【週俳5月の俳句を読む】
「べた」と「どや」のあいだ
阪西敦子
べたなことは嫌いではない。それが真摯に、正直に、後先考えずに言われた結果、べたであるならば。
一方、「どや感」「どや顔」なんて使われて、最近引っ張りだこの価値観「どや」。まあ、なんていうか、下手をすると、それを指摘する方の人品もちょっと落とすような、また、後ろ暗い自意識を思い出させるような、強引で底意地の悪い言葉だけれど、さすがに流布するだけのことはあって、実に何かをうまく言い表している。結局、これが見えてしまったら、それはべたなことの魅力を台無しにしてしまうように思う。
ぶらんこにきて上履きと気づきけり 今村 豊
室内から―なんとなく前後からすると校舎から―ぶらんこに乗りにか、座りにか出てきて、ふと上履きのままであったということに気づく。と、書いてしまうと、これはもう、ちょっと、くさくって、「な、な、な、なんと、う、うわばっ」というのが聞こえそうで、駄目なんだけれど、句にそんな感じはない。「ぶらんこにきて」の「にきて」というところと、「上履きと」の「と」というところに、ちょうどよい曖昧さ、近視眼的なところがあることが真実味を増しているように思う。。これがもう少し詳しいと、意図して観察したような、気づいたのではなくてわざとそうしてみたみたいなことになってしまうだろう。アリバイは詳しいと怪しいということが、実感される。
ケータイがわつと警報後のおぼろ 白井健介
こないだ、テレビを見ていて(テレビばっかり見ているようだれど、その通りで、地デジ切り替えの都合で、15年使ったブラウン管のテレビを買い換えたところ、あまりの映像の進歩に目が離せなくなっている)、あの警報の音に、まだ、擬音が定まっていないなと思ったところだった。「わつ」とは、確かにその通りだ。もちろん、実際の事をよくよく思い出してみると、もっとうねりのある音で、そんな2音で表せるようなものではないのだけれど、特にこのように朧の中にあってはより実感に近いように思う。こんな、ありふれたところに答えが見つかると、やはり凝った正解よりも、なんだかとても驚く。
木の国に何有りやとて
鳥跳ねて李の香る奈良や京 花尻万博
この世のものと思えぬめでたさ。場所もだいたいだし、よりによって奈良や京。しかし、これがすんでにかすかな事実の鋭さを持つのは、「跳ねて」と「香る」によるものではないか。こんな物語を呼び出してなお、羽ばたいたり、囀ったり、齧ったり、転がったりしない、そんなところが嬉しいのではないか。
春日の口からメンチカツ溢れ 高崎義邦
「春日の」の切れの「の」の働きが、雅から俗、静から動、時の重なりから今ここへの転換を軽やかに行う。「切れ」を音で味わうときは、頭の中で樋口可南子に読んでもらうことにしているが(これも、いつか見たテレビCMの影響だ)、やってもらえば「の」がなんともよいことに気づく。メンチカツは言われてみれば確かに食べやすいし、食欲もそそるし、ついつい思うよりも早く口に入れすぎてしまうことがある。ぼーっとしていればなおさらのこと。そんな状態で口を聞いてしまえば、少し溢れてしまう事もあろう。なんでも持ってこられる「春日」だからこそ、かえってシンプルな事実が求められる。
第210号 2011年5月1日
■今村 豊 渡り廊下 10句 ≫読む
第211号 2011年5月8日
■白井健介 フクシマ忌 10句 ≫読む
第212号 2011年5月15日
■花尻万博 南紀 10句 ≫読む
第213号 2011年5月22日
■高崎義邦 ノンジャンル 10句 ≫読む
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2011-06-12
【週俳5月の俳句を読む】坂西敦子
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