2011-03-20

今回の大地震に関連して思うこと~次の時代の日本へ。次の時代の俳句へ 小野裕三

今回の大地震に関連して思うこと~次の時代の日本へ。次の時代の俳句へ
小野裕三


まさに国家レベルでの大災害が起きている。僕の住む神奈川でも計画停電が実施され、余震も続き、二人の幼い子を抱える身としても不安は尽きないが、それでも津波に被災した方々などに比べれば遥かに恵まれた状況だ。亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りするとともに、今後できる限り多くの方が助かり、幸せな生活を取り戻していくことを強く願う。

今回の災厄について、「天罰」と語った某氏もいるようだ。しかし、災害後に人々がいたわり合い、助け合い、励ましあう美しい姿がマスコミやネットで報じられている。実際、僕自身の周りでも「こんな時だからね」とちょっとしたことでも助け合う姿を幾度も眼にする。さらには被災地支援のために、あるいは原発被害を食い止めるために、文字通り懸命の努力をしている人たちの勇気ある姿も伝わってくる。「天罰」なんてとんでもない、と思う。けれどもその一方で、新聞などの報道によれば今回の災害に乗じた「義援金詐欺」なども起きているという。それが本当だとしたら悲しいことだし、「天罰」と言われることを批判する資格が今の日本人に本当にあるのだろうか、といった思いも過ぎらないわけではない。

だが、仮に某氏が言うように今回の災害を神が日本人に与えたものだとするなら、それを「天罰」とするよりも、僕はこう考えたい。これは、相当に困難でかつ苦痛を伴うがそれでも日本人なら乗り越えられる問題である、としてもたらされたものなのだと。今の日本は、もともと多くの問題を抱えていた。国家財政の危機的状況、少子高齢化や年金、外交や領土の問題、などなど。そこにさらに今回の災害の復興や原発などのエネルギー問題も加わった。まさに泣き面に蜂の状況だが、それでもこれらの問題を解決することは、単に日本のためのみならず、これから多くの諸外国が同種の問題を抱えていくと思われる中で、まさにひとつの「手本」になる可能性もあるだろう。

今回の原発の問題であらためて思うのだが、今の日本人(もしくはその他の先進国)の生活は過度に電力に依存している。そして原発は、その生活様式を支えていた。しかし、一方でこれもよく思うのだが、俳句をやっていると、そういった生活スタイルとは違う生活様式が少し前までの日本にあったのだということを強く感じる。自然と共に生き、人々と共に生きる、いわば「俳句」的生活がそこにはあった。こういう風に書くと綺麗事のように聞こえるかも知れないが、そうではない。「自然」との共生、というのは単なるお題目ではなく、まさに俳句という作法の必須の核心として、いわばその根本を支える哲学として長く存在してきたものであることは、多くの俳人がすんなりと肯定してくれるはずだ。

しかし、そのような「俳句」的生活が少しずつ失われ、もはや「俳句」は今ここにはないのだ、と指摘する人もいる。であるとすればむしろ、今回のような災厄の起きた今こそ、我々はその「俳句」が宿し続けてきた哲学をきちんと見直すべき時ではないのか。と言って、別に火鉢と団扇の生活に戻れ、と言っているわけではない。しかし、過度なエネルギー依存の生活を見直し、さらにはエネルギーに対する取り組みをもっと個人レベルでも高めるなど(例えば太陽光発電といったものを個人レベルでも多用する)、できることはあるだろう。つまり、「俳句」に見られるような哲学によって、今の時代を再デザインすることはできるはずだ。それが今の日本にとってもっとも必要なことのように思うし、そしてそのことが成果を上げられれば、諸外国にも参考になるだろう。少なくとも今回の「復興」とは、自然環境の犠牲の上に過剰な資源やエネルギーを消費し続ける元の社会に戻すことが「復興」であってはならない、とこれは個人的な意見かも知れないが思っている。

さらに蛇足ながら言っておくと、俳句に見られるまさに“骨の髄までの平和主義”も、今もっとも必要なことだろう。各国と多くの領土問題を抱えながら、しかし今回の災害の復興でとても防衛費増額どころではあるまい。であるなら、防衛費の多くを復興に廻す代わりに、領土問題は「国際的な法と正義」にすべて委ねる、と宣言してしまってはどうだろう(別に各国の善意を信じるといった綺麗事だけではなく、例えば領土問題の解決策として多くの識者が国際司法裁判所の活用に言及している)。それこそが、大戦後に不戦を誓った、そしてもともと「俳句」的民族である日本人には正しいあり方だと、これもいささか夢想なのかも知れないが思う。

小説家のリービ英雄氏が、世界で一番有名な日本人は松尾芭蕉だろう、と語っていた。それはおそらく真実だろうし、別にロラン・バルトだけでなく俳句という存在が多くの外国人を魅了し続けてきたことも事実だ。そしてそのことを、日本人はもっと堂々と誇りに思うべきだ。我々は、古来から日本人が培い、そして多くの外国人も賞賛し続けてきた俳句に代表されるようなその美徳を、その哲学を、もっと素直に受け止め(決して難解な韜晦に陥ることなく)、再評価してよいと思う。

そしてこのような流れは、当然ながら俳句界の中でもあってしかるべきだろう。我々は今こそ、「俳句」を取り戻すべきだ。そしてそれは誤解のないように言っておくが、決して旧来的な俳句を墨守せよ、と言っているのではない。我々の生活が火鉢と団扇の生活は戻れないように、我々の俳句も子規や虚子には戻らない。だが、俳句的な哲学を生かして今の時代に合わせて再デザインすることはできるはずだ。

「俳句」とはひとつの美学であり、哲学である。このことは、俳句に携わってきた身として強く感じることである。そして、諸外国も強く賞賛してきたそのような美学を持つ国を、大きな災厄が襲った。だとすれば、僕は信じたい。ここには、困難だがその美学を持つ人々なら必ず乗り越えて照し出すことのできる、未来へ通じる道があるのだ、と。今回生じた多くの犠牲や悲しみを深く悼み、そして残された方が一日も早く「幸せ」を取り戻すことを祈りつつ、さらにその「痛み」を乗り越えて、再び日本人の美学や美徳が輝くことを、心の底から願いたい。「HAIKU」という世界に誇れる優れた文化を生み出した日本人に、そのことができないはずはない。

2 コメント:

天気 さんのコメント...

小野さんの記事にまつわる違和感について、
ウラハイに書きました。
http://hw02.blogspot.com/2011/03/blog-post_24.html

小野裕三 さんのコメント...

天気様 「ウラハイ」にてご丁寧に取り上げていただき、ありがとうございました。ひとつひとつ、ごもっともと思い拝見いたしました。ご指摘のとおり、今回書いた内容は、現実離れして、具体性もありません。というのも、今回のものは、この絶望的な状況だからこそ書こうと思った私にとっての「理想論」なのです。私の思いは、書いていただいたとおり、

≪「俳句的思考」のようなものが、生活様式のシフトに貢献することはあり得る。しかし、それには、もっと細かくていねいな作業の積み重ね(簡単に言えば、俳句の自然観って何? 自然との共生ってどんな?という検証の積み重ね)が必要です。それが結果として、ゆっくりじわじわと効果を及ぼすということはあり得ます(楽観的ですが)。≫

ということに尽きます。理想論で楽観論であることは重々承知の上で、それでもこの困難な状況に対してそこから一筋の光が射すことはないのだろうか、と思った次第です。
また、私の文章が少なからぬ方の心情を害したとしたら、それは私の軽率な思慮不足によるものであり、その部分についてはここに心よりお詫び申し上げます。