2011-07-24

週刊俳句時評・第39回 アニミズムの意味するところ 金子兜太掌篇 五十嵐秀彦

週刊俳句時評・第39回
アニミズムの意味するところ 金子兜太掌論

五十嵐秀彦


先日(2011年6月19日)、金子兜太が北海道現代俳句大会で来道、講演をした。
演題は「生きもの感覚」。
前半を小林一茶について語り、後半は演題にある「生きもの感覚」についてであったが、その中でアニミズムや定住漂泊という彼らしいキーワードがやはり出てくるのであった。
今回は、金子兜太とアニミズムについて少し考えてみたい。

彼は過去しばしばアニミズムということを発言しており、アニミズム俳句論というものがそこにあるような論陣を張ってきた。
しかし、私には彼の本意がいま少し理解できないと感じてきたのである。
アニミズムとは何か。
なぜ「アニミズム」という言葉を使わなければならないのか。
兜太さんが最初に言ったわけでもないだろうが、なんといっても影響力のある人だから、彼がそう言えば多くの追随者が出てくる。
俳句とアニミズム、俳句はアニミズムだ、などという発言は兜太の俳句論を背景にして発せられてきた。

私の違和感は、けっして反発や批判というところのものではない。
私も「そのような」感覚は理解できる。
兜太さんが言わずとも、この国にはそういう地霊的な信仰、あらゆるものに神が宿る、という文化がおそらく2千年以上にわたって続いているし、仏教が来てからもそれを「山川草木悉皆成仏」というように日本的に変化させてきたのだから、理解できるのは当たり前のことかもしれない。
だがしかし、それは「アニミズム」なのだろうか。そう表現することが妥当なのだろうか。

兜太さんが「アニミズム」と言う。それを聴いた人は、日本人が古代から持ち続けてきた自然信仰にそれを置き変えて、わかったようなつもりでいる。
当たらずしも遠からず?
そうだろうか。

アニミズムとは、欧米の思想から生まれた言葉で、知られているところでは、イギリスの人類学者E.B.タイラーの『原始文化』あたりから始まったもののようだ。
語源はラテン語のアニマ。意味は、気息・霊魂・生命というものらしい。
彼は「すべての物や自然現象に、霊魂や精神が宿るという思考」をアニミズムと定義し、宗教の原始的な初期段階としたのである。
そこから西洋に人類学が始まり、特にタイラーの強い影響を受けたフレーザーによる人類学の古典的大作『金枝篇』によって文化人類学、社会人類学という学問が一般に受け入れられるようになった。
彼らはキリスト教以前の宗教や民俗風習を調べることで、人類の文化の生い立ちと「進化」を知ろうとしたのである。(この流れがケンブリッジ・リチュアリズムと呼ばれる学問の流れとなり、実は折口信夫の民俗学的アプローチに影響を与えたとも考えられるのであるが、それを語るのはまた別な機会としたい。)

しかし、東洋人である私には、その初期の文化人類学というものにどこか共鳴できないものを感じる。

そこには、ヨーロッパ人が造りあげたキリスト教文化を最も進んだものとする優越性が彼らの中に動かぬものとして存在し、それ以前の文化や風習を全て原始的で未開なものとする偏見がある。

真理とは、仮説を繰り返し検証し、まやかしを排除してはじめてようやく引き出されるものだ。とどのつまり、われわれが真理と呼ぶものは、最も有効とわかった仮説にほかならないのである。そこで、未開時代や未開人のものの考え方や慣習を研究するにあたっては、彼らの誤りは真理を探究するときに避けられないふとした間違いにすぎないのだと、寛大に考え、大目にみるのが望ましい》 J.G.フレーザー『金枝篇(上)』(講談社学術文庫・吉岡晶子訳)p230より

アニミズムもその文脈の中で使われてきた言葉のはずだ。

未開人にとっては、この世界全体が生命ある存在で、樹木や植物も例外ではなかった。未開人は、樹木や植物にも人間と同じように霊魂があると考え、人間と同じように扱っていた》  (引用元 前例と同じ p142)

アニミズムというのが昔の人類にはあった。しかしそれはキリスト教によって一掃され現在の優れた文化が作り上げられた。まだアニミズムを大事にしている民族がいるが、彼らは未開の民なのである。という意味がこの言葉「アニミズム」の裏にあるように思えてしかたがない。

環境考古学の安田喜憲はその著書で従来のアニミズムについて次のように説明している。

たとえばキリスト教の聖者が踏みしめているドラゴンこそ、現世的秩序のシンボルである。超越的秩序の宗教が現世的秩序の宗教を弾圧していく。それが、これまでは当然のこととして容認されてきた。/なぜなら現世的秩序をもつアニミズムは、邪悪で猥雑で卑猥であるという考えが世界を支配していたからである。生きとし生けるものに等しい命の価値をみとめ、現世的秩序に最大の価値をおくアニミズムの世界は、超越的秩序の宗教を重視する枢軸文明よりも劣ったもの、邪悪なもの、文明段階以前の野蛮なものとながらく西洋世界ではみなされてきた》安田喜憲『一神教の闇 アニミズムの復権』(ちくま新書)p24より

もちろん、現代では文化人類学においてもそのような思想は古めかしいものとされており、アニミズムも現代社会へのカウンタカルチャーとして注目されているようだ。

だが、どちらにしても同じではないか、と私は思う。
アンチ・キリストも結局は熱烈なキリスト教信仰の裏返しであったことは歴史が証明しているように、自分たちの歴史や文化を基準にして貶めたり持ち上げたりしている西洋思想の限界からアニミズムという概念も無縁ではない。

そんなことを考えるにつけ、なぜ日本の文化を評するのに「アニミズム」と言わねばならないのか、という疑問をもってしまう。
外来語で人を納得させようとするのは、よくインテリや国家がやる常套手段だ。
また、こんなことを言いながら私自身気がつけば、「アジール」だの「マージナル」だのと言っている。それは反省すべきところだろう。
ただ、「アジール」も「マージナル」も幸いにも俳句の世界での言葉として全く勢力を持ってはいない。
それにひきかえ「アニミズム」は、実に多くの俳人の口から出てくるのだ。
金子兜太さんは、その巨頭であると言ってもいいだろう。

彼のような現代俳句の開拓者が、アニミズムということを主唱することに奇妙さはないだろうか。
奇妙だと私は思う。
そもそもどうして兜太はアニミズムという言葉をわざわざ選んだのだろう。
彼がその言葉を使ったせいか知らないが、俳人の間でよくアニミズムという言葉が使われているようだ。
汎神論とか精霊思想とか言うのではなく、アニミズムと言うものだから、そこには何かそう言うだけの意味がなければならないはずだ。

兜太さんがアニミズムをどうとらえているか、それを垣間見ることのできる発言が『語る 俳句・短歌』(藤原書店)の中にあった。

十八世紀にE.B.タイラーというイギリスの比較人類学者がおりまして、タイラーは「ものにはすべて生きた魂があると見ることがアニミズムだ。抽象的な概念にも生きた魂があると見る。何にでもあると見ることがアニミズムだ」と言っています。だけど私は、こういう、生きた魂があるということにも何か図式性を感じて、もっと生きたものでないといかんと思いますので、これにも賛成しない。これは一応、近現代におけるアニミズムの考え方の典型のようです。私は、人間の表現行為に於いて潜在して働いているなまなましい世界でなければならん。すなわち、さっきのように自然感に触れる、物象感を捉える、それがアニミズムだと、こう思うのです》 金子兜太・佐佐木幸綱『語る 俳句・短歌』(藤原書房)p109より

本能というのは危ないですね、「煩悩具足五欲兼備」で、本能の場合は悪いこともします。一茶のように本能を基本に認めてくれと言っている男ほど、欲の深いことをしているわけですから。しかし、それにもかかわらず彼の句はみんな生きもの感覚で、アニミズムを感じさせるのです。それは何だろうかと思ってみたら、彼はそういうものを持っている。本能の中にはそれがある。非常に欲どおしいものがあると同時に、美しい生きもの感覚がある。〈花げしのふはつくやうな前歯哉〉という句があります。自分の前歯が浮つきだしたときの句です。自分の前歯がケシの花のようだなんて感覚はすばらしい自然感だ。これこそアニミズムだと思います》 同上p110より

6月の札幌での講演で兜太さんは1時間半を原稿無しで一気にほとんど言い間違いもなく話しとおし、実に圧倒的であった。
その内容はおおむね上記の著書『語る』の内容を敷衍したものであり、その中で、アニミズムということも言ってはいたが、それより「生きもの感覚」という言葉のほうを多用していた。どちらも従来からの兜太的言い回しではあるが、しかし「生きもの感覚」というほうが、私には受け入れやすかったし、彼がそれを演題にしたところに、兜太のアニミズム俳句論の変化を見ることができるような気がした。
これまでアニミズムと言っていたものを「生きもの感覚」と言い替えているようだ。そのことが印象的であった。
そういえばどこかに兜太自身がそのことに触れていたのではなかったか。
探してみると、『金子兜太×池田澄子 兜太百句を読む』の最後にそれはあった。

(金子)「生きもの感覚。ただ「アニミズム」っていうとちょっと生臭いんだ。」 (池田)「そうなんです。「イズム」じゃなくって、もっと素朴な感覚、体を通した実感と言ったらいいでしょうか。無心に腹式呼吸をすると、そのお腹に深く秩父の地霊の土のような匂いがね。届くような感覚。」 (金子)「土の匂い……。山霊ですか、山の魂。山霊。地霊。」
『金子兜太×池田澄子 兜太百句を読む。』(ふらんす堂)p149より

池田さんの受け応えには、私のアニミズムへの違和感に近いものがあるように感じもする。
兜太自身は「ちょっと生臭い」というどのようにも解釈されそうな曖昧な表現にとどまっている。

しかしまあ、「アニミズム」も「生きもの感覚」も兜太のキャッチコピーのようなものなのかもしれない。
その言葉に触角を立てて、彼の俳句の世界に入っていけば、それで良いのであって、キャッチコピーは所詮それだけのことであるのかもしれない。

だから、「アニミズム」という言葉に何か「真実」めいた概念を結びつけるかのように用いるのは考えものだ、とも思う。
無条件の賛同でも、反発でもない、三つ目の道がある。そんな思うが浮かんでくる。
ふと気づくと、それはもう長く自分の中にある思いであるようだ。
民俗学は好きだが、文化人類学は嫌いだ、と、よく知りもしないくせに言い続けてきた私の思いがある。

純粋な客観もなければ、純粋な主観というのもない。
モノを見るというのは、内面を見ることでもあり、内面というものは袋小路ではなく、どこかで底が抜けているように別な世界に通じている。
個であることは同時に全であり、息をするたびに死に、そして生まれるという、一遍上人の教えが、今も表現の支えになると感じてきた私にとって、「アニミズム」という括りはどうも受け入れ難く、かと言って「アニミズム」を否定することも本意ではないと思っていた。
だから、「生きもの感覚」の方が「わかる」気がするのだ。
それはもう「アニミズム」と呼んだときに生まれる探究の道を閉ざす「わかる」なのかもしれないが、明晰さには欠けるかもしれない「わかる」という感覚の方を受け入れてしまう自分を見つける。
それは整理も分析もできない世界を是認することでもあるのだが、それでも良いのだとも思う。

90歳を超え、なお考え、そして感じようとしている男の存在は、それ自体が「意味」である。
答えを見つけることが目的なのではない。
金子兜太の講演は多くのことを聴くものに投げ与える内容だった。それは疑問を生み、またそこから転がり続ける。生命の連鎖と同期をとっているようにも思うのだった。

「生きもの感覚」とは、そのことであるのかもしれない。


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