〔超新撰21を読む〕
どんな動物でも
ドゥーグル・J・リンズィーの一句……野口裕
肛門が口山頭火忌のイソギンチャク ドゥーグル・J・リンズィー
どんな動物でも、受精後の受精卵は、細胞分裂を繰り返して小さなビーズ玉のような細胞が寄り集まった球状の形態になる。球の内部は空洞になっている。それが凹んで、消化管が作られてゆく。多くの動物では、凹んだ先にもう一つの出入り口ができ、管状の消化器ができあがるが、イソギンチャクでは管にならず消化管の出入り口はひとつだけである。まさに、「肛門が口」であり、飲み込んだものは凹みの内部で消化され、消化しきれないものは飲み込んだ口から排出しなければどうしようもない。
そうしたイソギンチャクの生態と、山頭火の忌日が組み合わされる。ここで、山頭火のどんな句を連想しようが、それは読者の自由ではある。とりあえず、私は
うどん供えて、母よ、わたくしもいただきまする
を思いついた。いずれにしろ、山頭火の不器用な生き方とイソギンチャクの出入り口ひとつの消化器は、相通じるものがあるだろう。
作者は、深海の研究者らしく、海の生物を登場させると、長年の観察の蓄積から出たとおぼしき語の連鎖を紡ぎ出すが、その連鎖が決して読者の想像を妨げない。その特性が、季語との同居をすんなりと実現させている面がある。作者がそれをどう考えているかはわからない。しかし、とりあえずは、句のために有効に働いている。
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2011-04-03
〔超新撰21を読む〕 ドゥーグル・J・リンズィーの一句 野口裕
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