成分表45
友人
上田信治
「里」2009年5月号より転載
十年くらい前に知り合った友人で、自分たち夫婦と同じような職業で、同じような時期に小金をつかんだ人がいる。
彼と知り合った頃よく話したのは「世間では、一度上げた生活水準は落とせない、というが本当だろうか」ということだった。つまり、自分も彼も、結構そんなことはないんじゃないか、と思っていたのである。
落とせるでしょう、そうした方がよければ。
ただそれは、実際にお金がなくなってみなければ、証明できないことなので、なるべくなら、そういうことはない方がありがたいのである。
その友人が、いま、病名の耳慣れない、いわゆる難病というやつで入院している。すぐ命に関わるということはないらしいが、この間、予防的にかなり大きな手術をしたと聞いた。
ときどき彼がベッドから電話をしてくるので、何年かぶりに、よく話すのだが、実は、一つ、すごく彼に質問したいことがあって、まだ聞けていない。
それは「世間ではよく、死ぬのは怖いと言うが、あなたはどうか」ということだ。
自分はどうも、想像力か同情心のどちらかに不足があって、仮定の話が苦手だ。たとえば、犬と猫のどちらが好きかと聞かれても、どちらも飼ったことがないから、よく分からない。そして(犬猫がそうであるように)自分の死というものはうまく想像できないので、「死ぬのは怖いのかどうか」と自分に聞いてみても、よく分からない。
それはたぶん、自分の精神的な幼さの表れなのではないかと思うのだが。
そこで、ひょっとしたら自分の死というものを、かなり身近に意識しているのかもしれない彼に、死ぬのは怖いかどうか、聞いてみたい。
怖いとしたら、それはバンジージャンプのような怖さか、あるいは、子供のころ、ぜったい親に叱られると分かっていてそれを待っているような怖さなのか。
死ぬのは嫌だけど怖くはないよ、と、彼が言ってくれたらいいと思う。
死という絶対的な運命とか、人間の様々な営為には死に対する意識が裏打ちされているとか、そういう考えは、ちょっとロマンチックすぎるのではないか、と思うからだ。
例えばそういう考えは、芸術に、日々のなぐさめ以上のことを要求して、全てを物々しくしてしまう原因のような気がする。
いや、芸術のことなんて、今はどうでもいいのだけれど。
大雷雨ぺんぺん草は立ち向ふ 藤田湘子
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