その他もろもろ毛呂篤
西原天気
祖母と母の浮名ぼろぼろその古墳 毛呂篤(以下同)
話のはじめなど、なんだっていいのだ。「何処より来たりしか」といった大いに物語的な問いにはじまってもいいし、そうでなくともよい。ある男には、母があり、祖母があり、その意味で、私たちとは、ひとり残らず、≪母≫より来たる者であって、そして、最後は灰になる。あるいは塵となる。
川のある地階七〇年のスラム
毛呂篤という俳人は、尼崎に住んだ。少し行けば淀川の、その河口近くは、スラムと呼んでいいかどうかは知らないが、あまり上品な土地柄ではない。
ここらですでに京都府だろう獨活すかんぽ
淀川を越え、大阪を過ぎって北へ。京都府はすぐだ。国鉄(いまのJR)、阪急電車、京阪電車、あるいは道路。
隠密韋駄天峠の蛭は眼を盗られ
いや、街道を歩いて、国境いを越えていく。蛭に眼があるのかないのか。盗まれたから眼がないのか。隠密などという数百年前の事物も、毛呂篤の句には居心地よく収まり、時機を見て大暴れする。
いろは歌留多のおわり都の天から金ン
キン。
テンション高いなあ。キンの二音で、読んでる僕らの体温も脈拍も、くくんっ、と上がる。
ちなみに、いろは歌留多の終わりは「す」ではなく「京」。「犬も歩けば棒に当たる」ではじまる江戸式なら「京の夢大阪の夢」で終わる。
京に水あり悉皆屋ありその名「もんや」
「そこ」に連れていってくれるのが俳句。
松は一月そして繪金の鯉ほしや
そして、ここにも金色がある。
金色は、上がる。アッパー系。いわゆるアゲアゲだ。
つぎからつぎから白いビルから鯛とびだす
さて、と、毛呂篤の句は、黄金の国ジパング時代の日本だけが舞台ではない。20世紀。
鯛も、上がる。白いビルからとなると、よけいだ。
黄道吉日とかやさざなみは鯛
うん、鯛は、否応なくアッパー系。
堀川の猿の甚平の銀行員
同じく20世紀。
花札を揃える娼婦は晝のコンクリート
昭和の日本。
誰れの人形だろう時雨の基地の角
戦後の日本。
漁港ですぼつぼつみんな晝寝でしょう
田舎もあるぞ、と。
夕立や有為轉變のところてん
なかなか調子がいい。
これはこれはどうもどうもの落花落花
繰り返し三連発。
同慶のいたりへちまと胡瓜に雨
はい、どうもどうも。
朝ぐものひらり單衣のひとりもん
舐めた口をきくと思ったら、ひとりもんなのだ。
あいつと夫婦(めおと)になるぞらっきょう畑全開
ほうほう。結婚?
しかし、どんだけ嬉しいのか、この人は。結婚が。
らっきょう男がこちらへポスターはハワイ
全開のらっきょう畑を、らっきょう男がやってくる。新婚旅行はハワイで決まり。
スカート巨大ならば南無三落下の鴉
空が一枚のスカートならば。
箱男らしきや澁谷百丁目
箱男もいるぞ、と。
むかし箱男あり三様の赤眼玉
否、箱男もいたぞ、と。
生姜男の朝寝へ朝の日の余滴
生姜男もいるぞ、と。
アルミ人間の発毛バクテリヤを殖し
アルミ人間もいるぞ、と。
才覚であらん阿礼ー助けてー
いや、あの、「阿礼ー」て。
春の橋からこれほどの景あるかハアー
「ハアー」て。
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毛呂篤は、もうこの世にいない。大正生まれ。親交のあった金子兜太よりも、たしか年上。もっと詳しく知りたい人は調べてください。
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さて、と。また句に戻る。
天に塔あり老鶯を白と決め
白。
白道や侠客に似て枯かまきり
白。
白色峠で白い飛脚とすれちがう
白。
猿楽と申すは白の夜(よる)なりけり
白。
マシマロに梯子左官屋の昇天
なんだか、白っぽい。
晴天へ喝采ああセールスマン的な
的な。
しんきろう的な高松市横状
的な。
俳諧に殺され霧と猫的な奴と
的な。
えあーぽけっと的な欒から朝日
的な。
ぼあァんとアラビヤそして妃がもうひとり
「ぼあァんと」て。
ミュウジックへ溶ける夕鳥のそれは
音楽ではない。ミュージックではない。ミュウジック。
惡場所が火事ニューミュウジックを買おう
2800円ほど。
松や松や凹凸組の大うたげ
大騒ぎである。
白鳥と鯉トーストいちまいの亂調
同じく、大騒ぎである。
召しませ鰻と花と三角地帯は雨
テンション、高い。まあ、だいたいの句がテンション、高い。
ことほどに左様ロレンスはつばき
けれども、声がでかい、というわけでもない。
ほしや純粋喉から雨が降るように
ときにポエティック。
卵黄というあけぼののあなたかな
ときにゆったりと。
開口やすっぽんにして花の欠伸
のんびりと。
福助のあいかさなりてQの意識
なんだか文学的?
先ずは馬の頭あり蚊柱の直情
スピーディーだ。
大牛が三角法で来た並んだ
牛のスピード。
卒塔婆へ雪とんできて大雪
雪のスピード。
僧兵無情消えてしまえば美の鳥鳥
ともかくスピード。
伊勢走る大変春の人と馬鹿と
走れ。走れ。
石あって新鮮うぐいすは近い
もうすぐだ。
蜩が吹かれる今日だもう来るな
え?
五月惨惨たり鶯の顔が五つ
鶯が、いきいきと。
澤蟹の器器楽楽の自閉症
サワガニの内面。
草淵というか百足の炎えている
ムカデの風景。
楽章「3」のこおろぎ芋豊作
音楽もこおろぎも芋も、総じて元気。
なまずのようないもりのような腹上深夜
どっちやねん?という。
菜の花が一番である・寝たか
いいえ、まだ。
銀百貫で遊ぶそのついでに伊勢も
つまり、遊べ、と?
雁かえる九月三十三日の夕方
その他もろもろ。
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某日。某大型書店の詩歌コーナーに西村麒麟氏を見つけた私は声をかけた。「おお!」と、おそれおののくようなリアクションを見せた麒麟氏。二、三度しかお目にかかっていないが、私のことがわかったらしい。しばし歓談。
実は、毛呂篤のことを週俳誌面で紹介したいのだが、どうも「麒麟スタイル」になってしまいそうだと打ち明ける。
「問題ないっすよ」
と麒麟氏からは許諾をいただいたが、句に短いコメントをつけて、どんどん紹介していくというスタイルは真似てみたものの、感じや雰囲気はまるで違うものになった。そりゃそうだ。書き手が違えば、書くことは違ってくる。
じつは、タイトルが先。これも麒麟スタイルの重要なところ。
例:もつと、モジロウ
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/10/blog-post_17.html
もんでもみやま梓月かな
http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/02/blog-post_20.html
(シリーズ)ホントキリン(spica)
http://spica819.main.jp/kirinnoheya/kirinnoheya-hon
そこも真似てみたが、悲しいかな、オヤジ臭ぷんぷんの「その他もろもろ毛呂篤」となってしまった。
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毛呂篤という俳人は、大畑等さんの記事で知った。多大なる感謝。
大畑さんの毛呂篤は、ウェブで読める。
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/hatabow/kesamohaikukaa%20moro%20atushi.html
こちらもぜひ。
私みたいにいいかげんな書き方ではなく、きちんと毛呂篤を扱っていらっしゃる。
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ひとつ、当たり前すぎることを言っておくと、毛呂篤の句の大きな魅力のひとつは、韻律というか、リズムというか、調べというか、そうした音楽的な要素だ。しっかりとした音楽に、イメージの跳梁跋扈が乗っかっている。ひとなつっこい口調が、悦ばしくこちらに伝わってくるのも、その土台にある音楽の豊かさのせいだ。
俳句は、まず、調べである。音楽である。
調べのない五七五定型も、調べのない非定型・破調も、私には魅力がない。ただ、意味を、あるいは非=意味を「伝え」ようとする短文に過ぎない。逆に言えば、調べがありさえすれば、それでいい。満足なのだ。
毛呂篤の俳句。ああ、なんと音楽的な!
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毛呂篤という「作者」(詠い手)は、その俳句の中で息づいている。毛呂篤とう存在自体がドラマのように、私には映る。この人が句の中で何をするのか、何を言うのか、目が離せない。これは「ブンガク」とは、ちょっと違う。毛呂篤という人のアクチュアリティが、一句一句のアクチュアリティが、そのまま、音と映像になって、私たちを直撃する感じだ。総天然色、ワイドスクリーン、ドルビー。
これは、読むというのではない。私たちは毛呂篤を「浴びる」のだ。
ま、そんなわけですから、機会があれば、たくさん読んでみてください。毛呂篤を。
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≫100句ほど毛呂篤の詰め合わせ
≫この目でおがむ 毛呂篤の本いろいろ
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2011-06-26
その他もろもろ毛呂篤 西原天気
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