2011-05-29

彌榮浩樹「1%の俳句」を読む 関悦史

【週刊俳句時評第33回】
彌榮浩樹「1%の俳句」を読む

関 悦史


彌榮浩樹が「1%の俳句」で群像新人文学賞を受賞し『群像』6月号に全文が掲載された。その論文の序盤に次の一節がある。

この小論で明らかにしたいのは、先鋭的な文藝形式としての俳句の固有の性質についてである。最先端の世界文学・詩型としての俳句性の核とは何かの探求である。ただし、それは、ことさら前衛的な実験的な俳句について語ることでは全くない。もちろん、真に優れた文藝作品であるならば、そこには本質的意味での前衛性、実験精神、難解さは必ずある。謎のない一流の藝術作品など存在しないはずだ。しかし、そのことと、ことさら前衛・実験的な方向へ走ることとはまったく別である。俳句においては、数々のルールを破り実験的な作品をつくることは、実は、たやすい。しかし、俳句とは、わずか十七音に課せられたすべてのルールを無理に満たすところにその醍醐味が現れる、そんな文藝型式なのだ。

この「前衛的な実験的な俳句」の高らかな排除が単なる勇み足ではないことは後半を読むととわかる。つい先日更新されたばかりの「詩客」の俳句時評で、山田耕司が仁平勝、高柳重信等の引用部分等が発するどこか釈然としない感じの由って来るところを解きほぐしていたが、それらもおそらくは後半の写生論の、土台設定の恣意性から発している。

「1%の俳句」はまず俳句における一流品とその他多数の作品とを峻別しようとするところから説き起こす。彌榮浩樹は前者を1%の俳句と呼び、子規、虚子、蛇笏、素十、閒石らの作品を例として挙げる。後者は99%の俳句と呼ばれ、伊藤園お~いお茶パッケージの俳句が例示される。

そして前者に必須の要件とされるのが以下の三点である。

1. 俳句の異様な短さによる「一挙性」。
 2. 日本語のさらには言語の本質が、抜き差しならぬかたちであらわになる「露呈性」
 3. 1・2を前提にした、俳句の「写生」の正体。

1.の「一挙性」とは「季語」「切れ」「写生」「五七五の3D構造」「和歌の切断という出自」「笑い」「俳言」「切れ時」「空間」「時間」といった俳句の様々な特質が《わずか五・七・五という作品空間・作品時間の中に一挙に現出する》《異様な事態》を指し《その「一挙性」の中でしか、俳句の「写生」の本当の姿は見えてこない》とされる。

2.の「露呈性」で触れられている論点は二点、一つは日本語という言語体系の中で現われる「奇蹟」。これは「に」や「て」といった助詞が、俳句内において、複数の用法のどれとも割り切れない振る舞いをすることが日本語の奇妙さを「露呈」させるという事態をもって示される。

もう一つは、母国語として日本語を使う者同士の間に成り立つ共同主観が、名詞を提示しただけでもそれを詠嘆や感慨として授受することを可能にするという共同体性の「露呈」である(この部分は引用されている片岡義男『日本語の外へ』の平易な言い回しでは次のような事態となる《日本語の名詞としての本とは、本というもの、本というものぜんたい、本という実在物などではなく、自分にとっての本というもの、自分がかつて読んだ本、自分が思い描くことの出来る範囲内にある本、最近読んだ本、最近見かけたり手に取ったりした本などである》。この母国語内の共同主観があるから蛇笏の「くろがねの秋の風鈴」の句が、物だけしか提示していないにも関わらず感慨であるかのように受容されることになるという)。

前半はこの「一挙性」と「露呈性」の説明に当てられているので、詳細については本文を当たっていただきたい。

そしてこれらを踏まえて3の「写生」論となるのだが、ここがこの論文の土台部分である。この部分はネルソン・グッドマン『世界制作の方法』に依拠している。

ここで、俳句の「写生」を論じるために、ネルソン・グッドマンの「ヴァージョン」という考え方を採用したい。
 例えば、α「太陽は東からのぼり西に沈む」、β「太陽は西からのぼり東に沈む」、γ「太陽は動かない、地球が太陽の周りをまわっているのだ」という三つの言説があったとする。αは僕たちの知覚世界、βは『天才バカボン』の主題歌の歌詞、γはガリレオ・ガリレイの地動説だ。
 僕たちは、βではなくαを正しいと認め、なおかつ、それでもγだ、ということを知っている。

このα、β、γはそれぞれある「記述する方法」によって「記述されたもの」、グッドマンいうところの「ヴァージョン」である。彌榮浩樹のまとめでは《αとγの違いは、どちらかが正しくどちらかが間違っているというものではなく、ヴァージョン違いなのだ、という考え方。これは、実に的確に、僕たちにとってのαとγのいわば二律背反を解消してくれる。αは、日常的な知覚に即した記述であるヴァージョン、γは、日常知覚を離れたもっと巨視的な視野からの科学的記述というヴァージョンなのだ》。

βに関しては、正しくないのではなく《αやγに比べて相対的に正しくなりにくいヴァージョン》とされ《しかし、βが僕たちの「世界」について何も教えてくれないのかと言えば必ずしもそうではない。例えば、『天才バカボン』の主題歌の続きの歌詞のとおり、「これでいいのだ」という価値観を教えてくれるかもしれない。それは、αやγとは異なるかたちで僕たちの「世界」との関わりを賦活してくれる可能性があり、つまり正しいヴァージョンでもありうるのだ》とされる。つまり命題として真であるか偽であるかは価値判断には直結させられていない。それを裏付けるべくその後引用されているグッドマンは、フィクションである「ドン・キホーテ」を引き合いに出し、《「ドン・キホーテ」は字義通りに取れば誰にも適用されないが、比喩的に解せば、われわれの多くに適用される》と述べている。

問題なのは彌榮浩樹が、素十の「甘草の芽のとびとびのひとならび」を引きつつ、最も退屈で陳腐に見えるヴァージョンαを「一挙性」と「露呈性」とによってαとは全く異なるヴァージョンにしたものが1%の俳句であり、高柳重信の《「想像力の次元」に達した「詩」》を「ドン・キホーテ」などと同じように言語作品から現実に揺さぶりをかけ、再構成を強いる可能性を持つことに触れつつも、そこには「現実→言語作品」の手ごわさが欠けているとして、その方法を否定していることだ。これは俳句における暗喩、寓意、象徴等の方法、及びそれらの方法を用いた作品をほとんど捨てることに繋がる。彌榮浩樹本人には捨ててよいという信憑があるのかもしれないが。

1%の俳句の「写生」は、ヴァージョンαのもつ「堅固な基礎」の「鈍重」さを保ちながら、それが俳句であることにおいて俳句の様々な特質を「一挙」に現出する。それは、ヴァージョンαに似て(ある面ではヴァージョンαでもありながら)ヴァージョンαとは全く異なる独自の俳句作品として姿を現わす。
 これが、1%の俳句の「写生」のリアルである。

これが末尾近くにあるこの論の結論、というよりも土台となる認識で、つまり彌榮浩樹は退屈な現実としてのヴァージョンαに立脚し、それを「想像力」で「変形する」のではなく、「合成と分解」「重みづけ」「順序づけ」「削除と補充」「変形」等の方法で作り変えた「写生」句にしか1%の俳句=一流品となる可能性を見出していない。これは個人的な信憑以上のものではない。

夏目漱石は、写生文の書き手の、人事に対する態度を、「大人が子供を見る態度」と言っていたが、彌榮論文で主張されているのは、日常的であるヴァージョンαと巨視的であるヴァージョンγという、別次元の視点からそれぞれ強い正しさを持つ複数のヴァージョンを、助詞「に」や「て」の奇怪な所作を利用しつつ縒り合わせることが写生句に秘められた潜在性なのだといった話ではいささかもない。単にヴァージョンαに直に立脚したものしか認めないと言っている。

1.「一挙性」、2.「露呈性」という、優れた俳句の前提条件として提示された議論に恣意性や飲み込みがたさがあるとすれば、それはこの結論部の信憑から演繹的に発生したものである。この論文は、優れた俳句とそうでない俳句の差の定式化、及びその内実の定義に挑んだそれこそドン・キホーテ的壮挙(というのは、優れた俳句なる抽象的カテゴリの定義自体がほとんど不可能な作業だからで、具体的な個々の句から優劣を導き出す以外にやりようはなく、現にこの彌榮論文でも伊藤園俳句と特定少数作者の句を例示することによってしかカテゴライズは果たされていない)の見かけを取りつつ、あくまでも作家個人としての信憑に基づいた理論武装にしかなり得ていない。

グッドマン自身が観念論、実念論(実在論)、唯物論のいずれをも排する立場を取っており《世界よりもヴァージョンに焦点を絞るほうが得策》と述べる英米系の言語哲学者である以上、その論説に依拠した「写生」論が、言語により分節を被る以前の「物」や「存在」に対し、あえて否定はしないまでも一切触れずに進むのはそれ自体として首尾一貫しているが(彌榮論文の中で「現実」と呼ばれるのはヴァージョンという言説から織りなされる体系のことであり、素朴な意味ので事物のことではない)、では次の部分はどうか。

虚構(フィクション)はノンフィクションとほとんど同じように現実世界のうちで働くのである。セルバンテスやボスやゴヤは、ボズウェルやニュートンやダーウィンに劣らずなじみの世界をとらえ、質を変え、作り直し、とり戻し、それらを注目すべき、ときに難解な、しかし結局は首肯しうる(recognizable)―すなわち再認識しうる(recognizable)―仕方で鋳直すのである。

彌榮浩樹は『世界制作の方法』からこの部分を引用して、《新たなヴァージョンとして加わったその作品によって僕たちの現実の見え方が揺さぶられる、ということが作品の意義である》とグッドマンの見解を踏まえつつも、そこからなぜか高柳重信的な反現実・非現実の方向を否定し、ヴァージョンαの堅固さにじかに立脚した「写生」句のみを称揚する方向へ向かう。

しかし、このグッドマンの引用文は次にこう続くのだ。

しかし主題を欠き、字義通りにも隠喩的にも何ものにも適用されず、もっとも寛大な哲学者たちでさえ世界(それが可能世界か現実世界かは問わない)を描写するものとはまずみなしそうもない、純粋な抽象絵画をはじめとする他の作品についてはどうか。このような作品はドン・キホーテの肖像やケンタウロスの絵とは違って、空のびんにつけられた字義的ラベルとか中味の詰まったびんにつけられた奇抜な意匠のラベルなどではない。それらはそもそもラベルではないのだ。それではこのような作品は、いかなる世界との接触によっても汚されていない精神内の純粋者として、ただただひとりそれ自体で大事にされるべきなのか。もちろんそうではない。われわれの世界はシャルダンの字義的な静物画や寓意的な「ウェヌスの誕生」のような作品に劣らず、抽象的作品が表わすパターンや感じによっても強力に形成されている。どれか一つでもいい、抽象画展で一時間ばかり過ごした後では、しばしば、あらゆるものが幾何学的断片に区切られたり、ぐるぐると渦巻いたり、アラベスク模様に織られたり、白黒にきわだたせられたり、新しい色の不協和音で震えたりするものだ。しかし、字義通りにも文彩(あや)としても、何ものの描写も記述も宣言も外延指示もしないもの、あるいはその他の仕方で何ものにも当てはまらないものが、どうやってわれわれの住み古した世界をそのように変形できるというのだろうか。
 前に見たように、外延を指示しないものでも例示や表出によって指示をなしうるのであり、非記述的、非具象的作品であっても、それらに字義通りに、あるいは隠喩的にそなわる特徴に対する記号として、機能するのである。

つまりグッドマン自身の言説からは、世界制作としての芸術作品が必ず「写生」的な方法を用いなければならないというという必然性は出てこないし、いかにヴァージョンαの日常的知覚の世界が堅固だからといって、それを直に反映させた制作方法が優れているという価値判断も出てはこない。そこは彌榮浩樹の独創となるのだろうが、その独創が独断とは違うという根拠は見えてこない。部分的に光る創見はあちこちに見られただけに、それが信仰告白(山田耕司の評言)に終わってしまったのが惜しまれる。

この論文を生かせる可能性があるとしたら、いわゆる写生句を成り立たせる生理、その内実とはいかなるものなのかという視点からの読み直しであり、その際には考えるヒントが随所に見出されるのではないかという気がする。



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