2011-04-10

〔週俳3月の俳句を読む〕川嶋一美 一生懸命父親になってゆく

〔週俳3月の俳句を読む〕
一生懸命父親になってゆく
川嶋一美


雛人形美人とことん得なりけり   淡海うたひ

美人は三日したら飽きるなどと、男性はそれなりの人へ慰めのようなセリフを言う。そんなことは絶対にない!「美人はとことん得」である。男性ならずも女性だって、美しい人には見惚れる。少々性格が悪くてもだ。引き合いに出された「雛人形」の困惑を思うが、お雛さんを選ぶ際にも、やはり決定打は見目形。俳句として言わずもがなの感じはあるけれど、大いに共感し、大いに好感を持った。

足もとの渦潮の目と見つめ合ふ   淡海うたひ

「見つめ合ふ」、なんて何時のことだったか。我が家の犬でさえ見つめれば目を逸らす。見つめる相手が動物の場合は、相手の都合もあるから成立しにくい。この作品、一見「目」というキーワードから成立したような感じを持った。「見つめ合ふ」対象に「渦潮」を当てたのは経験上。仕立ての面白さが色濃くでている作品だが、映像でしか見たことのない「渦潮」を体験してみたい思いと、時には見つめる側が破壊されない程度の、息を呑むようなエネルギーと対峙してみたい思いに駆られた。
 


ああ暗い煮詰まっているぎゅうとねぎ   金原まさ子

昭和という時代を感じさせる作品だ。「ああ暗い」には、「煮詰まっている」鋤焼の状態と同時に、その時代を象徴するものでもあるようだ。嘗て鋤焼が食卓に上がるのは、一年に数回も無かったと思う。そして父の存在が絶対的な時代だったから、家族で鍋を囲むといっても、イコール団欒という和やかなものでもなかった。記憶の中にも「煮詰まっている」風景が思い出される。この句の「ぎゅうとねぎ」のひらかな表記からも、圧迫するような感情が見て取れる。平成の今、鍋の種類も増え、賑やかに健やかに鍋を囲む風景がある。一人鍋などというものも流行っている。そんな風景からは今後どんなものが生まれて来るのだろうか。

二階からヒバリが降りてきて野次る   金原まさ子

季語をどのように扱うかは、作家によってそれぞれ。私の場合、とてもついて行けなさそうなもの以外は、読みの幅は大きく持ちたいと思っている。この作品の季語は「ヒバリ」。雲雀のことで春。「野次る」の表記が憎い。「野」も「次」も雲雀を連想するものがある。「二階」という設定も計算づく。「降りて」来たのは、まだ嘴の黄色い娘さんか。高いトーンでまくし立てているのだ。言葉仕立ての作品みたいだが、春の日の明るさと、雲雀のイメージが良く活かされている。



雛寿司に野原の色を溢れしむ   今井肖子

雛祭りといえば菱餅がある。緑は蓬、赤は桃の花、白は残雪を意味するという。地方によっては黄色などが入った、五色の菱餅もあるという。春の息吹を表わしたものだろう。この作品の「雛寿司」も、直ぐに食べずに暫く眺めていたいほど色鮮やかなもの。「野原の色」との表現は、空の青さや風の心地良さまでも含んだものになっている。この度の未曾有の震災の被災地には、当分「野原の色」が戻ることは無い。そのように思って読むと、しみじみとしたものが感じられる。「溢れしむ」にも、被災地を思い遣る気持が籠められているような気がする。

泣きさうな子供に桜開きけり   今井肖子

泣いている子供ではなく「泣きさうな子供」のけなげさを思う。そもそも喜怒哀楽の中の「哀」というのは、徐々に育っていくものだ。感受性の強い子ならば、四・五歳位で芽生えるものかと思う。卒園式などで先生やお友達と別れる際、泣きじゃくっている子供を見かけたことがある。さらに年齢が上がると、その哀しみ堪えようとする。そうして心身共に成長していく。その時々の子供達を、なだめるように励ますように見守っている桜。


   
シャボン玉吹くよ利き手を直されて   望月 周

「利き手」というのは普通右手が多い。左利きの人は、芸術肌だともいう。今はそんなことが頭にあるからか、敢えて子供の左利きを直そうとはしない。嘗て麻丘めぐみに「私の彼は左利き」という歌があったが、左利きというのはちょっと格好良さを感じさせるものがある。この作品の子供は多分、左利きを右利きに直されているのだろう。注意しているのは祖父か祖母。両親ではなさそうだ。昔人間は左利きを忌み嫌うものがあったよう。「シャボン玉」がよく吹けないのは左利きの所為ではなく、幼さのゆえだと思うのに、吹くたびに注意を受ける。漸く右手を使って上手に吹けるようになり、祖父母にたいそう褒められる。その子の「シャボン玉」の光景は、一つのエピソードとともに、確実に記憶されていく。

宇宙より女が還る桜貝     望月 周

宇宙飛行士には女性も混じる。日本の女性宇宙飛行士は、向井千秋さんと山崎直子さん。特に山崎さんは記憶に新しい。いわゆる時事も、この作品のように表現されると、忽ちファンタジーになる。かぐや姫が月に還っていったように。水の地球を代表するものとして添えられた「桜貝」が、労いを示すものなのか、或いは浦島太郎のように地球の様変わりを示すものなのか・・・



摘みて煮て食ふて土筆が糞となる   澤田和弥
一本の土筆落ちをり父の跡     

「土筆」というノスタルジーは、たいがい母へ向けられることが多いが、この作品群は父を扱っている点で、異色だと思う。女性は子供を宿した時から、実に単純にすんなり母親になれるのだが、男性はそうではないらしい。自分の身にはなんの変化もないわけだから当然かもしれない。男性は一生懸命父親になっていく。そんな父への不可解さを詠んだ作品だが、「土筆」をもってきたところに、父への恋しさが見え隠れしている。



第202号 2011年3月6日
淡海うたひ とことん 10句 ≫読む
第204号 2011年3月20日
金原まさ子 牛と葱 10句 ≫読む
今井肖子 祈り 10句 ≫読む
九堂夜想 レム 10句 ≫読む
第205号 2011年3月27日
望月 周 白湯 10句 ≫読む
投句作品
澤田和弥 土筆 ≫読む
十月知人 ふおんな春たち ≫読む
園田源二郎 日出国 ≫読む
赤間 学 春はあけぼの ≫読む


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