2011-06-05

『里』5月号(2011年5月)を読む 生駒大祐

〔俳誌を読む〕
『里』5月号(2011年5月)を読む

生駒大祐


邪道とは知りつつも、「里」を読むときに僕はいつも「成分表」から読むことにしている。
それは、上田信治さんもまた「すーっと入る」(via すーっと入る)ことに心をくだく人であるので、
「俳句モード」になっていない心持で読んでも素直に読むことができ、
最後には話をちゃんと俳句に落として僕を「俳句モード」にしてくれるという安心感があるからだ。

喫茶店に営業時間があるように、俳句には十七音がある。この程度の自由すら使い尽くせないことは、あからさまな限界であり、神様は自分に本当に僅かの物しかくれなかった、という事実を端的に示している。 それは、とてもいいことだ。


さて、俳句モードになったところで、今回の特集である「牙城句集『誤植』始末」を読む。
藤田哲史さんの文章。
牙城さんには、一見技巧を目立たせた句にしても、それが憎まれる寸前で踏みとどまり、「憎めん奴っちゃ」と読み手に笑いをもって応じさせる。そこに牙城さんの諧謔の本懐がある。(中略)危うきに遊ぶ作風でもある。


という箇所。重要。

しかし一方で、牙城さんのおどけたところの裏に、何か恥ずかしがり屋の気分もなくはない。

という箇所。さらに重要。
しかし、それもおそらくは牙城さんの掌の上だろう(もちろん評の礼儀としてあえて掌に乗ってみせるということがあるのは否定しないが)。
「誤植」から読みとける素材は数多ある。句集名も、帯の文章も、句の文体も、技巧も、癖のあるあとがきもそうであろう。ここで僕はかの「3億円事件」に思いを馳せる。「犯人が残した遺留品が120点もあったため、犯人検挙について当初は楽観ムードであった。ところが、遺留品は盗難品や一般に大量に出回っているものであったため犯人を特定する証拠とはならず、大量生産時代の弊害に突き当たってしまった。」(via wikipedia:三億円事件

書評から作為的に文章を抜き出す。

詫びるでもなく、ましてや己を省みるでもなく、結局開き直るのである。(小豆澤裕子)
牙城にとって「妻」とは、いわば「俗」の表象。(山田耕司)
真実を詠うほどに、本気かどうか分からなくなるのは、人徳というものだろうが、妻子、あるいは「私」を詠う言葉を、あるやり方で念入りに設えると、「私」語りが特定の「私」の声であることを離れる、そういう方法があるのかと思った。(上田信治)


作為的に抽出した言葉を僕なりにまとめると、「平俗に徹することによって言葉が外向きに開くこと」。つまりは、「個別性のみによって開かれた特異点的普遍性」。

対談から作為的に文章を抜き出す。

牙城:いや、予算がないので思い切り安い本作りをしたんだ。
牙城:今回はテーマ別にボタン一つでエイヤッだよ。
牙城:で今回編集時に再読してみて面白かったから入れた。
牙城:でも言っておくと、読み返した時にぼくが一番大切にするのは、やはり、言葉が生かされているかとうかだね。今揚げてくれた句(引用者註:「父と子の隙間はぽはぽアイスクリン」「ありとあらあららあらゆるもの凍つる」「田んぼにとんぼとてそれだけのことである」の三句)にしても、季語からの題詠的な作り方をしているな。

作為的に抽出した言葉を僕なりにまとめると「現実の境界条件と俳人としての理想の両立」。砕いて言えば「これほど費用対効果の高い句集はないのではないか」。

いずれにしても、作者内外の人による「壮大なネタばらし」を存分に楽しませてもらった。

1 コメント:

牙城 さんのコメント...

生駒さん、ありがとう。
今回は本当に句集を出してよかつたと実感できてゐます。
句集を「読者」として楽しんでくれたなと思へる人が沢山をられるんです。
楽しんでくれる読者がゐたといふことは、いかなる批評にも勝る醍醐味でした。
そして思ふのは、生まれてこの方50ウン年、イヂラレキヤラでありつづけた自分をほめてやりたしといふことでもありました。
貴方も少し引用なさつてゐた小豆澤裕子など、たつた2頁の書評の中で、なんと三度も四度も、この句集は「面倒くさい」と呟き続けてをりました。イヂラレの極でありました(^-^)。藤田君にしても信治師匠にしても、タイトルで僕をイヂリたふしましたからね。
次の句集に向けて、僕はイヂラレキヤラに磨きを掛けなくてはならぬと、決意表明しておきませう。ありがとう。
さうさう、御蔭で「里」5月号と『誤植』が各1冊売れました。これにも御礼。ありがとう。