2011-07-17

八田木枯 戦中戦後私史 第1回 「ホトトギス」に始まる

八田木枯 戦中戦後私史
第1回 「ホトトギス」に始まる

聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫


『週刊俳句』運営より:

八田木枯さんのインタビュー記事「戦中戦後私史」を8回にわたって掲載させていただきます。同人誌『晩紅』からの転載です。大正14年(1925年)生まれの木枯さんが戦中、十代で俳句に触れてから終戦直後まで、当時の社会と俳句の状況が生き生きと蘇る好記事です。存分にお楽しみください。

なお、記事構成を担当された菅野匡夫さん、インタンビューの聞き手という大役を果たされた藺草慶子さん、そして八田木枯さんには、小誌への転載を快諾いただきましたことを心より感謝いたします。

『晩紅』第15号(2003年3月25日)より転載

藺草慶子前白

八田木枯といえば、戦後「天狼」に彗星のごとくに登場し、その早熟で完成度の高い作品で俳壇を湧かせ、山口誓子や平畑静塔に嘱望されながら、忽然と消息を絶ってしまった伝説的俳人として有名です。そして二十五年後に、いままでとはまったく違った作風で見事な復活を遂げた。その作品の変貌には驚くばかりです。

初期作品、たとえば二十二歳の作〈葉桜の大き枝あり折れ下り〉は、いわゆるホトトギスの伝統に則った写生句でした。つづいて新興俳句の中心であった「天狼」で巻頭を飾ったのが二十三歳。そのなかの一句〈汗の馬なほ汗をかくしづかなり〉について、選者の山口誓子は「こういう作品を以て遠星集を飾りたい」とまで書いています。

私が木枯作品に最初に触れたのは、塚本邦雄の『百句燦々』でしたが、そこで取り上げた二十九歳の作品〈洗ひ髪身におぼえなき光ばかり〉〈天にまだ蜥蜴を照らす光あるらし〉について、塚本は「戦慄に値する」と書いています。

そして、長い俳句中断のあと、句集『汗馬楽鈔』『あらくれし日月の鈔』『天袋』を経て現在に至ります。記憶に新しい平成十四年の作品では、〈痂(かさぶた)をこそぐる雁の別れかな〉〈戦死して蚊帳のまはりをうろつきぬ〉など。



木枯 役者なんかのもそうですが、芸談ほどつまらないものはない、といっている人がいますね。というのは、自分から話をすると、偉そうに見えてしまって、文化勲章を貰って喜んでいるような人が、なにが芸人で芸談なんだ、というわけです。だいだい落語家だって役者だって、どこかやくざ者みたいなところがあって、それだからおもしろいのに、構えて芸談をするようじゃ駄目なのですね。

――まあ、そうおっしゃらずに(笑)。読者としては、芸の話もそうですが、そこで語られる時代背景がおもしろい、ということもありますね。     

木枯 それはあります。自分が経験している時代が自然と話に出てきますから。僕らでも昭和十三年といわれれば、あんなことがあった、こんなことがあったと思い出します。それを順序だって文章にして残そうとすると、これはえらくたいへんなことになってしまいます。

話をするほうが、ずいぶんと楽です。昭和十九年、二十年になると、アメリカの飛行機が襲来してきた、ああ、灯火管制がはじまったなあ、とかね。ただ、灯火管制といっても事典で調べて、「ああ、こんなことかじゃ」、分かったことにはならないんですね。僕らの世代が灯火管制と聞いたときに、まざまざと思い出すいろいろなことや雰囲気を理解することにはなりませんから。

――でも、分かる分からないは別として、語らなければ埋もれてしまいますね。たとえば、ご出身地、伊勢の津(三重県)の人たちが当時どんなふうに俳句をしていたのだろうとか、どんな本が八田家にはあったのだろうとか、いろいろ知りたいことがあります。だいたい木枯さんの本名も知らないのですから(笑い)。俳句の出発点はどんなでしたか。

木枯 僕は、だいたい出発がホトトギスです。三重県あたりは、ほとんどの人がホトトギスだったのです。俳句といえば、ホトトギスという時代でしたから。慶子さんもよく知っている長谷川素逝、あの人は僕と同じ津の出身で、三高から京大にすすんで京大俳句会をはじめるわけです。平畑静塔先生も素逝と同級で、その先輩に日野草城がいました。草城は、もう俳句の秀才で有名だったそうですね。三高卒業の年に「ホトトギス」の巻頭を飾ったんですから。それが有名な〈春暁や人こそ知らね樹々の雨〉です。その当時の巻頭といったら、それはたいへんなものでした。水原秋櫻子、山口誓子、阿波野青畝が現れてくるのはこの後です。

僕がなぜ、生まれる前の古い時代のことを知っているかというと、家には昔の「ホトトギス」が全巻揃って置いてあったのです。惜しいことに昭和二十年のアメリカ軍の空襲の焼夷弾爆撃で全部焼けてしまいましたが。実は、僕の親父は昭和十二年に四十二で死んだのですが、その親父の持ち物だったのです。

――ずいぶん若死にされたんですね。

木枯 いや、あの当時はみんな早く死んでいるのです。長谷川素逝が死んだのは四十歳です。正岡子規は三十代で死んでますし、尾崎紅葉だってりっぱな髭をはやして年寄りに見えますが、亡くなったのは、やはり三十代ですから。

その亡くなった親父が俳句をやっていて、ホトトギスだったのです。慶子さんは、鈴鹿野風呂(のぶろ)という人を知っていますか。日野草城なんかと「京鹿子(きょうがのこ)」を創刊(大正九年)した人で、丸山海道のお父さんです。この雑誌はいわばホトトギスの子雑誌で、京都に住むホトトギスの同人などが加わった同人雑誌だったのですが、だんだんと鈴鹿野風呂が主宰のようになっていった。ただ、昔は主宰という言葉はなかったですね。

ホトトギスの子雑誌といってもそんなにはなくて、「京鹿子」のほかには、大阪の「山茶花」、あれは野村泊月が関係していたのかな、それと後になって大橋桜坡子(おうはし)さんが。大橋敦子さんのお父さんですね。主なものは、この二つぐらいしかなかったのです。「山茶花」には、昭和になってから後藤夜半とか森川暁水とか田村木國なんかが加わってきたのです。

うちの親父も、いえば「京鹿子」の系列だったのです。というのは、鈴鹿野風呂が月に一回ぐらい津にも来て句会を指導していた。そういうところにうちの親父も出ておったんでしょうな。ただ詳しいことはよく分からんのです。というのも、親父が死んだのが昭和十二年で、僕が俳句を始めたのが、その二年後ですから。親父があと十年でも生きとってくれたら、もうちょいといろんなことも分かったんでしょうが。

親父が死んでから書斎を見たら、「ホトトギス」が揃ってあったわけです。これははっきり覚えていますが、半年ごとに合本にして、きちっと製本されて並んでいました。そのころの「ホトトギス」は厚さが二センチもありましたから、それを六冊ずつ綴じた分厚い合本でした。それと親父の日記が何冊も出てきました。昔の人は日記をよく書きましたからね。実は、昨日、資料になるものはないかと、いろいろ探していましたら、日記が一枚だけ出てきました。私が生まれる二、三年前の元旦のもので、それ一枚しか手元にないのです。あとは全部焼けてしまいました。日記の中身は、商売人の家ですから、やはり商売のことですね。

――どんなご商売だったのですか。

木枯 材木商ですね。私の小さいことには、家には材木の納屋がずうーっと並んでまして、また林場(りんば)というものがたくさんあって、これに材木が立てかけて置くんです。材木は、紀州、奥伊勢から来ました。それから秋田、天井板などは全部あそこのものです。昔は海運だったんでしょうが、昭和十年代は鉄道が主流で、貨物列車で運んできて下ろすと、それからは馬車です。馬車ご存じでしょ。

――名前だけで、実物は……。

木枯 ああ、馬車をあまりご存じない。そうでしょうなあ。話がすこし横道にそれますが、佐藤鬼房さんの有名な句があるでしょう。〈縄とびの寒暮傷みし馬車通る〉、この馬車は荷馬車に決まっているんですよ。あの当時、トラックもたまにはありましたが、トラックに材木積むなんでことはなくて、だいたいが荷馬車か大八車でした。その馬車が、荷を運び終えて、夕方にガラガラ、ガラガラ帰っていくのです。馬方が馬を引っ張って。それを句にしているは、はっきりしているのに、だれだったか、乗合馬車と思い違いをして鑑賞していたのに驚きました。馬車が分からなくなってしまったのですね。

石田波郷が住んでいた砂町(江東区)一帯には、馬車屋が百軒ぐらいもあったんですよ。それが、朝になると、あちらこちらから、ぞろぞろ、ぞろぞろと木場を目指して集まって来たのです。それくらい多くの馬車があった。昭和二十年三月十日の東京大空襲のときに、砂町では馬が数知れず死んで、あそこは死んだ馬だらけだったというんですから。

木場で材木の運搬は、馬車と船でした。水路が縦横に走っていて、あれはいまの高速道と同じです。紀州から大きな船で材木持ってきて、こちらの鉄砲洲に着いて、別な船に積み替えて、それが深川のほうにどんどん入ってくる。とにかく、船だったら、大量の荷が積めるし、早いし、いちばん楽な運搬だったのです。昭和十六年、十七年あたりまでは船でしたね。

――そのころは、もう東京に行き来してらしたのですか。

木枯 そのころの話は次回にします。おもしろい話がいっぱいあります。すこし話を俳句に戻しましょう。先ほども言いましたように、十四歳くらいで俳句に興味を持って合本の「ホトトギス」を読んでいたなかで、いちばん感銘したのは、「ホトトギス」大正十四年一月号の雑詠巻頭の田中王城の句でした。この人はホトトギスの同人で骨董屋の主人ですが、そのときの句が〈かたまりてあはれ盛りや曼珠沙華〉です。ちょうど僕が生まれた時期の巻頭句ですね。発表された当時は、曼珠沙華の句でそんな句はなかったのでたいへんな評判になったそうで、とくに〈あはれ〉をこんな使いかたしたのははじめてだったそうです。

――お父様の蔵書には、ほかにどんなものがあったのですか。

木枯 父は文学好きでしたから、芥川龍之介とかいろいろありましたね。また、昭和のはじめにはいい本がずいぶん出たのです。たとえば、改造社の『現代日本文学全集』、菊判の大きな本でそれが五十巻ぐらい全部揃っていました。そのなかに「現代俳句集」という巻があって、高浜虚子、河東碧梧桐、西山泊雲、野村泊月、渡辺水巴などがはいっていました。それと「新興文学集」というのがありました。これはその当時の新しい作家を収めた巻で横光利一なんかがはいっていました。

――新感覚派ですね。新興文学というと、そのへんなのですね。

木枯 そう、そう、川端康成とか、当時はみんな新人作家でした。ほかには久米正雄とか。こうした人たちの登場で文学も変わってきたなという印象を多くの人が持ったと思いますよ。だいぶ後のことですが、誓子先生が「新興文学というのは、どうも分かりませんね」とおっしゃっているのを聞きましたが、訳の分からない文学が出てきたと考えていた人もいたんですね。

――俳句も新しい文学の影響を受けるのでしょうが、お若いころは、どんな文学が出てきたのでしょうか。

木枯 とにかく戦争中だから、新しい本はほとんど出なくなっていたのですね。だから、本を読むというと、みんな親父や先輩たちの蔵書のなかから探し出して、読むということでしたね。

戦争に関連して、私のいちばん最初の先生の、長谷川素逝のことをすこし話してみたいのですが、素逝は京大を出て、すこしの間、学校の先生をしていました。そして昭和十二年七月に戦争がはじまりました。いまは日中戦争といっていますが、当時は「支那事変」です。戦争がはじまると、すぐに、たしか八月の末ごろに素逝は召集をうけて砲兵少尉として中国に行き、各地を転戦するのですが、わずか一年足らずで病気になって帰還します。

そして、あの有名な『砲車』という句集が出すわけです。その序文で虚子先生が「戦争の生んだ文芸品の上乗なるもの」と大激賞して、たいへんな評判になります。当時、ラジオにもいろいろと取り上げられて、俳句を知らない人の間でもひろく知られるほどでした。

昭和十三年ごろになって、「新興無季俳句も戦争を取り上げなくては駄目だ」という風潮になってきて、戦火想望俳句というのが出てくるのです。これは、「俳句研究」が特集で、何人かの俳人に、ベストセラー、火野葦平『麦と兵隊』をテーマにした俳句を作らせたのですね。そのなかで日野草城が自分の俳句につけた「戦火想望」という題から来ているんです。

つまり、戦争がテーマの本を読んだり、ニュース映画の戦争実写を見たりして、俳句を作るのが大流行した。西東三鬼なんかも作っていますが、三橋敏雄さんも、そのころまだ十六、七なんだけれども、想望俳句を作るわけです。でも、やっぱり実際に現場に行って作ったのとニュース映画を見て作ったのは違う、といっていました。

――〈いつせいに柱の燃ゆる都かな〉というのもそうですか。

木枯 いや、あれはもっと後です。昭和二十年三月十日の東京大空襲があってからの句です。

――それでは実体験なのですね。

木枯 その前に三橋さんもいかにも新興俳句らしい戦火想望俳句を作っているんです。

――木枯さんは作らなかったんですか。

木枯 僕にもありますよ。実は、十代の句を二百ぐらいまとめて、『八田木枯少年期俳句集』という題にして文庫本ぐらいの句集を作ろうかな、と思っているのです。

――それ、あのまぼろしのホトトギス調作品なんかもはいっているのですね。それはいいですね。俳句をはじめたころはどんなふうだったのですか。

木枯 前にもいいましたが、十四歳ぐらいから、ぼちぼち俳句をつくりはじめたのです。あの当時は、俳句会というのは一月に一回ぐらい、津とか四日市とかで開かれているくらいで、三重県全体でも三つか、四つぐらいしかなかったのじゃないかと思うのです。

――お父様が生きてらしたころに句会に連れていかれたということはなかったのですか。

木枯 いや、それはないんです。ですから、蔵書のホトトギスを見たというのが、いちばんの影響でしょうね。そういう意味では、俳句をはじめたのは親父の影響ということになるんでしょうな。親父の句が百五十句ぐらい残っていまして、それを一冊にまとめてみたいとも思っているんですが。

――それは「ホトトギス」に載ったものなのですか。

木枯 「ホトトギス」というより「京鹿子」とか、日記に書き留めていた句ですね。その中に、虚子先生にとられた木枯の句があるのです。昭和三年か四年に毎日新聞の主催で全国の名所の句を募集したのですが、それに親父が北海道に行ったときの句を応募して、虚子先生の選にはいったのです。

――ああ、あの有名な。杉田久女の〈谺して山ほととぎすほしいまま〉や水原秋桜子の〈啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々〉などが特選だったので知られた企画ですね。

木枯 ええ。入選句を全部集めた本が刊行されていたんですね、寺澤一雄君が「木枯さんのお父さんは、八田海棠というんでしょう、お父さんの句が載ってますよ」と本を買って持ってきてくれました。慶子さんは、大沼というところを知っていますか。 

――はい。行ったことがあります。

木枯 そうですか。私は行ったことがないんだけど。その大沼で〈木枯や沼に繋ぎし獨木舟(まるきぶね)〉という句を作って、その句が入選したのです。

――ああ、いいですね。え、もしかして、それで木枯という名にしたのですか。

木枯 ええ、その句があったので、僕は木枯という号にしたのです。


(第2回に続く)

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