2011-07-31

八田木枯 戦中戦後私史 第3回 ホトトギス発行所とムーランルージュ

八田木枯 戦中戦後私史
第3回 ホトトギス発行所とムーランルージュ

聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫

承前:第2回 父の句、そして俳句少年以前

『晩紅』第17号(2003年11月25日)より転載


病院を抜け出して東京へ

木枯 俳句少年時代の思い出をひとつお話ししましょう。昭和十五年、十五歳のとき、肺浸潤と十二指腸潰瘍を患って、海軍病院に入院しました。おかげで嫌いな算術から解放されてうれしかったものです。夜の九時半ごろ、津をに東京行きの夜行列車が通ります。あるとき退屈な病院を抜け出して、その夜汽車に飛び乗ってしまいました。

――ええっ。病人なのに、ですか。

木枯 だれにも黙って、たいした荷物も持たずに、東京へ行くためです。実を言うと、一度だけではなかったのです。東京駅に着くのは、朝の六時半ごろ、朝食をとり、ぶらぶらして時間をつぶしてから、前の丸ビルの中にあるホトトギス発行所へ出かけるのです。発行所には前後四、五回は行きましたね。虚子先生や星野立子さんは、十時ごろに鎌倉から発行所に見えます。ほかに三人ほど事務の方がいましたが、東京牡丹会の指導者でホトトギス同人の市川東子房先生も和服姿で出勤されていました。

昭和十年ごろの「ホトトギス」雑詠欄に「丸ビルの八七六区あふひの忌」という句が載っていました。「あふひ」は本田男爵夫人の本田あふひさんのことですね。この句の通り、発行所は、丸ビルの最上階、八七六区にあったのです。

入口を入ると、左手に六畳ぐらいの応接間があって、そこの机の上に選の済んだ句稿が分厚く綴じて置かれていました。この綴りの選句は、すでに原稿になって印刷所に入っているのですが、まだ雑誌にはなっていないものです。そこで自分の句が、虚子選に入っているかどうか、句稿を一枚一枚胸おどらせながらめくり、確かめるのです。

その当時、句稿は雑誌に貼付の雑詠投句用紙を使うようになっていましたが、やがて昭和十八年ごろになると、以前のように半紙に墨書きして投句票を貼るという形式に戻りました。

――えっ、墨書きで投句していたのですか。

木枯 今でもはっきり覚えています。その綴りの巻頭は、「東京・川端茅舎」でした。今考えたら、そっと一枚抜いてきたらよかった(笑)。

――直筆ですものね。

木枯 その句稿に虚子先生の丸が赤鉛筆で、ぎゅっ、ぎゅっと付けられていました。端正な字でしたね、茅舎は。

とにかく巻頭から十人くらいまでは錚錚たる作家が並んでいました。風生、青畝、立子、青邨、僕の師の素逝…。

繰っていくうちに、四日市や津あたりの知った人が出てきて、一つぐらい丸が付いていると、「あいつ、通っとるわ」と思ったり、一句ぐらい丸の付いた自分の投句も出てきてほっとしたりするわけです。全然採られないのが大部分ですから、一句選ばれたといえば、たいへんなものでした。そんなふうに選句を調べて、またその日の夜行列車で津へ帰るわけです。

――ほんとですか。それは、病気の少年のやることじゃありませんね。(笑い)

木枯 帰ったら、病院で叱られたり、いろいろあったんですけれどね。ホトトギスの連中に、その選句結果を教えて上げると、「えっ、入っとった」と大喜びしたりするんです。

――そのためだけに、抜け出して東京に行ったのですか。

木枯 ええ。次号の「ホトトギス」を待っていられないというのと、薄暗い病院の中で、まずい食事を食べるのがかなわなかったんですよ。病気だといっても、とくに身体が痛むわけではないし、退屈だったんです。だから、思い立つと、鞄一つ持つくらいで、切符を買って汽車にさっと飛び乗るという感じでしたね。


レビューとチャーハン

木枯 実は、東京出てくると、ほかにも寄るところがあるのです。ムーランルージュ…。

――十五歳の少年が…。

木枯 ええ、当時、新宿にあった有名なレビュー劇場ですね。

――それを見に抜け出して来ていたのですか。

木枯 まあ、そうですね。

――さっきの話とだいぶ違いますね(笑)。

木枯 実は親戚の者が早稲田大学に通っていましたので、病気がだいぶよくなってからのことですが、その下宿に泊めてもらって、ムーランルージュの同じレビューを毎日のように見に行きました。あとで知ったことですが、石田波郷もムーランルージュが大好きで、ちょうど同じ頃よく通っていたそうです。

――その下宿に何日か泊まってから病院に帰ることもあったのですね。

木枯 だから病院では、ひどく叱られました。

――でも、元気になって帰ってくるのですね(笑)。旅費はどうされたのですか。

木枯 小遣いはもらえませんから、いろんなものを売って金を作ったんです。たとえば、親父の残した『現代文学全集』なんか、古本屋に一冊売ると、一円だったかな、とにかくそんなことをして金を作ってました。

――東京へ行く費用はどのくらいかかったのですか。

木枯 津・東京は往復で十円くらいでした。渋谷から新宿の往復運賃とムーランルージュ、そして牛丼かチャーハンを食べて、あわせて一円ぐらいでした。

――本は高かったのですね。

木枯 本は値打ちありましたね。とにかく病院に入っていると、昼間はそれほどでもないのですが、夕方になって薄暗くなってくると、うずうずしてきて、東京へ行きたくなるんです。だから、『現代文学全集』もあわせて二十冊以上売ったかもしれませんね。

――お母様などに気づかれなかったのですか。

木枯 亡くなった父の書斎にあったものですから、気にとめていなかったでしょう。

――お父様は、たくさんの蔵書を残されたそうですから、少年にとってはたいへんな財産でしたね。

木枯 新潮社の『世界文学全集』もたぶん五十巻ぐらいあって、あれもちょくちょく売っていました。金に困って本を一冊売ったというような文章を何度か読んだことがありますが、なるほど、本というものは値打ちがあるんだなと思いましたね。

ホトトギスの発行所の応接間に、選句の済んだ句稿の綴りがあるということは、あまり聞いたり読んだりしたことがありません。でも、もしかすると、東京近辺の人にはよく知られたことで、発行所を訪ねて虚子先生の選を確かめては、一喜一憂していたのかもしれませんね。

――丸ビルの最上階に発行所があるというのはすごいですね。

木枯 自宅で十分なのに、東京駅前のすばらしいビルの中に置いたんですから、それは虚子先生のすごいところでしょうね。「東京行進曲」に「恋の丸ビルあの窓あたり」という歌詞がありますが、あの歌が昭和四年ぐらいですから、丸ビルは、大震災のあと、大正末年に完成したのでしょうが、当時のもっとも有名なビルでした。

――東京では、ほかにどんなところへ行かれましたか。

木枯 東京と言えば、一番いいのはもちろん銀座です。東京を歌った歌謡曲でも、一番が銀座、二番神田、三番浅草、そして新宿は四番です。その新宿のムーランルージュ以外で僕が行ったのは、やはり浅草六区です。

金竜館とか常盤座のような実演の小屋によく行きましたが、よかったですね。昭和十年代は、シミキン(清水金一)とか、エノケン(榎本健一)、ロッパ(古川緑波)、金語楼(柳家)なんかが活躍していました。先輩の人たちは、浅草へ行って、屋台で天丼を食って映画を二本見て、五十銭だった、とか言ってものですが、盛り場といえば、やはり浅草でした。

銀座へは、親戚の早稲田の学生と一緒に、ビヤホールのライオンなんかに行きました。東京と地方の違いをいちばん感じたのは食べ物屋でしたね。

――そんなに違いましたか。

木枯 チャーハンが好きで、東京へ出てくると、よく食べましたが、チャーハンを食べさせる店なんて、県庁所在地の津でも一軒ぐらいしかありませんし、西洋料理の店が三軒ぐらいはありましたが、どれも若い者が入れるようなところではありませんでした。


陸軍省に勤める

――津では、句会などにも出ていらしたのですか。

木枯 津というより三重県の「ホトトギス」の句会に出ていました。

――十五歳の頃ですか。

木枯 病院へ入る前の十四歳の頃から行っていました。

――ほかに若い人はいましたか。

木枯 私と同じぐらいの、中学二年か三年ぐらいの者もだいぶ来ていましたね。そのあと、東京でも「ホトトギス」の句会に出るようになりました。

――病院を抜け出して、句会にも出ていたのですか。

木枯 いや、そうではなくて、その後、津から逃げ出しまして、東京で下宿して陸軍省にちょっと勤めるようになっていたんです。

――ええっ、どうしてまた陸軍省なのですか。

木枯 実は、親戚に陸軍少佐がいまして、僕が「東京へ出て来て勤めたい」と相談したら、「それだったら、陸軍省に来い」と引っ張ってくれたのです。それで勤めはじめました。

――いくつぐらいのときですか。

木枯 十六歳ぐらいですね。

――どんな仕事をされていたのですか。

木枯 仕事をするというより前に、陸軍省のようなお役所は、それは何時から何時とすべてきちんとしていますから、私のような者にはなかなか勤まらないのです。

とにかく陸軍少佐の伯父さんの一声ですから、すぐ「明日から来い」ということになったのですが、運悪く翌日が雨になってしまいました。何も持たずに伊勢から出てきたもんだから、傘がない。そこで「こんな日に出ていっても仕方がない」と思って、下宿で寝ころんで過ごして、翌日に出かけたら、「雨ぐらいで来ないとは何事だ」とえらく叱られました。

――すごい十六歳ですね。

木枯 そんなことがあって、三宅坂の陸軍省に勤めはじめたのです。晩紅舎(新宿区三栄町)のすぐそばにある市ヶ谷の防衛庁、ここに昔は大本営と参謀本部があったのですが、その参謀本部に三日に一度ぐらい、三宅坂から書類を届けに通っていました。

参謀本部は、木を敷き詰めた広い廊下があって、その廊下を、まるで今の北朝鮮の兵隊みたいに、大股でぱっぱっぱっと歩いて行かなくてはいけないのです。ぶらぶらしていようものならたいへんです、みんな軍人ばかりですから。そして、目的の部屋に着いたら、大声で「はい。だれだれ」と名のってから扉を開けて入り、書類を出すんです。すると、「よし」と言って、書類に判をぽんと押してくれるんです。「戦争が廊下の奥に立っていた」という、あれ、そのままですね。

まあ、そういう仕事をやっていたのですが、なにしろ朝は十時半ごろ出ていったり、早く帰ってしまったりするものだから、長続きしなかったんです。でも、あそこへ勤めたお陰で知り合ったのが、橋本石斑魚(うぐい)さんです。私よりは年上で、もう亡くなりましたが、「雷魚」でも一緒でした。橋本さんはしっかりした人で、当時、夜学にも通っていましたが、私の方はだらしなくて、夜学に行くと言っておいて、ムーランルージュへ…(笑)。

その橋本石斑魚も俳句をやっていましてね、それじゃ句会をしようと言うことになったんです。

――陸軍省句会ができたんですか。

木枯 いや、いや、そりゃ陸軍省は軍人ばかりだから、俳句をする人間なんかいないですよ。

――そうすると、どういうメンバーですか。

木枯 やはり、ホトトギスの傍系誌の人たちです。

――何人くらい集まったのですか。

木枯 「牡丹会」というのが、十人くらいですか。ほかにも会がありました。そうそう、いま思い出したのですが、四谷駅前の喫茶店で、俳句の会がありましてね、僕の句が天地人の天に入って、なにか褒美をいただいたことがありました。

  雲の峰東京駅は古りにけり

こんな句でした。たしか昭和十六年のことです。そんなわけで、東京に出てきてからも、あちこち句会に出ていました。もちろんホトトギス系の句会だけですけれど。


虚子の選に入る

木枯 ホトトギスと言えば、星野立子さんの句会は、参加人数を制限していましてね、通知が来た者だけしか出席できないんです。その通知を貰って句会に出たことがあるのですが、場所はどこだったか、後楽園だったかもしれませんね。そのとき、虚子、立子ほかに同人のえらい人が二人か三人いて、参加者は全部で三十人ぐらいでした。そのときに、僕の句が特選に入ったんです。

――えっ、虚子の特選ですか。どんな句ですか。

木枯 ずいぶん老成したような句なんです。

  上厠使うことなし濃山吹

――いい句ですね。でも、なんで十六歳でこんな句をつくったんですか。

木枯 というのは、やはり僕は「ホトトギス」のこういう句に影響されていたんでしょうね。だから昭和十六年から十七年にかけて「ホトトギス」の雑詠欄にに入った僕の句は、みんなこういった句ばかりですよ。昭和十九年ごろになってくると、新興俳句みたいな句を作ったりしましたけれど、それまでは、みんなこういう句です。

――八田木枯という名前をみんなに覚えられてしまいますね。

木枯 八田木枯という名前は、字画が少なくて、わりに目立つらしいんです。それと、名前を見て、みんな六十歳ぐらいと思っていたらしいんですね。顔を合わすということも、めったにありませんから。

――名前だけじゃなくて、句も老成していますよ(笑)。立子さんの句会には、若い人はいたのですか。

木枯 それはいませんでしたね。それと思い出すのは、あのころの句会には、必ず、隅に披講専門の人が座っていたことですね。すばらしい声で、節回しがよくて、ゆっくり披講していくんです。そのひとが読み上げていくと、どんな句でも名句のように聞こえてくるんですよ。

僕なんか若いから、隅のほうにいるんですが、句が披講されて、「木枯」と名のると、だれだろうと後を振り返る人もいましたね。

――特選を取って、虚子先生の短冊とかご褒美はいただけたのですか。

木枯 いや、「玉藻」の句会は、そういうものはありませんでした。

――ホトトギスの句会というと、ほかにどんなのがあったのですか。

木枯 東京では、「牡丹会」のほかに二つぐらい出ていましたね。

――少年時代の作品を集めた句集を現在、編まれていると、うかがいましたが…。

木枯 いま、ぼちぼち作業をしているところです。『八田木枯少年期俳句集』と題名だけは決めているのですが。

――何句ぐらい収められるのですか。

木枯 二百句ぐらいですね。「天狼」が昭和二十三年ですから、昭和十五年から始めて「天狼」以前の句がまだたくさんあるのです。というのは、戦争中、電灯の明かりが外に漏れないよう黒い布で覆いをして…。

――灯火管制ですね。

木枯 そうです。灯火管制をご存じでしたか。その電灯の下で、一万句を作ろうと思ってはじめて、七、八千句まで作ったんですよ。

――それは何年ごろですか。

木枯 昭和十七、八年ごろからですね。

――それでは、ものすごい数の句があるんですね。

木枯 あるでしょうね。たぶん「天狼」に入るまでに約四万句はあるでしょう。

――ええっ。四万句ですか。それでは、次回は、その少年期の作品についてうかがいたいと思います。



※写真は「週刊俳句」編集部によるキャプチャーと掲載。

(第4回に続く)

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