【週俳3月の俳句を読む】
三宅やよい
ぎゅうと煮詰まる
咽喉元に不安がこみ上げる日々を重ねて三月が終わった。この期間、生と死と言葉と生活と彼の地と此の場所と、なんだか心はごった煮状態で、落ち着かず、それでも句会に足を運んで、いつもの仲間に会うと明るみにぽっかり浮かびあがってぱくぱく息を吸っているようで、ああ、俳句をやっていてよかったなぁと思ったりした。状況は決して良くなったわけではなく重い現実は続いているのだが、そのただ中に金原まさ子さんの作品「牛と葱」は魅力的に息づいている。
ああ暗い煮詰まっているぎゅうとねぎ 金原まさ子
ぎゅうぎゅう詰めの「ぎゅう」かと思いきや題名にそのヒントが隠されていて思わず微笑。かといってああ、暗く煮詰まっているのは危機的な原発のみならず私たちの日常かもしれず、笑いかけた口元をぎゅっと引き締めざるをえない。のっぴきならない状況がこの言葉を誘発したとも考えられるが、その危機感にユーモアを交えつつ暗い鍋の中の牛と葱に姿を転じる手腕に脱帽。
二階からヒバリが降りてきて野次る 同
二階から降りてくるのは美空ひばりでもストップひばりくんでも可。もちろん本物の雲雀でも。下五の「野次る」マンガ的構図が魅力。
雉の首あげる弥明後日(やのあさって)なら 同
「弥」は中七切れの「や」かと思いきや、「やの」であるらしい。辞書を見れば間投助詞の「や」に終助詞の「の」がついたものとか。詠嘆を表すとあり古い語法らしい、歌舞伎の甲高い声で発せられる物言いに血の滴る雉の首がでろり。怖い。
剃るという噂やはり剃るリラの眉 同
冷涼な気候を好むリラの花。紫のライラックが剃りあとの青さを思わせる。剃りあとがあるのはリラの花そのもの。擬人化は人でないものを一方的に人に擬するものだが、この口調にはそうした強引な引きよせは感じられない、剃りあとのあおさは自分のものであると同時にリラの眉でもあるのだ。
曇る鏡面大向日葵が向けられて 同
これも向日葵の吐息が鏡を曇らせる。自分か向日葵かどちらが人で花であるのか。人間であって人でないものに変身するすべはそう簡単ではない。言葉に寄りかかると幼稚さが滲んだり読み手の反発を招きがちである。そんなことに気遣いを巡らしているうちは花にもなれないし、花を察することもできない。ああ、自意識なんて面倒くさいものは溶解してしまえばいい、と溜息をついた私であった。
第202号 2011年3月6日
■淡海うたひ とことん 10句 ≫読む
第204号 2011年3月20日
■金原まさ子 牛と葱 10句 ≫読む
■今井肖子 祈り 10句 ≫読む
■九堂夜想 レム 10句 ≫読む
第205号 2011年3月27日
■望月 周 白湯 10句 ≫読む
投句作品
■澤田和弥 土筆 ≫読む
■十月知人 ふおんな春たち ≫読む
■園田源二郎 日出国 ≫読む
■赤間 学 春はあけぼの ≫読む
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2011-04-10
〔週俳3月の俳句を読む〕三宅やよい ぎゅうと煮詰まる
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