【週俳5月の俳句を読む】
「過剰さ」を
生駒大祐
俳句における季語というものは特別な存在であることはまあ異論が無いと思う。
どう特別な存在かというのはそれぞれの人の認識によってことなると思うけれど、
僕にとっては「異物であること」がそれにあたる。
しかし、俳句形式に親しんでいるとき、しばしばそれを忘れてしまう。
それを思い出したのは、
認定ホームラン枝垂桜を越えたれば 今村 豊
の句を読んだときであった。
この句における「枝垂桜」は風景の中に確かに存在しつつも、
俳句の外からの視点に立てば(もしくは違う俳句感を持つ人が見れば)この句の中で「枝垂桜」は間違いなく異物である。
つまり、「あの木の辺りを越えたら認定ホームランにしようぜ」という言葉が想像されるこの句の状況に対し、
「枝垂桜」の持つ文字情報はいささか「過剰」すぎる。
その「過剰さ」のもたらす異物感を、僕はときたま見過ごしてしまう。
菜種梅雨たまごかけごはん用醤油 白井健介
筆先の紙に沈みし朧かな 花尻万博
灰皿は煙を統べて夏休み 高崎義邦
これらの句における「菜種梅雨」「朧」「夏休み」のもつ「過剰なディテール」は、
「なんで菜種梅雨なの?」「朧?」「休みの日じゃだめなの?」という声を跳ね除けるだけの必然性を季語が持っていることを逆説的に証明している。
季語の「過剰さ」を最大限に生かした句を、今の僕は愛している。
第210号 2011年5月1日
■今村 豊 渡り廊下 10句 ≫読む
第211号 2011年5月8日
■白井健介 フクシマ忌 10句 ≫読む
第212号 2011年5月15日
■花尻万博 南紀 10句 ≫読む
第213号 2011年5月22日
■高崎義邦 ノンジャンル 10句 ≫読む
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2011-06-12
【週俳5月の俳句を読む】生駒大祐
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