
水温むまんなか毬が流れけり
水かけて水着の母をさそひけり
降る雪がピアノに映りショパンから
平明でいて個性溢れる世界。
句の完成度は誰がみても一級だろう。しかし皮肉なもので、この感覚と技術との見事なバランスこそが、秋水さんが同人になるのに34年もかかった理由かもしれない。
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楸邨は句のどこかに破れを求める。
型に押し込めようとする形式と、それをはみ出そうとする内面の拮抗。その拮抗の痕跡に「詩」をみるということは破れの重視だ。破れているからこそ拮抗の痕跡がみえる。調和したままのものに痕跡はないのだ。
内面、リズム、型等々、さまざまな角度から自分を追い込むと、どちらに踏み出しても何かを犠牲にしなければならない。対象に没入しすぎると自分を見失う。自分を表現しようと追えば、対象のものとしての質感を見失う。何をどうやっても見え透いているような気がしてくる。ついに右にも左にも行けなくなって立往生したとき、それでもえい!と一歩を踏み出さざるをえない。その一歩こそが「破れ」。
それこそが「詩」だと楸邨は言いたいのだ。
あるいは、言葉の配慮を超えて、その人そのものが作品に生きること。こういう行き方も強いがこちらの方は体質的特質なので出そうとして出るものじゃない。
秋水さん、いまだから、わかるけど、上手すぎちゃいけないんだよ。
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句会のあとの飲み会で秋水さんはよく大きな声で同人の悪口を言った。耳が悪いせいか、とにかく声が大きい。人の話を聴くときはかならず耳の後ろにてのひらを立てた。
「同人欄は寒雷の墓場だ!」
この雄叫びを酒席でなんど聞いたことか。
長い間同人に推挙されなかった秋水さんのやっかみに聞こえるが、そうとばかりはいえない。
楸邨は、投句者の魅力を認めるとその人を寒雷集の上位に置いたり一句欄に落としたりしてゆさぶりながら「対話」を楽しむ。楸邨自身もその人の新しい特質から学ぼうという態度だ。やがて、その魅力の全容が固定化すると同人欄へ送る。だから同人欄は楸邨にしゃぶりつくされた亡骸の安置所だといいたいのだ。
それは寒雷だけの話ではなく、本来は免許皆伝のベテラン実力者の欄であるはずの同人欄が衰弱し弛緩した作品の「墓場」になっている例は各雑誌で枚挙にいとまがない。
この傾向は同人の自選欄を創設した時点から宿命のように始まった。自選欄を設けたのは「馬酔木」が最初であった。それまでの、いわば一党独裁「ホトトギス」は同人推挙をしても会員と同じ欄に投句させる。一見、実力において差別をしない方式に思えるが実際のところはそううまくはいかない。
雑誌経営にさまざまな点で貢献度の高い古参の同人が投句欄の上位に固定化する。ここに一句十年などという言葉が生まれる。一句欄から二句欄にすすむのに10年かかるという意味である。五句投句だから一句欄から始めると巻頭になるまでに4-50年かかる計算になる。
現今の俳句雑誌でもこの方式をとっているところもある。
主宰者が永久に同人、会員、全員の選を行う。責任指導というと聞こえはいいが、「家元」のような趣もある。もっともそれがいやなら出て行きゃいいんだということなんだろう。
寒雷は、馬酔木の踏襲。同人自選欄に楸邨はまったくノータッチになる。同人に推された途端、達成感があってそれで終わる俳人とそこから一人で伸びていく俳人が二分される。
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秋水さんから何度も聞かされた武勇伝がある。
寒雷は鍛錬会と称して各地で吟行をおこなってきた。その席上でのこと。楸邨に向かって秋水さんが発言を求めた。
「先生、私は30年間先生に年賀状を出しつづけているのに、一度も返事を貰ったことがありません」
楸邨はムッとした顔。
秋水さん、さらに追い討ちをかけるように、
「さまざまな知人からは、お前は楸邨に合わないから寒雷をやめろと言われています」
楸邨が口をひらく、
「秋水くん、君は僕を嫌いですか」
何十年も投句して指導を仰いでいる師を嫌いなわけがない。秋水、さすがに言葉に詰まるがロケット戦闘機はここで引き下がるわけにはいかない。
「嫌いです!」
無礼講の酒席ではなく、句会の席である。
座はしんとして緊張が走った。楸邨は普段は温和だが、いったん怒りだすと手がつけられないところがある。60年に芸術院会員の発表があったときなど、発表直後の句会冒頭、古参同人桜井掬泉氏が立って「先生の芸術院会員をお慶び申し上げます」と言ったところ、即座に楸邨が表情険しく立ち上がって「私を良く知る人の言とも思えません」と憮然として応じた記憶がある。
楸邨は、大戦中に俳誌統合などで軍部から便宜を図ってもらったと戦後に中村草田男から指弾を受ける。いわゆる戦争責任の追及である。そのときの「トラウマ」があるので、国家から授与されるものに関してはきわめてナーバスになる。僕など、楸邨本人は受けたくないのだと推察するが、辞退すればしたでまたいろいろ言われる。そっとしといてくれというのが楸邨の本音だったのであろう。
それ以外でも楸邨が句会で激怒する場面はみな何度か見ている。
このときも一同、どうなることかと固唾を呑んで見守った。案の定、楸邨は憤然と立ち上がった。
激怒するかと思いきや、温顔に戻って、
「秋水くん、嫌いなもの同士で一緒にやろう」
秋水さんはこの話をするたびに眼を潤ませていたように思う。
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渋柿の渋を抜く(さわす)伝統の方法を用いた会津身不知柿(みしらずがき)を製造販売する商店の子として生まれた秋水さんは、戦後にさえ子夫人を娶り三人の男児に恵まれた。
戦後の暮らしは楽ではなかったようだ。
平成16年に刊行された遺句集『寒雀』の「あとがき」に息子さんの方信さんが
押し合ひて兄弟眠る根雪かな
という「父」の句を挙げて子供の頃の生活を書いている。
六畳、四畳半、三畳の三間に夫婦、子供三人の五人で20年間暮らしたとのこと。
最初、秋水さんは会津区役所に勤めていたが、退職して会津市会議員に立候補し当選、一期四年を努めるが二期目に落選。それ以降は塾の教師をし、地元こども会の会長となって子供たちの面倒をみた。子供好きな秋水さんがここにいる。
俳句の指導者として会津寒雷句会をまとめ、いつも分厚い辞書をリュックに詰め、呼子を吹きながら吟行の先頭に立った。呼子と辞書、これも秋水さんのトレードマークだった。
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平成13年、僕は久しぶりに品川行政会館の寒雷の句会に出てみた。むしょうに古巣が懐かしくなったせいだ。楸邨が亡くなってから既に八年が経過、「街」を創刊してから五年。ありがたいことにこの不肖の「息子」を古巣の知己たちは暖かく迎えてくれた。
秋水さんもいた。秋水さんは僕の手を握ると涙声になった。なんだ、秋水さん、ばかに涙もろくなったなと僕は思った。帰りの居酒屋に当然秋水さんも来るだろうと思ったが、彼はこなかった。秋水さんとはそれきりになった。
翌年脳内出血で逝去。享年77。
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生前に一冊の句集もなかったが、死の二年後に句会のお弟子さんたちの手によって句集『寒すずめ』が刊行されている。
その中の句
街中にわが名貼られてさくら時
かたつむり見てゐて少し傾きぬ
天球のまん中に蟇交みをり
春の雪見てゐる眉を太くして
彼岸花捨てられて水動き出す
暖かくて、厳しい眼差しがあって、生きることが作ることと一枚になるようにという先師が示した方向をきちんと踏まえた世界。
秋水さんの声が今も聞こえてくる。
「楸邨は往診医なんだよ。むこうから訪ねてくれてひとりひとりと繋がる」
「同人欄は寒雷の墓場だ。墓場には入りたくない」
「俺もあんなこと言ったもんで。これで寒雷に居られないと思ったさ。そしたら、秋水くん、嫌いなもの同士で一緒にやろうって…」
未完のまま終わったロケット戦闘機、これが佐藤秋水。会津の身不知(みしらず)柿は渋柿をさわした独特の甘さ固さが魅力。これも佐藤秋水。
(了)
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佐藤秋水(1926~2002)三〇句撰(今井聖撰)
ひと一人燃ゆる時間の桐の花
衆人のなか虫籠と祈りをり
胡沙降るや真上ほとけの鼻の穴
茄子の馬ほんたうの馬冷えきつて
暗中の発芽や昼も夜も眠り
身の内に濤のうねりや更衣
水温むまんなか毬が流れけり
水かけて水着の母をさそひけり
降る雪がピアノに映りショパンから
一校時始まつてゐる田植かな
街中にわが名貼られてさくら時
水着より着替へ手足の長かりし
かたつむり見てゐて少し傾きぬ
天球のまん中に蟇交みをり
春の雪見てゐる眉を太くして
彼岸花捨てられて水動き出す
卒業生送りしあとの兎かな
メガフォンの中にこぼれし桐の花
氷上を箒かつぎて滑りくる
家中の鬼をやらひてひとりなり
大雪を来て玄関で笑ひけり
「夏休みの友」にコップの痕があり
まんなかで分けたる髪にさくら蕊
苗木もつ人に傘さしかけらるる
鯉屋より鯉の逃げたる天の川
大根に置きしめがねを忘れけり
噴水を見てゐて帽子とばさるる
黙祷の一人飛込台の上
真青な木の実握りて脈迅き
菊を焚く煙の中のヴァイオリン
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