2011-04-10

それでもしゃかりきコロンブスなのだ 「俳句想望俳句」における自閉的ニュアンスからの脱却のために 藤田哲史

それでもしゃかりきコロンブスなのだ
「俳句想望俳句」における自閉的ニュアンスからの脱却のために

藤田哲史


「俳句想望俳句」って、これからの俳句を全て説明しうるものなのだろうか?

そんなことをここ一ヶ月、考えていました。

まず、この語のおそろしいところは、字義通りに「俳句と思って俳句を作る」というふうに解釈(これは私の勝手な解釈)すると、どのように俳句を作っても、「俳句想望俳句だね」と評されそうな印象を受けてしまうところにあります。

そもそもこの「俳句想望俳句」という言葉は、2009年12月に刊行の『新撰21』に収録された小野裕三さんの越智友亮小論「俳句を継ぐ者」において初めて登場したものです。この文章は、本来越智友亮の作家性に対する文章ですが、小野さんの筆は越智を含めた現代の若い俳人全体を射程内に置くものでもありました。この文章において小野さんは「新興俳句の俳人たちが季語・歳時記を離れて異空間としての「戦争」から詩を紡ぎだそうとした「戦火想望俳句」」のネーミングを元に、現代の若い俳人にとっての異空間(詩を構築する空間)として、「季語・歳時記」があることを指摘し、そのような若い俳人たちの俳句の傾向に対する言葉として「俳句想望俳句」という言葉を提示します。

この「「俳句想望俳句」の時代」における文章は大まかには、

(1)現在の俳句の傾向を示すために「俳句想望俳句」の定義づけ
(2)その定義づけの妥当性の確認
(3)情報化社会という時代を背景にこれからの俳句が質的に変革する可能性

の三つのパートで構成されています。なお、後半部分の情報化社会に関わる考えは、この文章に先行して、同著者による「俳句2.0」(初出「海程神奈川合同句集「碧」第4集(2007年5月))に詳しく現れています。

この最後のパートで小野さんは「俳句想望俳句」の時代に関する洞察をも加えています。「俳句想望俳句」に関わる最もチャレンジングな部分はここであって、このインターネットによる俳句ジャンルの質的な変革の可能性は、実のところ、具体的にかたちとなってあらわれているものではありません。しかしそれでも現在の地点から未来の潮流までをも望もうとする意志こそ、この批評の価値と影響力の強さがあると思っています。現状認識は誰にもできるけれど、彼はその先までも見通すことに挑んでいるのです。そして、私はこの「予言」の意思と、その字面の巧みさに縛られそうになるわけです。

とは言え、このキャッチーすぎるくらいにキャッチーな「俳句想望俳句」という言葉の定義づけは、自分の印象によるものでは決してありません。「俳句想望俳句」の条件というのが小野さん自身によってきちんと書かれているわけです。

先に述べておくと、この「俳句想望俳句」には「肯定」と「フェティシズム」の二つの条件があるようです。「肯定」とは、俳句に対する肯定です。小野さんは「俳句想望俳句」以前の俳句のあり方について「近代という時代との軋みの中で、俳句を突き動かしてきた衝動は俳句に対する肯定よりもむしろ否定だった。俳句から逃げようとする力が俳句を進展させてきたし、実際に新興俳句、前衛俳句と呼ばれた運動もそういったものだったと位置づけることができる」というように捉えて、現在作られている俳句は従来と異なり「俳句を肯定する」特徴をもつことを指摘します。これが「肯定」です。

一方「フェティシズム」は「ポストモダンとも言われた状況を経て、「前衛派」といい「伝統派」といい、そういったものは対立というよりもはや手段のオルタナティブに過ぎなくなっている」と、現代における文学的な衝動の消散をもとに、

俳句想望俳句は、俳句を全肯定する。さらには、俳句を偏愛する。俳句に見られる作法を、その美意識を。その姿かたちや立ち振る舞いのすべてを。それは、一種のフェティシズムですらある。俳句に対するフェティシズムであると同時に、それを支える俳句的美意識に対するフェティシズムでもある。もっと言えば、日本語や日本文化に対するフェティシズムともそれは繋がりうる。

としています。ただ小野さんの文章中には、その「俳句想望俳句」が適用されうるような作品は一切挙げられていません。だから、特にどのような作品が「俳句想望俳句」としてイメージされているのか、わからないのです。

で、自分でそれなりに「俳句想望俳句」というものを考えてみると、やはり「俳句想望俳句」らしい作品や、そのような作品についての批評は、外山一機さんの「消費時代の詩―あるいは佐藤文香論―」(「豈」49号(2009年11月))だったのかな、と。外山さんは佐藤文香さんの「自転車の冷えてをりけり葛の花」他二句を引用し、それらの作品が「俳句表現史をその切っ先から遡行しつつ食いつぶしていくような消費活動である」とします。

近年の「新人」たちが俳句形式を選択する行為は、俳句形式の信頼というよりも、むしろ俳句形式へのフェティシズムに近い。僕らは俳句表現史を遡行しつつ、かつての俳句表現を切り刻み、貼り付け、組み立て、消費する。

この文章を読むと、この切り貼りというのは、ポストモダニズム文学の一特徴「パスティーシュ(幾つかの先行作品のパーツを切り貼りして一つの作品を生み出すこと)」そのものなんじゃないかと。「消費」という言葉にはやや否定的なニュアンスもまじりますけれども。

またこれに加えて『新撰21』刊行に合わせて企画されたシンポジウム「新撰21竟宴」での発言記録『今、俳人は何を書こうとしているのか』で、パネリストの関悦史さんの指摘が的を得ているのかなと。関さんは外山さんの言う「切り貼り」が、引用先の「本質に対して、ずらす、あるいは否定、完全に反転させる」パロディのみならず、「いかにも本物らしい俳句」にも適用されうる可能性を指摘します。そして、『シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術(椹木野衣)』における「シミュレーショニズム」の捉え方を援用するわけです。先行作品のサンプリングを複雑にして、より明らかな引用先へのパロディ性を打ち消したところに、佐藤作品の最終的な詩情の着地点があるとしても、サンプリングから大きく外れた新しい文体の確立が見られない点で、佐藤作品もまた「切り貼り」による作品、パスティーシュではないかと考えられるのでしょう。

そして、上に挙げたようなポストモダニズムのパスティーシュや椹木の「シミュレーショニズム」の手法は、俳句を「肯定」するという「俳句想望俳句」の条件に通じると考えます。考えてみれば、外山さんの作品も、秋櫻子の作品の音を引っ張ってきてはいるものの、再構築された作品の形式と意味に注目してみると、高柳重信の分ち書き作品における詩的虚構空間によく似てはいませんか。外山さんは単なる秋櫻子のパロディを成したのではなく、秋櫻子と重信の二つのサンプルコードをもとに作品を作った。彼は、語の選択の契機となる音のサンプルには秋櫻子の作品を、表記形式と詩情の着地点に対しては重信の作品を嵌め込み、「前衛」「伝統」の二つのカテゴリーからのリミックスを披露してみせた、そういうふうに私は捉えています。

先述の部分で「肯定」は、なんとなくあてはまりそうなことは確認しました。じゃあ、今度は「フェティッシュ」を示す作品で何があるだろうか、と今度は考えてみる。けれども、「俳句を継ぐ者」における「もはや、俳句の外をしゃかりきに掘り進むことは今の時代にどこか相応しくない。(中略)俳句のフロンティアは、俳句の中にこそある。」という小野さんの見方を是とすると、『現代俳句の海図(小川軽舟)』で名づけられた「昭和三十年世代」もまた「俳句想望俳句」の一種と言えることになります。「昭和三十年世代」を「皆が競って開拓できるような目に見えるフロンティアが残されてい」ず、「俳句形式から逃れることによる自由ではなく、俳句形式を完全にわがものとすることによる自由」を得た世代とする『現代俳句の海図』の記述は、「俳句想望俳句」の「(過去の)俳句の全肯定」と「フェティズム」によく呼応すます。しかしそうだとすると、なお、わからんのです。「昭和三十年世代」は情報革命以前から俳句を作っていたから、小野さんの議論に含められた情報化社会を背景として成立する「俳句想望俳句」に矛盾が生じてきます。とすると、「昭和三十年世代」を「俳句想望俳句」の枠組みから切りはなすためには、より狭く、かつ適切な条件付けが必要なのでしょう)

あるいは、もしかしたら、小野さんはその「フェティッシュ」について、虚子の「極楽の文学」という言葉から、「フェティズム」の条件についての説得力を加えようと試みたのかもしれなません。けれども、これにはやや飛躍があるように思います。確かに一見すると、虚子は戦争に対しても第二芸術論に対しても自閉的で、時代状況・時事的問題から逃避しているようにも思えます。俳句の中だけで自足する「フェティズム」らしい見方ですね。けれども、このような虚子の姿勢の本質はどちらかと言えば、そのニルアドミラリ的にすら感じられる精神の巨大さ、タフネスさにあります。

ただ、一方で「俳句想望俳句」の「フェティシズム」は、虚子の外界に対しどーんと構えるような感じではなく、「肯定」を合わせて条件に含めてしまったときに、やや自閉的なニュアンスを帯びてしまいます。「俳句想望俳句」が俳句を全肯定するとして、それでは、俳句の外から新しい要素を導入するのはアリなのか、ナシなのか。アリとすると、それは過去の俳句作品を使うだけでは満足してなかったんですか、あなたは!ということになる。こうすると、その「俳句想望俳句」は、少なくとも日本語への「フェティズム」はあっても、俳句形式に対する「フェティズム」はないのか、という妙なねじれ方になる。

だから、私は「俳句想望俳句」はどこかに自閉的な側面が隠れているように思っています。この自閉性は、虚子というよりは、あまりに繊細で、外界・他者を認識することをなく自己での完結を目指す、碇シンジ的な精神性のほうに近いなと考えます。

むしろ私は、情報化社会への移行による俳句に関するシステム(結社等)の変革の可能性を言及してしまうのならば、いかにもオタク的フェティズムによる「俳句想望俳句」的なものの対極に、何のフェティッシュのかけらもない作品が成立する可能性も十分にあることを示すべきではないか、と思っています。

もともとインターネットの大きな特徴は、情報量が膨大にすぎて、決して樹形図のようにカテゴライズされていないところにあります。わたしたちは、そこに検索機能というツールでもって情報に切り込んでいきます。世界の中は情報がごった煮の状態で存在し未整理のままで存在している。そして、各人はそのごった煮の中から任意に必要な知識を取り出していく。こういうことです。これは、膨大な知識量を所有するにしても、図書館の知識の収容のされ方とは全く質的に異なるわけです。図書館にある情報は、分野別にカテゴライズされ、使用言語別にカテゴライズされ、更にあいうえお順、アルファベット順に整理される。しかし、インターネットは自分自身の直感的思考に合わせて瞬時に反応してくれる。リンクを辿っているうち、あるいは語句選択と検索機能を重ねていくうちに最初に閲覧していたページと全く異なるページを閲覧していることが誰にもあるのではないでしょうか。

何が言いたいかと言うと、このような各人の思考(本能や無意識に近いところの思考)に任せた知識取得のツールからは、一方で「フェティズム」の強い「俳句想望俳句」も生まれえるだろうけれども、また一方で、全くフェティシズムによらず、閉ざされていない、極めてバランスのとれた(良い作品になるかどうかは不明だが)「遍愛」にもつながりうるだろう、と。それは具体的に言えば、常に新しい情報を既知の知識の上に積み重ねていって、個人の脳内がつねにアップデートされている、そういうあり方をイメージしています。

「「俳句想望俳句」の時代」と言いますが、現代の俳句の本当のアイデンティティは、情報や知識のつながりが網目状に存在し、そのつながりを各人が自由に往来できることにあります。そして、さらにその情報や知識のつながりが、俳句の中だけで完結するとも思えません。むしろ他のジャンル固有の要素が俳句内に入ってくる可能性は、情報化社会の登場によりかつてよりもずっと大きくなっているはずです。それは、偶発的な情報の混入でも全く構いません。たまたま閲覧しているページの広告でも、ツイッターに表示されたリツイートでも構わないのですが、それらがきっかけとなって、思考が育てられ、記憶として知識が蓄えられていく。そういった非論理的であっても直感的につながり合った知識が、俳句作品にアウトプットされたときに、偶発的にでも、ほんの少しでも、俳句以外の要素が混じりうることを私は期待するわけです。

これまで俳句に関する批評が、同時代の他ジャンルの批評と強い相関を持たせて論じられることは少ないようですが、「俳句想望俳句」という言葉自体は、現在の時代性をもって論じる必要性のあるきっかけを提示してくれました。俳句形式がジャンルとして存在しうるかぎり、単なる作家検証・作品鑑賞を主体とする批評では拾いきれない何かがあるはずです。いかに価値観が多様化しようと、人間は孤独に生きる種ではないですから。同じ世界に存在するかぎり世界に対する共通認識、その時代が向き合うべきテーマはきっとあるでしょう。

ただ、これからの俳句が、「俳句想望俳句」の枠組みの中で閉じてしまうのはつまらないなと。ひとまず私は、時代に相応しくないやり方を、「俳句の外を掘りすすむ」ことをしてみようと思います。しゃかりきに。あくまで自然体なしゃかりきで。純粋に俳句だけで俳句を再構築したとして、既に開拓されている領域にしか着地できないなんて、つまらない。俳句を壊すためというより、俳句を生かすために、俳句外の要素をどんどん取り込むといいんじゃないかな、って思うわけです。

「俳句想望俳句」という俳句の外界の存在を許されないようなこの呼称に疑問を持ち、かつ少しの反発を覚える裏には、ここで述べたような私の考えがありました。「指数関数の底は、一より大きい値に設定しておかないと、無限遠まで一より大きくならない」。何か閉塞感が一旦できてしまうと、澱んでしまいそうになるじゃないですか。

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