拝復 澤田和弥様
上田信治
■前略 上田信治様 ……澤田和弥 ≫読む
お手紙ありがとうございます。
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澤田さんに、返事を書こうと思ったんですけど、なかなかうまく書けません。
書いては、消し、立ち止まりしていたんですが、もうこの際、引っかかってしまったところを、正直に晒すことで、返信にさせてもらいます。
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分からなくなってしまったのは、近代文学がリアリズムを必要としたのはどうして? というところで、国民文学の成立を論じる人なら、国民意識の統合や、西洋由来の概念の記述のために、「国語」を創造する必要があり、その要求するところのものとしてのリアリズム文学、というんでしょうか。それ本当に本当かな、と(すっごい眉唾な気がする)。
「そのほうが面白かったから」と言えたら、いいんですけどね。
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芭蕉は、俳諧の遊戯性(≒共同性)に、私性を持ち込みましたよね。子規もそう。
「古池や」や「行く春を」は、永遠じゃないですか。「柿くへば」も「鶏頭の」も。
もちろん、あれは、ぜんぜん事実である必要がないし、作者名もいらないところまで達したような言葉なんですけど、なんていうんでしょう、それが準拠する文脈が消滅しても、なお何ものかが残るための元手(もとで)は、「私」しかないんじゃないか・・・というね。うーん、ナイーブだなあ。
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はじめは、澤田さんの言うことは素朴すぎて、俳句には接合しないという線でお返事を書いていたんですけど、どんどん自分の立脚点のほうが、素朴なところに下りてきてしまって。
俳句に「作者は正直でなければならない」という約束があるのは、俳句が、読者の読みの共同性に依存する「弱い」表現だからだ、というふうに「フェイク俳句について」では書いて、そうやって議論に「価値」を持ち込むことを回避してたんですけど。
いつもの話をリピートしても仕方ないかと思って、でも、そこを離れると今度は「本当のことのほうが面白いから」という、文学理論的にはたぶん擁護しにくいナイーブでスイートな話になってしまう。そりゃ、天気さんみたいに「それは句会の問題でしょ」と言えれば、かっこいいんですけど。もうちょっと、べたな話がしたいんです。
密室の約束事の元に成り立っていた表現が、世界性を獲得する奇跡があったわけでしょう? 芭蕉はダヴィンチと同格ですからね。
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話、もどしますけど、「フェイク俳句」っていうのは、偽ドキュメンタリーと言ってもいいんですけど、作品にわざと「私」と書き込んでおいて、そこから「私」をひっこぬく書き方です。「私を見よ(そこにはいないけど)」という形で、私性を打ちだしているとも言える。
だから、やっぱり天気さんの「にんじん 結婚生活の四季」は、作者名があってこそと思います。
「天気さんを知る人にとっては」「澤田さんを知る人には」なんて、ふつうは書きません。それは、その部分「込み」で読むことを、作品が目くばせで主張していると思えばこそです。(や、でも「にんじん」すごく読者に受けてたしなあ。やっぱりこの世には「真実」ってものがあるのかしら)。
澤田さんの「ママ今日の松茸が大きすぎるよ」と「爽籟や胸の谷間にボンジュール」(「艶ばなし」週刊俳句179号)は、以前同世代150句アンソロジーを作るとき迷った作品なんですけど、やっぱり「私性」の項目に入れておけばよかった、かも、と。
これが、ベタなジョークか、ベタなジョークを装った作品か。そしてそのことが、作者名抜きで(解説抜きで)、通じるかどうかがネックでした。でも、ダミアン・ハーストや村上隆といった現代美術のスキャンダリスト達みたいな「扱いに困るオーラ」が、澤田さんの句からも、出ている。
すくなくともこの作品は、澤田さんがたとえに挙げる「平凡な主婦が実体験したことのない不倫の短歌」における「純然たる真実」というようなレベルで書かれてはいない。もっと、たちが悪いというか、高度で洗練された表現だと思います。
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「俳句と作者名をセットにして鑑賞することは、結局「第二芸術論」の問題提起に立ち返ってしまうのではないでしょうか」(澤田さん返信)。
えーと多くの俳人が、桑原武夫の立論に怒ったのは、自分たちの俳句はふつうに芸術だと思ってたからですよね。俳句が作者固有名を離れて成立しないとしたら、それは、閉じた空間における座興かお座敷芸のようなものでしかない。虚子は、宗匠俳諧のことも良く知っていたから「俳句も第二芸術にまでなりましたか」と言って、よろこんでいられた。
澤田さんや天気さんの作品は、その二流性から、さらに過激に退化してみせることで、逆説的に、個人の表現として成立している。いわば、一周回ってうしろから桑原武夫の頭をはたくみたいな表現なんで、ぜんぜんだいじょぶだと思いますよ。
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でも、なんで、あんなややこしい俳句書く人が、そんな素朴なこと言いますかw まさか、まさか、ぜんぶ、マジなんじゃ、ないでしょうね。
ひ〜〜〜〜〜〜(恐怖の叫び)。 敬具
上田信治拝
1 comments:
≫近恵さんのご自分の記事への補足コメント
≫神野紗希さん フェイク俳句のこともちょっと
天気さんブログ フェイクとフィクション
ご反響をいただき、ありがたいことです。
もともと、フェイク俳句の話は、「読みの共同性」に支えられた表現ジャンルである俳句ということを言いたいために言い出したことです。
つまり、見えない「地」を可視化するために、特異点としての「図」を示してから反転する(それを図たらしめている地とはなにか、という)、つもりだったのですが、主に、それは本当に「図」だろうかという話になってしまいました。
どっか、自分のはじめの問題意識にピントのずれたところが、あるのかもしれません。
あ、前記事に澤田さんから最後にいただいたコメント、「他の文学のモラルが通用しない」と自分が書きましたのは、よく言われる「芸術作品の価値は、その作品外の何ものからも担保されることなく、それ自身をその源泉とするべきだ」というようなふつうの芸術論のことですが、別段それに対応する俳句独自のモラルがある、と言っているのではないです。そこんとこは、すいません、誤読ということで。
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