〔祐天寺写真館・メキシコ篇〕
草
長谷川裕
原発プロパーは「この数値ならただちに健康に影響を及ぼすものではない」と言う。反原発の倫理に立つ者は「核は封印すべきだ。いつかはみんな被曝する」と言う。原子力の専門家でもなければ技術者でもない私は、どちらの言説が正確なのかはわからない。ただうろたえるばかりだ。
しかし、これだけは言える。
おそらく人類は原子力を捨てることはない。
これからも原発は世界中で建設・稼動されるだろう。そして、技術的に有効な解決策を見出せぬかぎり、くり返し事故を起こすだろう。いまのところ我々は核汚染の恐怖に怯えながら、現在の利便を、おそらくは先細りのなかで享受しつづけていくしかないのだ。
なぜなら人類が発見した科学上の知見は、倫理では消し去れないからだ。倫理と科学はべつの位相にある。倫理を科学技術的に実現することはできないし、倫理的に素粒子を発見することもできない。
多大なエネルギーを消費する文明の転換は、倫理では実現できぬ。それが可能になるのは、非エネルギー文明が現在とおなじく快適であり、利便に富んでいる場合である。倫理的にすぐれているがゆえに他に優越して繁栄した文明というものを私は知らない。おおかたはその逆であった。
首都圏のわれわれは、福島のひとびとの損害に応じた支援をしなければならない。東京をはじめ、福島原発の恩恵を受けた地域は、すくなくとも30キロ圏内から避難せざるを得なかった人々を迎え入れる度量を示さねばならぬ。汚染は原発の利便を享受してきたわれわれに課せられたツケでもある。ツケは支払わなければならぬ。
いま、私が考えられる倫理とはその程度のものでしかない。
(写真はティオティワカンの廃墟に生える猫じゃらし)
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