奇人怪人俳人(三)
闘争と愛を貫いた看護師俳人
佐々木ゆき子
今井 聖
「街 no.81 」(2010.2)より転載
1945年8月9日未明、元帥ワシレフスキー率いるソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破棄して黒竜江を越えて怒涛のごとく満州国領に攻め入った。
日ソ中立条約は太平洋における日米間の緊張と、ヨーロッパにおける独ソの衝突の状況から、日ソ間でのとりあえずの紛争回避を狙って41年に締結したもの。
直接的には日本の影響下にある満州国とソ連の影響下にあるモンゴル人民共和国、それぞれの保全を図ったものであった。
太平洋戦争開始当時、満州に配備されていた「関東軍」は大本営の指令に依らず単独で満州事変や張作霖爆殺事件を起こしたことでも知られ、日本陸軍の中で軍備から言っても実戦経験から言っても最強、最大の精鋭部隊であった。
そのため戦わずしてソ連を威圧するほどの勢力を誇っていたが、太平洋方面の戦況が逼迫するにつれて関東軍内部の精強部隊は個々引き抜かれて各地に転用され、45年当時はまったくの張子の虎の様相を呈していた。
偵察等でそれを察知したソ連軍は満を持して空と陸から機甲師団の大軍をもって国境を侵してきたのである。
装備も兵員もすでに骨抜きになってしまった国境警備の日本軍はひとたまりもなく玉砕を重ねた。
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そのとき23歳の佐々木ゆき子は黒竜江省の東に位置する吉林省の都市敦化(とんか)に居た。
1922年、岐阜市長良古津に生まれたゆき子は女学校卒業後、親の反対を押し切って看護婦養成所(現岐阜医大看護学校)に入学。
子燕や白き華やぎ看護生
卒業とともに志願して満州に渡り満州鉄道病院に勤務。満鉄の職員富岡三郎と結婚して長女潤子をもうける。
ソ連軍侵攻の1年前である。
敵軍接近の報が入るやいなや、軍人、役人、病院の幹部はこぞって即座に遁走。取り残された一般人とともにゆき子は3歳の潤子の手をとり夫三郎とともに大本営命令による防衛ラインの敷かれた朝鮮方面に南下する。
途中でソ連軍の戦車に囲まれるが、ゆき子は髪を坊主頭にし、男の服を着てその場を逃れる。しかし長女は馬の餌のコーリャンを食べ食中毒で死亡。吉林、撫順と下る地獄の逃避行の果てに終戦。ようやく翌年46年に日本帰国がかなう。
掴み切りし黒髪の量敗戦日(前書 満州敗戦を思ふ)
滴りのきらりと壕の自決跡
友の屍を埋めしこの池芦の声
射程なる彼の八月の川渡る
ゆき子が訪ねて当時を想起した彼の八月の川が黒竜江なのか、あるいは敦化の近くを流れているその支流なのかはわからない。川と書かれているので大河にあたる黒竜江ではないかも知れない。しかし、どちらにしてもソ連軍の射程にいたという記憶がこみあげてきたのだ。
まひまひや子を満州に埋めて来し
どうしようもない現実の中での不可避の悲劇。しかし、母としての傷痕はゆき子の中で消えることはない。
帰国後、夫とゆき子は故郷岐阜で果物屋を開業。店は繁盛し、ゆき子は商売に精を出す。同時にゆき子は地元で俳句の選者をしていた兄、大野巨人の影響で俳句を始める。と、ここまで書いてきて思う。
ここまでのゆき子の人生は、大日本帝国の植民地政策と戦争の犠牲者としての一日本人の典型とも言える。大陸よりの引揚者の惨状についてはよく耳にするところでもある。引揚げの辛酸をなめたあと、戦後に苦労し幸福を得られた方の例も多い。
大陸に五十路の孤児は日焼けして
地球儀より消えし国かな初蛙
ゆき子の苦難の人生もここで終止符が打たれ順風満帆となり俳句など詠んで今日に至るかと思わせる。
ところが、ここからゆき子の激動の人生の第二幕が始まるのである。
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57年新しい商売を起こし東京で一旗あげようと夫婦は上京する。
夫は不動産屋を始め、ゆき子は看護士の仕事を再開。このとき清瀬療養所に勤めたのを契機に石田波郷に師事し「鶴」に入会。波郷が病院から抜け出して、石塚友二、ゆき子の三人で句会をするという幸福な体験もしてやがてゆき子は「鶴」同人に推挙される。
別の病院に勤務したとき、ゆき子は病院閉鎖の通達に対し、入院患者切り捨てに抗議して組合を組織し、3ヶ月ストライキを決行。このとき支援に駆けつけたいわゆる新左翼過激派、革共同(革命的共産主義者同盟)幹部の佐々木正文(まさふみ)と知り合う。この男との出会いがその後のゆき子の人生を180度変えることになる。
正文はゆき子より15歳年下、九州大学を出たばかりの細面、長身のインテリ青年であった。ゆき子は彼に長男の家庭教師を依頼する。
非合法の革命闘争を信奉する人を、非合法であるゆえをもって指弾するのは真理に照らせば筋が通らないと僕など思う。
俳人が好んで詠む小林多喜二や大杉栄、幸徳秋水、田中正造もみんな非合法の立場に立った。幕府の治世下においては坂本龍馬など勤皇の志士も非合法武装闘争グループである。権力がみずからに都合のいいように定めた「法」に対し、民衆の真の幸福を願うという信念があれば逆らって悪い理由はないではないか。「過激派」という俗称で志を判断してはならないと思う。
人は自分の正義感や倫理観に対し誠実であろうとすればするほど権力と対峙せざるを得ないのはむしろ自明の理である。「政治犯」とは「民衆の幸福」という大義の物差しをもって裁かれるべき存在であろう。
家庭教師とその母はやがて恋仲になる。世間的に言えばゆき子の方がいわゆる不倫という立場である。
62年、ついにゆき子は二人の子供を夫のもとに残したまま正文と出奔。正文の地元九州で暮らし始める。ときにゆき子40歳、正文25歳であった。
夫三郎はゆき子に戻ってくるように懇願する。思えば岐阜にいたときの果物屋もゆき子ひとりの切り盛りで繁盛していたのが実情である。
三郎は三味線などの芸事を好む趣味人。店はすべてゆき子にまかせきりであった。そのことを痛感している三郎はなんとしてもゆき子に戻ってきて欲しかったのである。
三郎は思案の末策を練る。小学生の次女みず季に母を説得に九州まで向かわせるのである。
三郎の策通りゆき子は訪ねてきた子を連れて実家に戻るが、それを追ってきた正文は三郎の面前で「ゆき子さんを僕にください」と言う。激高した三郎は正文を殴打。二人はそのまま再び九州へ舞い戻るというまさにドラマのような場面も展開した。
その後、ゆき子は三郎と正式に離婚。三郎は後添えを迎えて63年に他界する。
一方で正文が専従活動家であった革共同は62年に革マル派と中核派に分裂。正文は革マル派の側に立つ。この分裂を契機に二セクトは骨肉相食む熾烈な内ゲバの殺し合いの状況に入る。
62年は奇しくも二人が九州に駆け落ちした年である。それは偶然の符合か、あるいは党派分裂に際して強固な組織を構築する意図が正文にあってゆき子をいざなったのか。それは今はただ推測するのみである。
65年ゆき子は国立大阪近畿中央病院に勤務。正文とともに労働運動に没頭するが、70年に自宅で就寝中対立セクトに襲われて、夫は片目失明、ゆき子も鉄パイプで打たれ全身打撲の重傷で入院。
退院後、正文は行方不明となる。いわゆる地下に潜伏したのである。ゆき子はその間もいつかかならず自分には連絡があると信じて看護士としての勤務と労働運動に邁進しながら正文からの連絡を待つ日々であった。
七夕や彼のトロツキーの群れにゐし
ゆき子の30年を超える作句歴の中で政治闘争に関わる述解が見られる作品はほとんどない。この句を見出すのみである。
自宅に暗幕を張って灯の洩れるのも用心したという内ゲバから逃れる生活。同時に権力に対する闘争も主軸におかねばならない。対立セクトと官憲(公安)の両者から狙われるというまさに命を賭けた過酷な年月であった。
一方で反社会的というレッテルを貼られそれを自覚することで、古い価値観で育ったみずからの倫理観との闘いもある。看護士という職業はとくにヒューマニティが要求される。政治闘争についての回顧の句すらないという事実がゆき子の傷痕の深さを表しているようだ。
ただ、この句に出てくるトロツキーという言葉が、世間で言われる暴徒的意味合いで使われているとは思わない。
日本共産党が新左翼を自分たちと識別させるために、トロツキストという言葉を暴徒という意味合いで用いて以来、トロツキーは偏見の中に置かれるが、世界革命を唱えたトロツキーは官僚的なスターリンに対置される存在であり、純粋な革命志向という積極的評価もある。ゆき子もその思いで書いた句といえよう。ゆき子はトロツキストの群れの中にいたことを恥じる必要はないし、恥じてもいない。むしろそういう群れにいた自分に対し矜持をもって生きてきたのである。
6年後、正文が横浜で九大同期の牧師の家にかくまわれていることを知ったゆき子は、近畿地区の看護婦組合のトップの役割を辞して正文のもとに駆けつけ横浜で再び正文との生活が始まる。正文は長い潜伏生活の中で生か死か、ぎりぎりの選択に迫られていた。生を選ぶなら党派活動から身を引かざるを得ない。革マル派の中で穏健路線を提唱する彼は同じ派の中の過激路線のグループからも狙われていたのだった。正文はついに党を脱退する。そしてかくまってくれた牧師のもとで洗礼を受ける。ゆき子も数年後に受洗し、ふたりでキリスト者としての篤き信仰の生活に入る。
ここで文字通り生死をかけた闘争に明け暮れたゆき子の人生の第二幕が幕を閉じる。
そして闘争の果てに邂逅したキリストはゆき子にさらに新しい使命を与えるのである。
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ここからゆき子の人生の第三幕の幕が開く。
ゆき子は77年から聖マリアンナ病院に勤務。
80年に、通勤の道すがら「俳句教室」の看板に目を留める。思えば夫と子を置いて出奔していらい俳句どころではない生活がつづいたが、かつては「鶴」の同人として波郷にじかに手ほどきを受けた身である。俳句のムシがむずむずと湧いてきて思わず教室の扉をひらく。そこは横浜を本拠地とする雑誌「蘭」を主宰する野澤節子の教室であった。
ゆき子は野澤節子に師事して俳句を再開し、後年は師の晩年の医療のお世話をすることになる。
ゆき子は81年に病院を定年退職すると、横浜寿町の診療所に勤務する。寿町は大阪の釜が崎、東京と山谷とならんで、ドヤ街として有名。
「おんな赤ひげ先生」と呼ばれた佐伯輝子医師とともにボランティアとして労働者の医療に携わる。ゆき子は寿町に住み込み、この活動を15年もつづけるのである。
ドヤ街の住人にはさまざまな人がいる。やくざから逃げてきた人、左翼活動家、アルコール依存症そして故郷を捨てた人たち。喧嘩で刺され意識不明で運び込まれるような事態は日常茶飯事である。
ゆき子はそういう人たちから生きるということの意味をさまざまに学んだという。
春の月ビルの死角に漢寝て
カントの書抱へ無宿の冬うらら
水瓶を充して月とホームレス
作家の夢ドヤにひらきし敬老日
ゆき子が詠うドヤの人たちは、外側から眺めた興味の目や同情の目などとは明らかに異なる内側からの視点がある。
彼女の周囲に集まるホームレスはまるで哲学者ディオゲネスの集団のように見える。
70歳のときにやはりボランティアとしてネパールのハンセン病患者を収容する病院に1年間勤務。
その直前には肺癌切除の手術もしている。
なんという体力、精神力。
96年には最愛の夫正文に先立たれる。
夫の最後の言葉が「もっと美味しいものを食べたかった」というのを聞いて、僕は次女みず季さんから聞いた「母」の話を思い出した。
小学校のときクラスで弁当箱を開いて見せ合った。みず季さんの弁当箱には中心にご飯が敷かれてあるのは皆と同じだが、隅のオカズのコーナーの中に稲荷寿司が三個入っていたのである。ご飯と稲荷寿司のお弁当に、皆唖然としたという笑い話。
ゆき子さんの波乱万丈のこれまでの人生を見れば、とても料理に時間などかけていられなかったのも当然であろう。
そういう生活にゆき子さんを引き込んだ夫は、限りない愛と謝辞とウイットをこめて「もっと美味しいものを食べたかった」といったのである。
ともに闘ってきた二人の良き同志のような関係がうかがわれて胸が熱くなる。
舟虫よそこ散骨の夫の座ぞ
小鳥来る夫似の横に相席す
志を同じくした同志であり、ともに傷つき闘った戦友であり、生きる意味を教えてくれた師であり、15歳年下の弟のような存在でもあった正文は死してなおゆき子とともに歩んでいる。
2001年には、長野に転居して娘みず季と同居。その後二人は上京し、現在ゆき子はグループホームで俳句作りと信仰の日々を送る。
娘にとってゆき子は一度は自分を捨てて「男」のもとに走った母である。しかし、その母の奔放さと自分の気持ちの折り合いをようやく最近つけられるようになったとみず季は言う。
佐々木ゆき子とは一体何だろう。信念の人、自由人、意思の強い、一途な、女性的な、正義感に満ちた…。どれも少し違う気がする。うまく言えない。言葉が足りない。
闘い漂泊する魂、こんな感じか。俳諧世捨て人の漂泊とは正反対の、強く熱く生ナマしい肉体と解放された精神の持ち主。
(了)
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佐々木ゆき子三十句 (今井 聖撰)
子燕や白き華やぎ看護生
遠雷や解剖台のうさぎの瞳
大陸に五十路の孤児は日焼けして
掴み切りし黒髪の量敗戦日(前書 満州敗戦を思ふ)
滴りのきらりと壕の自決跡
友の屍を埋めしこの池芦の声
射程なる彼の八月の川渡る
ひくひくと守宮の息や玉砕地
望郷の銀河を泳ぐ漢かな
いま消えし手術場の灯や鉦叩
門川に神父が洗ふ葱の白
レモン五個並べ「死霊」を読み継ぎぬ
七夕や彼のトロツキーの群れにゐし
香水の仄と遺体を抱き移す
舟虫よそこ散骨の夫の座ぞ
小鳥来る夫似の横に相席す
ベランダに南瓜這はせて一癩者
水瓶を充して月とホームレス
人逝くを幾人看しや日向ぼこ
ハローワーク朝顔のみな我に向く
放浪の旅の生涯秋の蝉
我が涯を風に委ねむ大西日
寒林の道ひとすぢや往くほかなし
死ぬるまで塗るマニキュアや蜃気楼
ぽいと家抜け出す気まま木瓜の花
老いて独り軒の氷柱の太かりき
このまま果つるか春陽のど真ん中
どこまでも行けさう独り霧の中
八月の海消ゆるまでペダル踏む
生涯に記すことのなし著莪の花
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